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「――このあとは、用事が?」

 お茶と薬草の匂いをさせながら、目の前のりくがそう訊ねる。す、と鼻に抜けるような薬草の匂いは、りくとこの小屋に染み付いていて、尾羽のお茶の香りとともに、小和には馴染み深い匂いだった。


「はい、笹岡先生のところへ、お遣いに」

 一服終えたところで、じゃああまり引き留めてしまうのも良くないですね、とりくが立ち上がる。小和も腰を上げて、もう一つ、菓子箱が残っている風呂敷を抱えた。

「ふたりの様子が見れて良かったです。栢君、お大事に。また、店にもいらしてくださいね」

 ぜひ、とりくが手を振るのに頭を下げて、小屋を出る。視界の端で、栢がふりふりと二本の尾を振っていた。


 小屋の周りは山が深い。それほど遠くないところに学校と寮が建っているはずだったが、小屋の周辺では、全く人の気配が感じられなかった。小屋の裏手には井戸がわりの滝と滝壺があるが、その水音も、小屋から数歩も離れると聞こえなくなってしまう。小屋の周囲は、温度も、匂いも違うのだ。


 来た獣道を真っ直ぐ戻って、しばらくすれば、道の入り口にあった小さな置き石が見えてくる。この石は裏から見ると仄かな赤色をしていて、表から見た時とは違って、すぐにそれと分かる。その石に鴉が一羽留まっているのを横目に、小和は獣道を抜けた。明るい陽が頭上に射す。梢が途切れて、校舎から学生寮に続く、細いながらも開けた道に出た。


 三時くらいかしら、と、木々の影の角度から小和は考える。りくの小屋の辺りは山深くなっているのもあって、昼日中でも涼しいが、日の高い時間だと、まだ少し汗ばむ陽気だ。


 笹岡のいる職員寮は、本校舎の敷地外にある。学校の正門から麓町へ伸びる一本道を通り過ぎ、今は野草が根を張る田畑を横目に畦道を進めば、校舎の敷地塀が途切れて山の木々と接する辺りに、こぢんまりとした職員寮がある。


 元々は集落の村役場で、学生寮が本校舎とほぼ同じ大きさなのに比べると、職員寮は町の宿屋くらいの大きさしかなかった。木造二階建てだが、部屋は二階の三部屋だけで、一階は、生徒や客人のために解放されている大広間が、その大部分を占めている。本来は用務員や事務員のための寮で、この学校の教師のほとんどは、交通の便のいい隣町に下宿していた。乗合自動車や馬車を使ってここまで通うのが普通で、教員でここを使っているのは、笹岡だけだった。


 小和は玄関の戸を軽く叩いてから、小さく開けて中に声を掛ける。

「ごめんくださあい」

 少しだけ張った声を上に向ければ、二階の一室から、戸の開く音が聞こえた。

「はーい、はい、はい」

 二階から階段を降りてきたのは、中井という事務員だった。七十過ぎの、しかし壮健な老人で、闊達な体躯が猫背で少し曲がっている。もとはこの集落に住んでいた人だ。

「ああ、碧水屋あおみやさんとこの、」

 中井が小和を見て笑った。


「小和です。あの、おかみさんのお遣いで来たのですが、笹岡先生は」

「ああ、ごめんねぇ。先生今学校にいるんだよ、資料室の方」

 中井が眉を下げるのに、小和はああ、と頷いた。

「じゃあ、学校の方に行ってみますね」

「すまんねぇ、無駄足踏ませちゃって」

 小和は首を横に振って、これ、おかみさんからです、と包みを解いて菓子箱を渡す。

「職員寮の皆さんで召し上がって下さい」

「おや、いつもありがとなぁ」

 じゃあ、ご挨拶がてら先生を呼びに行ってきますね、と、小和はお辞儀をして、来た道を戻る。


 今日は休日で、授業はないはずだったが、こういうことは、よくあった。


 校舎正門から今度は敷地へと入り、教室棟を回り込んで、図書館や実験室などがある特別棟に向かう。太陽の明るい時間は、休日でも校舎に施錠はされておらず、誰でも入ることができた。さすがに教室には鍵がかかっているが、笹岡が資料室にいるというなら、資料室の鍵は開いているだろう。


 特別棟の東側、一階から二階は吹き抜けの図書館で、その隣、二階の、実質突き当たりになる部屋が社会資料室だった。

 通い慣れた教室の戸口に立ち、コンコンと戸を叩く。しばらくしても返事がないので、小和はそっと資料室の戸を開けた。


「失礼します、小和です。碧水屋のお遣いなのですが……」


 資料室の中は、本が散乱していた。

 日差し避けのカーテンが引かれた薄暗い部屋の中に、本の塔が四、五個見える。備え付けられた机を無視して床に広げられた資料を、やはり床に座りこんで、本の塔に埋もれるようにして読んでいるのが、この学校の社会科講師、笹岡智徳とものりだった。還暦も近い歳で、薄い髪の毛にはところどころ白髪が交じっている。四角い黒ぶち眼鏡を一度、指先で持ち上げたかと思うと、笹岡は、はっとしたような顔で小和を見上げた。


「あ、碧水屋の、」

「小和です。お仕事中にすみません」

 小和が頭を下げると、いやいや、と笹岡は笑った。本の山を乗り越えて、小和のもとまでやってくる。


「仕事という訳じゃあないですから……、お遣いですか?」

「はい、おかみさんから、先生と職員寮の皆さんに、お菓子を届けに来ました。山水の葛というお菓子で、さっき中井さんに預けてきたんですが」

「そうですか。いつもありがとうございます、こんな山の中まで」

「いえ、りくのところへ、様子伺いに行く用事もありましたから」


 小和がそう首を横に振ると、笹岡はぐるりと資料室を見渡して、それじゃあ一旦戻りましょうかねぇ、と諦めたように呟いた。

「小和さんがいらしたということは、もうおやつ時のようですし」

 小和も同じように資料室を見渡して、先生は、と口を開く。

「今日は、何をなさってたんですか?」


 笹岡は、歴史学の教授である。大学からの出向で、日本史の教師としてここに来ていた。本来の専門は郷土史で、尾羽の町の歴史にも興味を持ち、よく町に顔を出すうちに、碧水屋の常連客となったのだった。職員寮に住んでいるのもそのためで、よく資料室でこの町の民俗資料や町史などを、教材探しがてらに読んでいる。そのうち、それに没頭して、今日のように時間を忘れてしまうこともしばしばだった。


 問われて、笹岡はばつが悪そうに顔を顰めて頭を掻いた。

「いや、面目ない、今日は新しく入った資料の整理をね、やってるうちに読みふけってしまって……」

 言葉が尻すぼみになっていく。叱られた子供のような顔をしている笹岡に、小和は思わず笑った。

「じゃあ、整理は私がしばらく代わります。どうぞ、休憩して来てください」

「いやいや、いつも手伝ってもらっているのに、そんな、」

「いいえ、おかみさんも、そのつもりで私にお遣いを頼んでいますから」


 恐縮する笹岡に、大丈夫ですよと答えて、小和は山になった本の一冊を手に取った。笹岡がよく資料室に籠もるので、こうしてお遣いに来る小和も、片付けや資料の探し出しを手伝うようになった。どういう本がどういう関連で棚に並んでいるのか、もうだいぶ覚えてしまっている。


「益々申し訳ない……あ、でも、そういえば小和さん」

「はい?」

 本を棚に戻しながら、呼ばれて小和は振り返った。

 笹岡は、少し目を細めるようにして、小和を見ている。

「小和さんは、学校に行ったことはないんでしたよね」

「はい。小さい頃にりくに拾われましたから。りくとおかみさんが、読み書きを教えてくださいましたけど」

「せっかくここに来ているんです、ここの本、興味がおありでしたら、どうぞ好きに読んでいって下さい」

「えっ」


 笹岡の言葉に、小和は、いいんですか、と問い返した。

 頬が上気するのが分かる。思わず手で頬を押さえた。


「学校のご本なんじゃ」

「構いませんよ。半分は僕の私物ですし、小和さんには、いつも手伝っていただいていますから」

「……でも、私、あんまり難しい本はまだ読めなくて」

 家事やお店の手伝いの合間に、少しずつ読み書きを習っていた小和には、簡単な物語ならともかく、難しい言葉の多い本は、まだ理解できないものも多かった。ましてや、大学教授が使う学術書など。


 笹岡はしかし、微笑んだ。

「そんなに小難しい本ばかりではありませんよ。地域の物語を集めたような本もあります。勿論、小和さんが、この部屋の本に興味があればなのですが」

 僕の授業は生徒たちには人気がなくてと、笹岡が苦笑いをするのに、小和は首を振る。そして、ありがとうございますと頭を下げた。

「嬉しいです」

「それは良かった。では、ちょっと外しますね」

 笹岡は微笑んで、体を翻す。

 と、そこでふと、「そうだ、もう一つ」と立ち止まった。


 資料室の戸を開けようとする、その途中の姿勢で体を止めたまま、笹岡は真剣そうに首を傾げる。


「さんかく、というのは何ですか?」

「さんかく、ですか?」


 小和も首を傾げた。

「ええ、事務員の中井さんに、この時期はさんかくになりやすいから、気を付けてと言われまして……」

 笹岡の言葉に、ああ、と小和は得心する。

「三角ですね。この時期にかかる風邪みたいなものなんですけど。頭がぐるぐるして、お腹が痛くなるんです」

「この辺りに昔からある病気ですか?」

「ええ。でも、人には滅多に罹らないんですよ。お山の動物や草木が罹るんです。草木に罹ると、葉に三角形の斑ができて」

「草木にですか」


 興味深そうに笹岡が目を見開いた。小和は、尻尾を丸めて唸っていた栢を思い出しながら、苦笑して見せる。

「はい。人にはあまり罹らないから、お山の村がなくなった今では、三角のことを知らない人もいるみたいです。中井さんは昔からここに住んでる方だから、ご心配なされたんじゃないでしょうか」

「なるほど」


 うんうんと頷きながら、笹岡はしきりに瞬きをする。小和はそれに小さく笑って、作業に戻った。少しして思考がまとまったのか、それとも中途半端な姿勢を思い出したのか、笹岡が、あ、では、よろしくお願いしますと、慌てたように資料室を出て行く。とたとたと廊下を踏む靴音が、遠のいていった。


 資料室の空気は僅かに埃っぽい。午後の光が壁に並ぶ本棚をゆっくりと暖めて、乾いた匂いを放っている。まるで部屋が、静かに息づいているような気がする。


 手にした本を、つい開きたくなるのを堪えながら、小和は棚に納めていった。開けば、笹岡のように読みふけってしまうのが分かっていたからだ。

 ――読ませてもらうのは、この部屋の整理が一段落してからにしなくちゃ。


 窓の外から、笑い合うような高く明るい声が聞こえる。生徒のものだろうか、小和はそっとカーテンの隙間から外を見やる。特別棟の裏庭からほど近い、学生寮の中庭で、女生徒が数人、テニスを始めるところだった。髪をお下げに垂らした女の子たちの、白いワンピースが陽射しに映える。

 ぱこん、と、球がラケットにあたる小気味よい音がした。

 小和は、その音に少しだけ耳を傾けてから、再び、本の山へと手を伸ばした。


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