4.雪催い
1
ぱちり、ぱちんと、
囲炉裏に掛けられた鉄瓶から、ゆらゆらと白い湯気が立ち昇り、
いつもの、穏やかな微笑みを浮かべて、りくはお茶の用意をしてくれている。棚から取り出した茶筒から茶葉を
その茶葉を見て、小和は思わず訊ねた。
「……菊花茶ですか?」
急須の中には、乾燥した
「はい。この前、御堂さんがお土産にくれたんです」
りくは答えながら、鉄瓶の湯を少し冷まし、急須に注ぎ入れた。菊のすっきりとした苦い香りが、湯気と共に
小和は先に渡されていた白湯を一口飲んで、喉と肺を温めてから、口を開いた。
「私が来ること、分かっていましたか?」
りくは、首を横に振った。
「予感は、ないこともなかったですが。けれど、人のすることを予知することは、できませんから」
「じゃあ、私が来た理由も」
「小和さんから話していただけたら、嬉しいですね」
にこりと、りくは微笑む。
小和は黙る。何をどう言えば良いか、どう話したところで、ここに逃げてきた言い訳にならないことは、分かっている。
「喧嘩したんです」
「誰と?」
「
そうして、小和は、かいつまんだ事情を話した。たどたどしく、何度も言い
りくはただ、静かに聞いていた。口を
「それで、つい、逃げてしまって……」
結局、逃げた理由はきちんと言えないままに、言われたこととしてしまったことだけを話して小和がそう結ぶと、りくは、湯飲みに注いだ菊花茶を小和に渡しながら、
「――それは、怖かったですね」
と。
頷いた。
――小和は、泣き出したくなった。
先ほどまで、ぼろぼろ泣きながら走って、もう、とうに乾いたと思っていたのに。
どうして。
どうして、分かってくれたのだろう。
そう、怖かった。
誰かと喧嘩したことも。
喧嘩をするのが怖いのだろうと、言われたことも。
「自分が今、ここにいるのは間違っているかも知れない、と。そう思っているのに、それを、誰にも訊けずにいるのは、怖いことです。それで間違いだと言われるのも怖いし、間違いでないと言われたところで、こればっかりは、本当の正解なんて分からないものですからね。誰かに訊いてどうなることでもない。だから、必死で平気なふりをして、見ないふりして日常を送っているのに、それを突然、人に指摘などされたら、不意に目の前に、落とし穴を掘られたような気持ちになってしまう」
「……はい」
ああ、本当に。
私はなんて、臆病で、弱くて、ずるくて。
「あの人は口が悪いから。それで、つい、一番悪い手を選んでしまって、余計に怖かったんですね」
はい、と、小和は、頷くしかなかった。
彼の言うとおりだ。一番弱虫な選択をした。一番馬鹿な選択をした。
手の中で、菊花茶の温度が、少しずつ逃げていく。
そこでふと、りくが小和を
「でもね、小和さん」
語調が変わる。
「――それくらいのことで、彼らが、あなたを嫌うと、思いますか?」
「え……」
小和は、言葉に詰まって顔を上げた。
りくは、相変わらず微笑んでいた。ぱちんと、囲炉裏の火が
「よくない言い方でしたね。人の気持ちなんて、本当のところは分かりませんから。でも、信じられる部分はあります。少なくとも、僕は、そんなことで小和さんを嫌いには、ならない」
りくは、膝に手を置いて、言い切った。
「僕がそう思うんです。
小和さんだって、その程度で、みんなを嫌いになったりなんかしないでしょう?
そう言って、りくは自分の菊花茶を、一口含む。苦すぎたかな、と眉を
「人の気持ちの、本当のところなんて分からなくても、これまでの日々の中で、その人柄の信じられるところが、必ずあります。その人の言葉、仕草、行動、例えそれがその人の一端でしかなくとも、その一端を、信じて良いときがあると思います。だからこそ、僕はあなたという人を好ましく思うし、碧水屋のみなさんだって、あなたがどうして怒ったのか、誰のために怒ったのかくらい、きっと分かっています。だから、御堂も、それくらいのことで小和さんを嫌ったりはしないと、僕は思います」
小和さん、と、りくは、湯飲みを置いて小和を真っ直ぐに見た。
囲炉裏の火が、りくの頬を照らしている。その瞳が、
まるで月のように。
「君が、生きていることを申し訳なく思ってしまうくらい、誰かを気遣える優しい子だと、僕は知っている。奇跡は偶然にすぎない。誰にでも起こり得るし、誰にも起こり得ない、平等なものだ。だから、必然を求めなくて良いんです。怖がらないで良い。君がやりたいことを選んでも、君はきっと周りに愛されるし、もし間違えていたら、誰かが教えてくれる。それだけのものを、君は、この十年で築いている」
――君を、愛している人を。
君自身を。
「もう少し、信用しても良いんだよ」
りくは、その琥珀に煌めく瞳を細めて、笑った。
小和は、以前りくに、恩返しなどできないよ、と言われたことを、思い出した。
あの時りくは、本当は、これを言いたかったのかも知れなかった。恩返しなどと、気を張らなくても大丈夫なのだと。そんなことで気持ちを疑うような関係なんかじゃないと。奈緒が心配そうな顔で
熱の引いたはずの
渡された湯飲みを、握り締めた。悲鳴のような
子どものようにしゃくり上げてしまう。
りくは、何も言わずに待ってくれていた。
優しく微笑んだまま。
そうして、一頻り声をあげて。
囲炉裏の火が爆ぜる音と、小和の泣き声だけが、しばらく響いていた。
小和は、少しずつおさまってきた涙を拭い、鼻をすすりながら、渡された菊花茶を見る。もうすっかり冷めていたけれど、その、緩く
「……怒ったことは、後悔しません。御堂さんには、増穂さんに謝ってほしいです。でも、だからって叩いて良かったとは、やっぱり思いません。まずは、叩いてしまったことを、御堂さんに謝りたいです」
――どんな理由であれ、手を挙げて良いということは、ないはずだ。
けれどもう、逃げなくていい。恐れなくて良いのだと、小和は思った。
そうだね、とりくも頷く。
「じゃあ、やりたいことは、仲直りかな」
「はい……あの、でも」
そこで言い淀んだ小和に、りくは優しく微笑んで、
小和は頷いた。
りくに拾われてから、小和は喧嘩などしたことがないのだった。だから
ただでさえ、御堂とはこれまであまり会話をしていない。謝りたいし、できれば喧嘩をする前の関係性に戻りたいが、そのためにはなんと声をかければ良いのか、小和には全く思いつかなかった。
それに。
「……増穂さんにも、嫌な思いをさせてしまいました。私と御堂さんのことは、増穂さんには無関係だったのに。だから、増穂さんにも何か、埋め合わせをしたいのですが……」
あんな形でその場を逃げてきてしまって、増穂にも、きっと決まりの悪い思いをさせてしまっている。せっかく、嬉しいことを、息を切らせてまで真っ先に
増穂に説明して謝ろうにも、それさえどう説明したら良いのか、話せないことも多い。
「――では、お茶会を開いてはどうですか」
りくが言った。
え、と小和は目を見開く。
「お茶会、ですか?」
聞き返した小和に、りくはにこにこと頷いた。
「秋のは、出られなかったんでしょう? ちょうど良いじゃないですか。増穂さんも呼んで、二人へのお
いいなあ、僕も行きたいですが、とりくは楽しそうに笑う。
「で、でも、御堂さんは、増穂さんをよく思っていなくて、」
小和は慌てた。
御堂に腹を立てたのは本心だし、増穂に謝ってほしいという気持ちも、嘘ではない。増穂にしたって、傷つけるような言葉を投げつけたままにはしたくなかったが、しかしそれは、小和が御堂に押し付けるものでも、御堂に代わって小和が勝手に謝ることでも、きっとない。
御堂には御堂の気持ちがある。彼に謝るつもりがないのなら、それは、仕方がないことなのだ。
しかしりくは、だからですよ、と微笑んだ。
「お茶会なら、小和さんは二人に同時にお詫びができて、声をかける口実にもなります。二人にとっても、落ち着いて顔を合わせられる、良い機会になるでしょう?」
同じ釜のものをいただくのは、許容の第一歩ですよ、と。
りくはそう、茶目っ気たっぷりの声で言った。
小和は想像してみる。
二人のためのお茶会。
今から準備するとして、日程と、用意する茶葉、茶碗、席や茶菓子の趣向、天候に、気温。
それらを、小和は想像する。
ひらりと、小屋の障子に、淡い影がひらめく。
「――やって、みます」
小和は、す、と顔を上げた。
ばさ、と枝から飛び立つ小鳥の羽音が、障子越しに響く。
「やってみます。
色々相談にのっていただいて、ありがとうございます、と、小和は両手を床について、深く頭を下げる。
「急に押し掛けてしまったのに、あの、何かお礼を、」
言って、頭を上げながらふと、あれ、と思った。
「そうですねぇ。じゃあ――
小和の目の前に
「御堂にもお礼で渡していたでしょう。あれを、僕にもいただけませんか」
りくの、
りくは、御堂のことを呼び捨てにしていただろうか。
秋の茶会に出られなかったことを、まるで人から聞いたような話し方をした。りくの元で、寝込んでいたからなのに。
そう言えば今日は、栢を見ていない。
りくは、その、月の人のようなかんばせの
「りくには、内緒ですよ?」
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