2
氷を砕いて風にしたような冷気が、尾羽の町に降りてきていた。朝から灰色の雲が空を覆い、隙間から射し込む太陽も、明るいだけで、きん、と冷えている。
「小和の言った通りになりそうだねぇ」
店の厨房から中庭を見遣ったおかみさんがそう言って、着物の袖を
茶釜には
縁台は、庭の椿の垣根の傍に置いた。右端には大きな松の木があって、縁台の上に大きく枝を広げている。左端には釜と道具棚を置いた腰高台、それに、
「洗い物、ありがとうございます、おかみさん」
「良いから、そろそろ火の準備しな」
「はい」
頭を下げて
空気が芯から冷えている。
箒とちり取りを片づけ、店の厨房奥の物置から、
からからと店の格子戸を開けて先に姿を見せたのは、
黒地に銀の
「いらっしゃいませ」
小和がそう頭を下げると、御堂は小和を見下ろして、
「こちらこそ、お越しいただきまして、ありがとうございます。どうぞ、お席の方へ。今日は冷えますが、火をおこしておりますので、お温まりくださいませ」
小和は中庭へと御堂を導こうとする。そこで、ごめんください、と、御堂の後ろから、温めたミルクに似た、柔らかくまろやかな声がした。
御堂の背にすっぽり隠れるようにして、入り口の外に、
「いらっしゃいませ、増穂さん」
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。もしかして、お待たせしてしまったかしら」
御堂を見上げて問う増穂に、小和は首を横に振る。
「いいえ、時間通りです」
小和は二人を中庭の縁台に案内した。冬の茶会で室内の席ではないことに、二人とも少し驚いていたが、小和がお茶の支度を始めると、二人は並んで、縁台の端と端に腰を下ろす。足元に置いた七厘から、パチパチと小さな音がする。どうぞ手をかざして暖をとってください、と、小和は茶釜からお湯を
「
今日は寒い中ありがとうございます、と小和は二人に微笑んでから、茶棚から茶碗を手に取った。
今日のために選んだ茶器だ。装飾がなく、透明な
碧水屋の茶器は、おかみさんの
小和は急須に淹れたお湯を捨てると、今度は茶碗に
「暖かい格好でと招待状にあったのは、こういうことだったのね」
蕾をつけた
「小和は寒くない?」
いつもの
「茶釜の火がありますから」
準備をしていた先程までと違って、ずっと火に当たっていた手や頬は、肌が少し
秋の茶会でも、琴の披露にはそれなりの晴れ着を着るが、それ以外の娘は、いつもの仕事着で茶を淹れていた。冬であっても仕事着を厚くするものはあまりいない。釜の近くで作業をするから、時間が経つにつれ、暑くなってくるのだ。
茶筒から茶葉を取り出し急須に入れて、そこに茶碗で軽く冷ました湯を注ぐ。ちょうど良い頃合いまで蒸らし、
「どうぞ、尾羽の
若菜色をしたお茶が、土色の茶碗の中できらりと揺れた。
茎茶は、その名の通りお茶の葉ではなく、その茎を使ったお茶だ。
茶葉を生成する過程で取り除くものだが、茎で入れたお茶は、すっきりした味で香り高く、爽やかな甘みを感じられる。葉に比べて苦みや渋みが出にくいので、熱い湯でも淹れられるが、
冬の茶会だ、先ずは熱いお茶を振る舞いたい。けれど、味の弱いものは寒さの中では物足りないかも知れない。玉露茎茶は低温でも高温でも淹れられるお茶で、お湯の温度と蒸らし時間で全く味わいが違ってくる。小和は何度も試飲して、これと決めたお茶だった。
小和から茶碗を受け取り、一口飲み下した二人が、同時にほ、と息を吐き出したのを見て、小和は安堵の気持ちと共に微笑む。高温で淹れたお茶は香りが高く、茎茶の青く甘い芳香が、湯気とともに立ち昇る。
茶碗棚に用意していた菓子箱から茶菓子を取り出し、
椿餅だ。
真っ白なもち米で
皿と同じく漆塗りの菓子切りを添えて二人に茶菓子を差し出すと、小和は空になった茶碗を受け取って、二煎目に取りかかった。
二煎目は、一煎目より香りが落ちる。
そのため、お茶の味が最も強く、けれど決して苦くはならないように、小和は蒸らし時間に細心の注意を払った。茎茶の種類や配合具合にもよるが、小和は、高温で一煎目より長く蒸らすのが、この茎茶の二煎目では一番美味しいと感じた。高温で淹れることで香りも仄かに残るし、一煎目よりも強く甘みを感じる。
「どうぞ」
御堂と増穂が一礼して碗を受け取り、それを一口、口に含む。
「……美味しい」
増穂が、溜息をつくように声を
御堂も碗を静かに見つめ、一つ頷く。
それを見届けてから、小和は少し体を後ろに引き、改めて、深く頭を下げた。
「本日は、お越しいただき誠にありがとうございます。先日は、お二人には大変失礼をしてしまいました。御堂さんには勿論、増穂さんにも、無作法をしたと、思っています」
増穂は、そんなこと、と慌てたように声をあげ、御堂は、黙したままだった。
小和は顔を上げる。
「これは、差し出がましいことですが――」
そう、言葉を紡いで、小和は膝の前で重ねた手を握り締める。声に、力が出るように。震えて、口を閉ざしてしまわないように。
「増穂さんのことを、よく知らずに何かを言う立場には、私も、御堂さんも、ないと思っています。御堂さん、頬を叩いてしまって、本当に申し訳ありませんでした。暴力に訴えたことは勿論、増穂さんに対しても、出すぎた真似でした」
小和が固い声で、再び頭を下げるのに、増穂が寂しそうな顔をしたのが一瞬見えた。御堂は、まだ静かな目で、ただ小和を見つめている。
ぐ、と、顔に力を入れて、小和は身体を起こして、微笑んだ。
「だから、どうかこれを機に、お互いのことを、もっと知っていけたら、嬉しいです」
御堂が、緩やかに目を見開くのを、小和は心臓が口から飛び出そうな思いで、眺めていた。
この、謝罪の言葉を、小和は今日ここに至るまで、何度も何度も考えた。嫌みに聞こえていないだろうか、否、御堂には、意趣返しの意味合いを多少含んでいるのは、確かなのだが。
「……くっ」
ふと、御堂が
口許に手を当て、顔を
「ふ、あ、あっははは! はっ、随分、言うようになったな!」
「……あんまり、言いたくはなかったです」
御堂の砕けた物言いに、小和はようやく、胸を撫で下ろして眉を下げる。
御堂は愉快そうに片眉を上げ、しかしすぐに居住まいを正して、増穂と小和に視線を向けた。
「二人とも、失礼をした。嘘を言ったつもりはなかったが、先日は言葉が過ぎたな」
「あ、いえ……」
増穂は呆気にとられている。
小和も、自分にまで向けられる言葉とは思っておらず、どう答えればと戸惑った。
その時。それの気配を捉える。
――ああ、やっぱり。
きっと、降ると思っていた。
待っていたそれを見上げて、小和は、細い吐息を漏らした。それが白く凍って、空にとける。
「降ってきましたね」
「え?」
小和の声につられて、増穂が天を仰いだ。御堂も空に目を向ける。
灰色の雲から、ちら、ちら、と。
雲間からの陽光に
風に踊りながら、ひらひらと。綻び始めた寒椿の紅い蕾に。常緑の鋭い
「初雪ですね」
小和が
風はないから吹雪くことはないだろう。積もるにもまだ時期が早い。小和は、己の予感が当たったことに安堵しながら、中庭の西塀の、ずっと向こうに目をやった。
「尾羽の山の冠雪は、毎年、見とれてしまいます」
小和の視線に、御堂も増穂も、小和と同じ方を見遣った。
尾羽の標高は千を越える。町に降り出す頃には、その稜線から中程までを、すっかり白く染めていた。裾野の枯れ紅葉が、まるで錦の
「まあ」
増穂の弾んだ声に、御堂が僅かに、苦笑した。
「……この景色は、町からでないと見られぬな」
吐息のような、優しい声だった。
小和は茶碗棚から道具を取り出し、最後の準備を始める。
「松の枝の下か、傘に入って、火鉢にしっかり当たってくださいね。最後のお茶をお淹れします」
雪が降ると分かっていたの? と増穂が首を傾げるのに、小和は曖昧に笑った。
日取りを考えた時、もしかして、と思ったのだ。あの時、
だから、室内と野天、両方で準備を進めて、山の様子を見ながら、外にすると決めたのは昨日の夕方だ。初雪は寒さが本格的になったばかりで、積もることはそうそうない。見て楽しむより、触って楽しむ方が良いのではないかと思った。庭に出た方が、お山もよく見える。
一煎目は緊張をほぐす、香りの高いもの。二煎目は雪の中で、味を楽しめるもの。そして、最後。
小和は茶筒から新しい茎茶を取り出して、取っ手のついた丸い容器に入れる。容器の底には厚紙があてられている。それを、小和は自分の足元の七厘の上に
小和が碧水屋に来て最初に習ったことは、茶の
――こうすれば、苦味や渋味の強いお茶も、香りよくすっきり飲めるんだよ。昔は良いお茶は高価だったから、みんな、こうしてお茶を飲んでたんだ。
おかみさんはそう言って、りくのところから来たばかりの小和に、一杯の焙じ茶を振る舞ってくれた。それは、秋冬番茶を焙じたものだったが、毒味の消えた、夏に山を渡る
きれいなところには、きれいなものが通る。
火は、浄め火なのだと、小和は思う。
どんなお茶も、きれいな水と、火を使って淹れる。そうして、人の喉を
焙じた茶葉を急須に入れ、高温でさっと煮出して茶碗に注ぐ。
「最後のお茶です。本日は寒い中お越しいただいて、本当にありがとうございました」
茶碗の中、
「……小和の淹れたお茶ね」
ふ、と白い息を吐いて、お茶を飲んだ増穂が微笑った。
「今日のお茶、全部。尾羽の、山深くの香りがした。まるで山中の、
御堂は、増穂の言葉に何も言わなかった。ただ、少しだけ、目を細めて増穂を見ている。
増穂はお茶を飲み干すと、茶碗を
「御堂さんの
小和は驚いて増穂を見た。
増穂は小和を
「だけど、小和が怒ってくれたこと、私は嬉しかった。たとえ厳しい道でも、ほんの一筋、自分の希望が通ったことを、私は喜んで良いんだって。それを確かめたくて、私、小和に会いに行ったんです。きっと誉めてもらえると思ったから……
ご教示ありがとうございました、と増穂は笑って、御堂に頭を下げる。
つよい人だ。
そう、小和は思った。
こわい人だと、最初は思ったのだ。増穂のことを。
自信と気品があって、少し強引で。最初に会った時、小和は無意識に気圧された。けれどそれは、増穂の芯がとても強いからで、そしてそれは、多分、御堂も、そうなのだ。
こちらがしっかりしていなければ、その強さに振り回されてしまう。本人たちにはその気もなく、こちらのことを、十分に気にかけてくれているのに。
つよく、ならなければ。
振り回されないだけの、そして、強くとも傷がつかないわけではない人たちを、傍で見守っていられるだけの、根を持たなければ。風に揺れても、倒れない草花があるように。
雪がふっと風に舞う。
小さな
小和は、綿帽子を被った尾羽山を見た。
春になれば。
雪は融けて、尾羽に流れる、水になる。
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