パラオ #34

* 高梨今日子の生活


2000年 平成十二年

一朗さんとわたしの結婚生活は武蔵野台地に建っている歴史ある絢爛豪華なお屋敷で始まった。

50年以上も前に高梨家の一朗さんの御祖父様が縁あって購入されたとのことだ。

わたし達が住むまでは、建物・庭園はしっかりとニュータカナシの総務部で管理はされていたみたいだが、高梨家の誰も住むことはなく、四半世紀ほどの間、ずーっとほったらかしだったらしい。

流石に、使われていない建物内部は空気が淀んだ感じで、あちらこちらに細かな傷みも見受けられた。

なので、専業主婦になったわたしは、自分達の住処を徹底的住みやすく使いやすくする事をこれからのライフワークの一つとすることに決めた。

その為には、ニュータカナシの総務部の管理下を離れることが先決。だから、早々に一朗さんから総務部へ、この屋敷の管理依頼の取り下げを伝えてもらった。

この頃のわたしは、新たな目的ができて生き生きとした日々を送れていた。


そんな充実感、満足感、達成感ある生活を送っている折り、わたしは自分自身の身体が変化していること、自分自身の体調が優れない事に気づいた。

環境の変化からの疲労だと思ったが『何かあっては困る。』と、思い『杞憂だろう。』と、思いつつも雉川のおば様の病院で診ていただくことにした。

診察後の診断を病院側が用意してくれた個室で待っていると、雉川のおば様が自ら部屋へ入ってきた。

「今日子ちゃん。おめでとう。」

「…?」

「妊娠10週目だそうよ。」

「えっと…。」

「赤ちゃんを授かったのよ。」

「わたしが…?」

「そうよ。他に誰がいるの?」と、おば様は明るく笑った。

「そうだったんだ…。」なぜか瞼が熱い。

「改めて、おめでとう。不安な事もあるでしょうけど、うちの病院に任せてくれたら大丈夫だから。」

「ありがとうございます。」

「次の百々乃さんのお見舞いの時に嬉しい報告ができたわね。百々乃さんもきっと喜ぶことでしょう。」

「そうですね。」

自身の妊娠を知った翌週に、わたしは真鶴にいるママのお見舞いへ向かうことにした。


真鶴に向かう日は好天に恵まれた。

結婚、転居を機に、一朗さんがわたしに買い与えてくれたスウェーデン製の黄色のオープンカーを走らせて真鶴に向かう。幌をあげ。髪をしばり。風を受けながら。

一朗さんは安全性の面から「オープンカーは駄目。」って、言ったけど、わたしにはどうしても雉川のおば様のカッコいいイメージ残っていて、自分の車は絶対にオープンカーにしたかった。

そこで、話し合いの結果、妥協案として「安全性能に優れているスウェーデン製の車ならいい。」って、言うことになったの。わたしの「頑固さの勝利。」って、とこかしら。

『お気に入りの車に乗って、ママに嬉しい報告を持って行く。』って思うと、いつもの憂鬱な気分のお見舞いじゃなく、上機嫌で足取りも軽く待ち遠しい人に会いに行くみたいだった。


ママの病室に入るとママは相変わらずの状態…。

今日は椅子に座って微動だにせず、窓から外を眺めているだけ…。

「ママ、今日子です。」ママの側に立ち優しく語りかけた。

「…。」

「いい天気だね。気持ちいいね。」

「…。」

「ママ、今日は嬉しいお知らせを持ってきたの。」

「…。」

「ママ、わたし…、赤ちゃんができたの。」

「…。」

「妊娠したの。」

「…。」ママがびくりと震えたように見えた。

「一朗さんの子供なのよ。」

「…。」

「生まれてくるんだよ。一朗さんとわたしの子供が…。」

「…。」

「こわいけど、待ち遠しい。」

「…。」

「目白のお祖母ちゃんにも会わせたかったよ。」

「…。」

「土岐田のお祖父ちゃんにも…。」

「ときた…。」と、ママがわたしの話が終わる前に言葉を発した。

「…うん。土岐田の…。」

「ときた…、ち…。ち…。」

「土岐田の血筋は汚いんでしょう。分かってるって。」

「ときた…。ち…、ち…。」

「ママ。手は汚れてないから。大丈夫よ。」

「あたしの…。」

「大丈夫だから…。」

「あたしの…。」

「大丈夫。大丈夫。」

「…ち、…ち。」

「だい…、えっ?」

「ち、ち。」

「…?」

「ちち。」

「…それって?…いったい?…どういう意味???」

「…。」

「ママ?!どういう意味???」

「…。」

「ママ!!ママってば!!」

「…。」

「…ママ。…ママ。」

「…。」

「…ママ。…ママ。…どういう意味なの。」

「…。」

「ねぇ…ママ。…ママ。…教えてよぉ。」

「…。」

わたしは物言わぬママに側で何時間、同じことを問い続けただろう…。

いくら問い続けても、電池が切れたママは、うんともすんとも答えない…。

わたしの脳みそが考えたくない仮説を出そうとする。わたし理性はそれに必死で抗う…。

そんな問答をどれくらいの間繰り返していたのだろ…。わたしの思考は一つの答えを導き出す。


『ママの言った言葉が「土岐田はあたしの父。」ならば…。ママと英子会長は異母姉妹…。』

『そうだと…。わたしは土岐田次郎の孫娘…。そして、わたしは、土岐田次郎の孫である高梨一朗と結婚したことになる…。』

『…一朗さんとわたしは…。いとこになるの…。結婚していいの…?分からない…?分からない…?」


わたしは凍りついたままのママの側を離れた。重い足でゆっくりと出口に向かった。

病室のドアを開けると、病室棟の廊下は夕焼けのオレンジ色に包まれていた。

茫然自失のわたしは単純に帰ろうとしていた。帰りたかった。

柿色に染まる廊下を進み、階段を下りようとした。その時、急に目の前が真っ暗になり、体中の血液が地面に吸い込まれてしまったような感覚に陥った。

『立ってられない…。』

故意か過失か、わたしは階段を踏み外し、階下の踊り場まで転げ落ちた。

踊り場の床に全身をしこたま打ち付けた。股間から温かい体液がこぼれ出るのを感じた。

そしてわたしの意識がフリーズする瞬間、あの言葉が頭を過ぎった。


「勝手にお外には行ちゃ駄目だよ。お外は危ないから。怖い鬼がやって来て今日子を連れていちゃうから。今日子が居なくなったらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「子供だけで公園に行っちゃ駄目だよ。公園には危ない物がいっぱいあるから。今日子が怪我したらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「お友達と寄り道しちゃ駄目だよ。車も駄菓子屋も危ないから。車に引かれたり、変なもの食べてお腹壊したらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「お祖母ちゃんの言うこときいて良い子でいてね。悪い子になっちゃ駄目だよ。いつまでも良い子でいてね。じゃないと鬼になっちゃうからね…。」


結局、お祖母ちゃんの言う通りだったんだね…。

お祖母ちゃん言うことを聞かなかったわたしは、鬼になっちゃったんだね…。

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