3

 日が暮れる前に碧水屋へと戻ると、おかみさんが中から顔を出して迎えてくれた。ちょうどお客さんも途切れたところで、そろそろ店じまいをするようだった。遅くなったことを詫びながら、すぐに袖をくくって店内の拭き掃除の準備を始めると、厨房で洗い物をしていたちかが、小和に声をかけてきた。


「小和、今日は笹岡先生のとこにも行ってたんだって?」

「ちか姉さん、」


 ちかは、店と厨房を区切る壁の、広い格子窓からひょいと顔を覗かせて、黒子のある口許でにこりと小和に笑いかけた。


「ええ。お遣いで、お菓子を届けに。今日は姉さんたちにお店を任せっぱなしで、すみません」

「いいよいいよ。りくさんとこにも久し振りだったんだろ。あたしはまだ会ったことないけど、小和の恩人さん」


 こら、無駄話してないで片付けな、と、店の表で掃き掃除をしていたおかみさんの声が飛ぶ。ちかは肩を竦めて、はぁいと顔を奥に引っ込めた。

 店の一階の三分の一ほどを、腰までの壁と格子窓で区切っただけの厨房から、ちかが茶釜をごしごしと洗う音が聞こえてくる。


 碧水屋は、一階には縁台を列にして並べ、二階にはお座敷をおいている。小和は庭の井戸から汲んだ水を桶に張り、一階の縁台を丁寧に拭くと、床を掃いて、雑巾と桶を持って二階に上がった。机を拭いて、座布団の埃を軽く払い、二階用の箒で畳を掃いた後、雑巾を替えて畳の乾拭きをしていく。


 きれいなとこには、きれいなものがお通りになるんだよ。


 おかみさんがよく言うことだった。

 いいお茶と、お茶菓子をお出しするのが、お茶屋の仕事だ。店がきれいじゃなきゃ、お茶が濁る。そんなお茶をお客様に出すわけにはいかないだろう、と、おかみさんは笑いながら、芯の通った声で言うのだった。小和にもその大事さはよく分かった。りくがあの小屋に住んでいるのと、理由は近いと思ったのだ。


 りくの住む小屋は、山の気の通り道にある。いいものも悪いものも、ぜんぶ集まってくる所だ。だから、山の気の変化に、りくはとても敏感だった。今の時期は三角が流行るから、りくの小屋は特に気を付けないといけなくて、小和も、町にはあまり流行らないけど一応、と言われて、りくから粉薬をもらっていた。


 夜寝る前に玄関に二ヶ所盛って、残りはお湯に溶かして飲む。おかみさんは、飲まないで、神棚に盛るだけなので、一度理由を聞いたことがあった。おかみさんは少し眉を曲げて、「あたしらは、もうあんまり必要ないからねぇ」と言っていた。


 二階の掃除を全て終えて、掃除道具を抱えて階下に下りる。階段の下で、洗い物を終えて帰り支度をしたちかと行き合った。

「おつかれ小和、また明日ね」

「はい、ちか姉さん、また明日」

 にっこり笑って手を振るちかの、口許の黒子が艶やかだった。


 今度の茶会では、ちかが茶席の主人の一人をつとめるだろうことは、店の者のほとんどが諒解している事だ。ちかの点てるお抹茶は、誰よりも華やかな香りと、まろやかな味がする。


 ご贔屓のお客様を呼んで、中庭で琴を奏でながら、その季節の一等のお茶を出す。それが、春と秋、年に二回行われる碧水屋の茶会だ。春には新茶の、今度の茶会では、秋の熟成した茶葉の、厳選したものをお出しする。年に二回のその行事を、小和も楽しみに思いながら、掃除具を片付けておかみさんを探した。くりやにも店内にも見当たらない、と思ったところで、厨にある勝手口から、おかみさんが入ってくる。どうやら中庭の掃き掃除をしていたらしかった。


「おかみさん」

「そっちも終わったかい。こっちももう終わりだから、あたしらもあがろうかね」

「はい、お疲れさまです」


 箒とちり取りをしまって、勝手口から中庭に出た。碧水屋は、店自体はさほど大きくないが、奥にある中庭は広い造りになっている。紅葉に椿、金木犀に皐月の垣根、小さいながら池もあり、四季折々の景色を見せる。その隅、厨房の勝手口から続く細道を歩いて、中庭の一番奥、蔵のような建物が、碧水屋の住居部分だった。


 元は店の二階が居住区だったのを、先代が二階を座敷席にするにあたって、居室をこちらに移したそうだ。姉さんたちは町の長屋に下宿しているが、小和は預けられた時まだ幼かったのもあって、ここにおかみさんと一緒に住んでいる。

 四畳一間に、台所とお風呂と厠、二階には六畳の客間が一つと、もとは物置で、今は小和の部屋になっている三畳間がある。最初のうち、小和は客間にいたのだが、客間じゃよそよそしいねぇ、というおかみさんの言葉と、ここを使いたいと言う小和の言があって、二人で大掃除をして、物置を部屋にしたのだった。

 思えば、あれが、小和の最初の我儘だった。


「夕餉はどうしましょうか」

「昨日の煮付けが残っているから、それでお茶漬けにでもしようかねぇ。あとはあかざのお浸しでもしようか。お風呂焚いてくれる?」

「はい」


 小和が風呂の準備をしている間に、おかみさんが夕食を用意して、おかみさんの寝室でもある四畳間で向かい合って夕餉を食べる。薪の様子を見ながら沸かしたお風呂に、おかみさんを促して、湯の冷めないうちにと小和も入浴を済ませると、単衣の寝巻に着替えておかみさんに就寝の挨拶に行った。


「おかみさん」

 呼びかけると、おかみさんは、布団の上で繕っていた着物から顔を上げた。

「上がったかい。薬は飲んだ?」

「はい、あの、おかみさんそれ……」

「ああ、あんたの服だよ。そろそろ新しいのが要るだろう?」


 小和は恐縮しきって、そんな、と首を横に振った。今着ている着物は確かに、どれも袖丈が短くなってきていたが、まだ十分に着られる。

「もったいないです。せめて、自分で縫いますから」

「いいんだよ、これくらい。みんなのお下がりで、ちょっと手直しするくらいだし。あんたは本当に、本のこと以外、全然我が儘を言わないしねぇ」


 あんたの荷物は未だに、箪笥の一段だけで収まっちまう、と、おかみさんは、針を刺したままの着物を眺めて苦笑する。そうして、ちらりと小和の指先に目を向けた。


「いいから、あんたは早く寝な。湯冷めしちまうよ」

「それを言うなら、おかみさんもです。早くお休みになって下さい」

「そうだねぇ、それじゃあ、今日はこれくらいにしておくか」

 言って、おかみさんが縫い止しの着物を畳んで脇にのけるのを見て、小和はほっとしながら頭を下げた。


「それじゃあ、おかみさん。お休みなさい」

「お休み」


 小和はおかみさんの部屋を出て、階段を上がる。

 明日、どうやったら、せめて着物の縫い直しくらい、自分でさせてもらえるのかを考えた。



 ――閉めた襖の向こうで、「こんなにいい子だってのに、まったく。薬師がらみは」と、溜息とともにおかみさんが呟いたのは、小和には聞こえなかった。

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