氷を砕いて風にしたような冷気が、尾羽の町に降りてきていた。朝から灰色の雲が空を覆い、隙間から射し込む太陽も、明るいだけで、きん、と冷えている。


「小和の言った通りになりそうだねぇ」

 店の厨房から中庭を見遣ったおかみさんがそう言って、着物の袖をまくった。たすきで留めて、小和の用意した茶器や茶道具を洗ってくれる。


 茶釜にはすでに水がまれている。朝起きてすぐ、小和が井戸から汲んできたものだった。店の厨房の大茶釜には勿論のこと、庭に出した、茶道具を置くための腰高台こしだかだいの茶釜にも、水がなみなみとたたえられている。


 縁台は、庭の椿の垣根の傍に置いた。右端には大きな松の木があって、縁台の上に大きく枝を広げている。左端には釜と道具棚を置いた腰高台、それに、野点傘のだてがさを用意した。


 緋毛氈ひもうせんをかけた縁台の足下を掃ききよめ、小和はちり取りを持って店の勝手口から厨房を覗く。


「洗い物、ありがとうございます、おかみさん」

「良いから、そろそろ火の準備しな」

「はい」


 頭を下げてきびすを返した小和の息が、瞬く間に白く煙って、風に流されて消えていく。ほんの少し外にいただけで、手指がひりひりと強張っていた。

 空気が芯から冷えている。


 箒とちり取りを片づけ、店の厨房奥の物置から、七厘しちりんを三台取り出す。縁台の足元に二つ、腰高台の脇に一つ置いて、木屑にマッチで火をつけて、上から炭を被せる。腰高台のかまどにも火を入れて、用意した茶葉と、おかみさんが洗ってくれた茶器を道具棚に揃えたところで、店の入り口の開く音がした。駆け足で店の中へと戻る。


 からからと店の格子戸を開けて先に姿を見せたのは、御堂みどうだった。

 黒地に銀の巴紋ともえもんが彫られたあわせ、白磁の色の羽織には、袖のところに一羽の水鳥が描かれている。足元はいつもの下駄や草鞋わらじではなく、銀の鼻緒の草履ぞうりだった。


「いらっしゃいませ」

 小和がそう頭を下げると、御堂は小和を見下ろして、此度このたびはお招きいただき感謝つかまつる、と、丁寧に頭を下げ返した。


「こちらこそ、お越しいただきまして、ありがとうございます。どうぞ、お席の方へ。今日は冷えますが、火をおこしておりますので、お温まりくださいませ」


 小和は中庭へと御堂を導こうとする。そこで、ごめんください、と、御堂の後ろから、温めたミルクに似た、柔らかくまろやかな声がした。


 御堂の背にすっぽり隠れるようにして、入り口の外に、増穂ますほが立っていた。通りの少し離れたところには、山を下りるのに使ったのだろう、馬車が停まっている。


「いらっしゃいませ、増穂さん」

「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。もしかして、お待たせしてしまったかしら」


 御堂を見上げて問う増穂に、小和は首を横に振る。

「いいえ、時間通りです」


 瑠璃紺るりこんに水仙の花丸文があしらわれた振袖姿の増穂は、良かった、と朱華はねず色の唇をほころばせる。若草色の帯揚おびあげに、白い毛皮のショール。長い髪は外巻きに結い上げている。


 小和は二人を中庭の縁台に案内した。冬の茶会で室内の席ではないことに、二人とも少し驚いていたが、小和がお茶の支度を始めると、二人は並んで、縁台の端と端に腰を下ろす。足元に置いた七厘から、パチパチと小さな音がする。どうぞ手をかざして暖をとってください、と、小和は茶釜からお湯をすくって急須に入れながら言った。


碧水屋あおみやは、茶店ですから、茶会と言っても作法のようなものはないんです。秋や春の茶会でも、お抹茶も煎茶も両方、お客様や席主の好みでお出しします。いつものお茶を外で楽しむ、それくらいのものですけれど、折角ですから、季節の景色を目一杯楽しんでいただくためのしつらえを、用意します」


 今日は寒い中ありがとうございます、と小和は二人に微笑んでから、茶棚から茶碗を手に取った。


 今日のために選んだ茶器だ。装飾がなく、透明なゆうが素地の土肌をそのまま映した、素朴な焼き物である。器の底にはガラスのひび割れたような貫入かんにゅうがあり、薄い砂色から底に向けてしゃを帯びる土の風合いが、繊細さと温かみの両方を感じさせた。


 碧水屋の茶器は、おかみさんの曾祖父そうそふの頃、得意客だったお武家様から下げ渡されたというものを皮切りに、町の名士から少しずつ、何かしらの折にいただいてきたものである。一介の茶店ではあるが、せっかく良い茶器があるのだからと、町の人を集めて茶会をもよおしたのが、春と秋のお茶会の始まりだ。


 小和は急須に淹れたお湯を捨てると、今度は茶碗に柄杓ひしゃくでお湯を掬って入れる。急須や碗が冷たいと、せっかくのお茶が冷めてしまうし、茶碗に入れた方は、いくら冬といえ熱湯では熱すぎるので、湯を少し冷ます意味もある。


「暖かい格好でと招待状にあったのは、こういうことだったのね」

 蕾をつけた寒椿かんつばきの垣根を眺めていた増穂は、そう呟いて、つと、気遣わしげに眉を下げて小和を見上げた。


「小和は寒くない?」

 いつものつむぎに前掛けをかけただけの、普段通りの店内着姿の小和は、大丈夫ですよ、と笑う。


「茶釜の火がありますから」

 準備をしていた先程までと違って、ずっと火に当たっていた手や頬は、肌が少しゆるんできていた。さすがに足元までは竈の火は届かないが、それを見越して、自分の足元にも七厘を置いている。


 秋の茶会でも、琴の披露にはそれなりの晴れ着を着るが、それ以外の娘は、いつもの仕事着で茶を淹れていた。冬であっても仕事着を厚くするものはあまりいない。釜の近くで作業をするから、時間が経つにつれ、暑くなってくるのだ。


 茶筒から茶葉を取り出し急須に入れて、そこに茶碗で軽く冷ました湯を注ぐ。ちょうど良い頃合いまで蒸らし、茶漉ちゃこしでしながら、お茶を碗に注いでいく。最後の一滴までしっかりと注ぎきって、盆に載せて御堂と増穂に差し出した。


「どうぞ、尾羽の茎茶くきちゃです」

 若菜色をしたお茶が、土色の茶碗の中できらりと揺れた。


 茎茶は、その名の通りお茶の葉ではなく、その茎を使ったお茶だ。

 茶葉を生成する過程で取り除くものだが、茎で入れたお茶は、すっきりした味で香り高く、爽やかな甘みを感じられる。葉に比べて苦みや渋みが出にくいので、熱い湯でも淹れられるが、玉露ぎょくろの茎を使用しているものは、玉露特有の風味もあった。


 冬の茶会だ、先ずは熱いお茶を振る舞いたい。けれど、味の弱いものは寒さの中では物足りないかも知れない。玉露茎茶は低温でも高温でも淹れられるお茶で、お湯の温度と蒸らし時間で全く味わいが違ってくる。小和は何度も試飲して、これと決めたお茶だった。


 小和から茶碗を受け取り、一口飲み下した二人が、同時にほ、と息を吐き出したのを見て、小和は安堵の気持ちと共に微笑む。高温で淹れたお茶は香りが高く、茎茶の青く甘い芳香が、湯気とともに立ち昇る。


 茶碗棚に用意していた菓子箱から茶菓子を取り出し、艶消つやけしされた墨色の漆皿に、それぞれ載せていく。

 椿餅だ。

 真っ白なもち米であんを包み、二枚の椿の常盤ときわはさんだお菓子。かなり古くからあるもので、椿の名はあれど、花よりもその葉に積もった雪を思わせる。

 皿と同じく漆塗りの菓子切りを添えて二人に茶菓子を差し出すと、小和は空になった茶碗を受け取って、二煎目に取りかかった。


 二煎目は、一煎目より香りが落ちる。

 そのため、お茶の味が最も強く、けれど決して苦くはならないように、小和は蒸らし時間に細心の注意を払った。茎茶の種類や配合具合にもよるが、小和は、高温で一煎目より長く蒸らすのが、この茎茶の二煎目では一番美味しいと感じた。高温で淹れることで香りも仄かに残るし、一煎目よりも強く甘みを感じる。


「どうぞ」

 浅黄緑あさきみどり水色すいしょくが、茶碗の底のひび割れにきらきらと反射していた。

 御堂と増穂が一礼して碗を受け取り、それを一口、口に含む。


「……美味しい」

 増穂が、溜息をつくように声をこぼした。

 御堂も碗を静かに見つめ、一つ頷く。


 それを見届けてから、小和は少し体を後ろに引き、改めて、深く頭を下げた。


「本日は、お越しいただき誠にありがとうございます。先日は、お二人には大変失礼をしてしまいました。御堂さんには勿論、増穂さんにも、無作法をしたと、思っています」


 増穂は、そんなこと、と慌てたように声をあげ、御堂は、黙したままだった。

 小和は顔を上げる。


「これは、差し出がましいことですが――」


 そう、言葉を紡いで、小和は膝の前で重ねた手を握り締める。声に、力が出るように。震えて、口を閉ざしてしまわないように。


「増穂さんのことを、よく知らずに何かを言う立場には、私も、御堂さんも、ないと思っています。御堂さん、頬を叩いてしまって、本当に申し訳ありませんでした。暴力に訴えたことは勿論、増穂さんに対しても、出すぎた真似でした」


 小和が固い声で、再び頭を下げるのに、増穂が寂しそうな顔をしたのが一瞬見えた。御堂は、まだ静かな目で、ただ小和を見つめている。

 ぐ、と、顔に力を入れて、小和は身体を起こして、微笑んだ。


「だから、どうかこれを機に、お互いのことを、もっと知っていけたら、嬉しいです」


 御堂が、緩やかに目を見開くのを、小和は心臓が口から飛び出そうな思いで、眺めていた。


 この、謝罪の言葉を、小和は今日ここに至るまで、何度も何度も考えた。嫌みに聞こえていないだろうか、否、御堂には、意趣返しの意味合いを多少含んでいるのは、確かなのだが。


「……くっ」

 ふと、御堂がうつむく。

 口許に手を当て、顔をらしたかと思うと、肩を震わせて大きく笑い出した。

「ふ、あ、あっははは! はっ、随分、言うようになったな!」


「……あんまり、言いたくはなかったです」

 御堂の砕けた物言いに、小和はようやく、胸を撫で下ろして眉を下げる。

 御堂は愉快そうに片眉を上げ、しかしすぐに居住まいを正して、増穂と小和に視線を向けた。


「二人とも、失礼をした。嘘を言ったつもりはなかったが、先日は言葉が過ぎたな」


「あ、いえ……」

 増穂は呆気にとられている。

 小和も、自分にまで向けられる言葉とは思っておらず、どう答えればと戸惑った。


 その時。それの気配を捉える。


 ――ああ、やっぱり。

 きっと、降ると思っていた。


 待っていたそれを見上げて、小和は、細い吐息を漏らした。それが白く凍って、空にとける。


「降ってきましたね」

「え?」


 小和の声につられて、増穂が天を仰いだ。御堂も空に目を向ける。

 灰色の雲から、ちら、ちら、と。

 雲間からの陽光にかすかにきらめきながら、白いものが、空を舞い落ちてきていた。


 風に踊りながら、ひらひらと。綻び始めた寒椿の紅い蕾に。常緑の鋭い針葉しんようを伸ばした松の枝に。乾いた庭の白い土に。落ちてはす、と、淡くけていく。


「初雪ですね」

 小和がてのひらを上に向けて雪を受けとめると、釜の火で温まった手の上で、雪が、音もなく滴へと変わった。増穂も手を伸ばし、雪を両手に受けて赤い頬を綻ばせる。


 風はないから吹雪くことはないだろう。積もるにもまだ時期が早い。小和は、己の予感が当たったことに安堵しながら、中庭の西塀の、ずっと向こうに目をやった。


「尾羽の山の冠雪は、毎年、見とれてしまいます」


 小和の視線に、御堂も増穂も、小和と同じ方を見遣った。

 尾羽の標高は千を越える。町に降り出す頃には、その稜線から中程までを、すっかり白く染めていた。裾野の枯れ紅葉が、まるで錦の打掛うちかけに見える。


「まあ」

 増穂の弾んだ声に、御堂が僅かに、苦笑した。

「……この景色は、町からでないと見られぬな」

 吐息のような、優しい声だった。


 小和は茶碗棚から道具を取り出し、最後の準備を始める。


「松の枝の下か、傘に入って、火鉢にしっかり当たってくださいね。最後のお茶をお淹れします」

 雪が降ると分かっていたの? と増穂が首を傾げるのに、小和は曖昧に笑った。


 日取りを考えた時、もしかして、と思ったのだ。あの時、琥珀こはく色の瞳をしたりくの後ろで、ちらちらと雪が舞っていた。それで、町の方の初雪も、近いだろうと思ったのだ。


 だから、室内と野天、両方で準備を進めて、山の様子を見ながら、外にすると決めたのは昨日の夕方だ。初雪は寒さが本格的になったばかりで、積もることはそうそうない。見て楽しむより、触って楽しむ方が良いのではないかと思った。庭に出た方が、お山もよく見える。 


 一煎目は緊張をほぐす、香りの高いもの。二煎目は雪の中で、味を楽しめるもの。そして、最後。


 小和は茶筒から新しい茎茶を取り出して、取っ手のついた丸い容器に入れる。容器の底には厚紙があてられている。それを、小和は自分の足元の七厘の上にかざした。ぱらぱらと、焦げつかないように、茶葉を転がす。


 小和が碧水屋に来て最初に習ったことは、茶のほうじ方だった。


 ――こうすれば、苦味や渋味の強いお茶も、香りよくすっきり飲めるんだよ。昔は良いお茶は高価だったから、みんな、こうしてお茶を飲んでたんだ。


 おかみさんはそう言って、りくのところから来たばかりの小和に、一杯の焙じ茶を振る舞ってくれた。それは、秋冬番茶を焙じたものだったが、毒味の消えた、夏に山を渡る夏越なごしの風のようなお茶で、澄んだ水と丁寧な火入れが、爽やかな香りを引き立たせていた。


 きれいなところには、きれいなものが通る。

 火は、浄め火なのだと、小和は思う。


 どんなお茶も、きれいな水と、火を使って淹れる。そうして、人の喉をうるおして、暑気を払ったり、身体を温めたりするのだ。だから、丁寧に、しっかりと火入れをしたお茶には、空気をさらって、清冽な、新しいものを呼び込む力がある。


 焙じた茶葉を急須に入れ、高温でさっと煮出して茶碗に注ぐ。

「最後のお茶です。本日は寒い中お越しいただいて、本当にありがとうございました」


 茶碗の中、桧皮ひわだ色につやめくお茶を二人に差し出し、小和が頭を下げると、増穂と御堂も一礼を返した。芳ばしい香気が、粉雪のちらつく空に昇っていく。


「……小和の淹れたお茶ね」

 ふ、と白い息を吐いて、お茶を飲んだ増穂が微笑った。


「今日のお茶、全部。尾羽の、山深くの香りがした。まるで山中の、百舌鳥もずの鳴き声だけが響く雪林にいるみたい」


 御堂は、増穂の言葉に何も言わなかった。ただ、少しだけ、目を細めて増穂を見ている。

 増穂はお茶を飲み干すと、茶碗をかたわらに置いて、御堂を見た。


「御堂さんのおっしゃったこと、私もきっと、そうなんだろうなと、思っています」

 小和は驚いて増穂を見た。

 増穂は小和を一瞥いちべつして、苦笑してみせる。


「だけど、小和が怒ってくれたこと、私は嬉しかった。たとえ厳しい道でも、ほんの一筋、自分の希望が通ったことを、私は喜んで良いんだって。それを確かめたくて、私、小和に会いに行ったんです。きっと誉めてもらえると思ったから……ずるいかも知れないわ。けれど、嬉しかった。本当に。私、ねばり強いんです。だから、まだ、頑張ろうと思います」


 ご教示ありがとうございました、と増穂は笑って、御堂に頭を下げる。


 つよい人だ。

 そう、小和は思った。


 こわい人だと、最初は思ったのだ。増穂のことを。

 自信と気品があって、少し強引で。最初に会った時、小和は無意識に気圧された。けれどそれは、増穂の芯がとても強いからで、そしてそれは、多分、御堂も、そうなのだ。


 こちらがしっかりしていなければ、その強さに振り回されてしまう。本人たちにはその気もなく、こちらのことを、十分に気にかけてくれているのに。


 つよく、ならなければ。


 振り回されないだけの、そして、強くとも傷がつかないわけではない人たちを、傍で見守っていられるだけの、根を持たなければ。風に揺れても、倒れない草花があるように。


 雪がふっと風に舞う。

 小さな六花りっかは、すぐにどこかへと飛んで、見失ってしまった。けれど、やがて尾羽の町も、山も、すっかり雪化粧で覆われるだろう。そうして、春には、融ける。


 小和は、綿帽子を被った尾羽山を見た。


 春になれば。

 雪は融けて、尾羽に流れる、水になる。





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