パラオ #32

* 鳩山今日子の新機軸


1995年 平成七年 四月

「鳩山。じゃあ、今日から宜しくね。」と、言われて鶴岡秘書室室長は席を立った。

「承知致しました。鶴岡秘書室…、じゃなかった。鶴岡スーパーバイザー。」

「今日から秘書室室長はあんたなんだから…、ほんとしっかりしてよ。」と、鶴岡スーパーバイザーは笑顔でフランクに言いながらわたしの両肩を優しく掴み、秘書室室長席に座らせた。

「はい。鶴岡ひしょ…。」就任の緊張と鶴岡スーパーバイザーの行為への驚きでまたしくじってしまった。

今回の人事異動で、鶴岡秘書室室長は新設された【スーパーバイザー】という役職へ昇進された。

【スーパーバイザー】とは、監督者、管理者、という意味らしい。

今度は、本社全体の部門を監督、管理するらしいけど…。

『今までの室長の仕事と余り代わり映えはないように思うんだけど…。』と、わたしは思ってしまう。

だけど、鶴岡スーパーバイザー曰く「組織内部の流動性を高める…、云々かんぬん…。」だそうだ。


「それと…。」

「はい。なんでしょう。鶴岡スーパーバイザー。」

「高梨欧州統括本部代表取締役の本社への栄転のことなんだけど…。」

「はい。」

「私の異動で仕事を途中で投げ出す様な形になっちゃったけど…。一番の心残りなの…。」

「はい。」

「あとは、任せたわよ。よろしくお願いね。」

「はい。よろしく任されました。ご安心ください。」と、意味不明な返事をしてしまった。

「…安心、…していいの?」と、笑顔で突っ込まれた。そして小声で「しっかりね。」と、わたしの耳元で囁いた後、秘書室のみんなに笑顔を残してこの場を去って行かれた。

今回のわたしの秘書室室長への抜擢人事も、ニュータカナシ本社に於いては異例中の異例。

秘書室内にはわたしなんかより数段、キャリアの長い先輩達もいる。大きな仕事をこなしてきた猛者達もいる。

なのにわたしが大抜擢された。それはひとえに、鶴岡スーパーバイザーの推薦と後押しのおかげ…。

鶴岡スーパーバイザーは、わたしが秘書室に配属されたその日からわたしを可愛がってくれた。とてもわたしに目をかけてくれた。わたしにとっては年の離れた姉のような存在になった。

鶴岡スーパーバイザーが、わたしに秘書室室長への昇進の話をした時も「鳩山は私の持っていないものを沢山持っている。私が出来なかった事を鳩山なら実現してくれるから…。」と、いつもと同じく言ってくれた。

その言葉で、わたしは秘書室室長への昇進のお話を受けることに決めた。

全く自信は無いのだけど…。


元々、わたしがニュータカナシにいる理由は、土岐田次郎に近づくため…。それだけ…。でも、もうそれは叶わない事…。

わたしがここにいる理由は無くなった…。

そんな虚無状態のわたしを叱咤激励し、頼りにしてくれた鶴岡スーパーバイザーの言葉、表情、態度、考え方…、鶴岡スーパーバイザーということ存在が、わたしに新しい目的と目標を与えてくれた。

だから、わたしは『結果で返す。わたしの持っているもの全てを使って、鶴岡スーパーバイザーの出来なかった事をわたしが実現する。』と、心に決めた。


そして、今日がその第一歩。

わたしは室長席から立ち上がり、深く息を吸い込み、しばらく止めてから一気に吐いた。呼吸を整える。両手で頬をパチンと叩いた。それから大きめの声で広い秘書室にいる全てのスタッフに聞こえるように話し始めた。

「スタッフの皆さん、本日より秘書室室長に就任致しました鳩山です。」

新しく入ったスタッフ達も私より先輩のスタッフ達も皆、静かに聞いていてくれる。

「わたくしは若輩者で、前任者と比べれば大いなる力不足は否めません。」

「…。」

「しかし、秘書室はわたくしの未熟を失敗の言い訳にはできません。」

「…。」

「ですので。わたくしの至らぬ点を皆さんのお力添えをいただいて、前室長で在らせられる鶴岡スーパーバイザーに誇れる秘書室になれるように努めて参ります。」

「…。」

「その第一歩として、6月のニュータカナシの株主総会における高梨一朗新社長信任会議。それをを滞りなく行い、成功裏に進めたいと思います。」

「…。」

「秘書室が一丸となって高梨一朗新社長が就任後、直ぐに業務に集中できるように環境を整えたいと思います。全力でサポートしたいと思います。ですので、是非ともスタッフの皆さんのお力をお貸しください。よろしくお願いいたします。」と、わたしは大きく頭を下げた。

その刹那「はい。」と、一斉に美しく響き渡る声がわたしの両耳に返ってきた。拍手が舞い起きる。わたしの目頭が熱くなる。

わたしは大きく息を吸って胸を撫でおろした。


「鶴岡スーパーバイザー、脱落ね。」

「社内玉の輿は夢と散ったわねぇ…。」

「あとは…、政略結婚のDK銀行の頭取の孫娘か…。」

「Sグループの会長の孫娘の…。」

「一騎打ちね…。」

わたしが秘書室室長に就き、株主総会への準備を進めている最中、ニュータカナシ本社の女子社員達が面白おかしく語らっているこんな話をよく耳にした。

察するに「鶴岡スーパーバイザーは誰かとの婚姻を期待していたが、叶わなくなった…。」と、言うことらしい。

わたしにとっては寝耳に水。

『鶴岡スーパーバイザーにそんな秘めた人がいたんだぁ…。そんなことおくびにも見せなかったのに…。』

当初この噂は、わたしに小さな驚きと、なぜか心が温かくなる話だった…。

…が、しかし、


* 高梨英子会長の政略


今回の株主総会は、息子の高梨一朗を株式会社ニュータカナシの代表取締役社長に株主総会取締役会の全会一致の可決をもって任命させる。

そのための根回しは既に終わっている。

ここまでは問題無い。


あとの問題は、一朗の婚姻だけだ。良縁が会社を、企業を大きくする…。

古めかしい言い方ではあるが、所謂「政略結婚」。

経営者の家に生まれた段階で、子供らは生まれもって、その会社、その資産、その従業員達…、を背負う事になる。生まれながらに使命を持たされる。

だからこそ、勝手は許されない…。


一朗の大学時代、鶴岡には、将来と引き換えに花嫁候補から退いてもらっている過去がある。

同い年の一朗と鶴岡は京都の大学時代に知り合い、お付き合いが始まった。

同じ学び舎に通い、違う学科に学ぶ二人は何時、何処で接点があったかは定かではない。一朗を監視するため私が送り込んでいた密偵が気がついた時には、もう二人は付き合っていた。

人付き合いが苦手で感情を余り露わにしない一朗が恋したのだ、本人の本気度はうかうかがえる。

在学中にミス✕✕大学に選ばれる程の才色兼備の鶴岡も、一朗がニュータカナシの御曹司だとは知らずに付き合っていた。一朗の人となりを本当に愛したのだろう。

私は一朗に芽生えた新たなる感情を喜ばしく思い「学生時代だけなら…。」と、二人の短いであろう恋路を見守ることにした。

だが、私の甘さがあだとなった。


二人の恋愛はプラトニックでは終わらなかった。二人共私が考えていたよりも「男」と「女」だった。大人の恋人同士の自然の成り行きの結果、鶴岡は妊娠した。

しかし、奥手な一朗はそれに気づく事はなかった。

気づいたのは私が一朗の監視のために張り付かせていた密偵だった。

密偵からその報告を受けた私は、非常な決断するだけだった。


報告を受けた後日、私は京都へ、鶴岡に中絶し、一朗との関係を清算してくれるよう懇願しに赴いた。

その面会の際、一朗の生い立ちから背負ってものまで全てにおいて鶴岡に包み隠さず話をした。

鶴岡は私の話を理解し、一朗の将来を鑑みて、私の申し入れを承諾した。

私は唯一の友であるシンコにお願いし、信頼おける雉川総合病院で鶴岡の手術を施してもらった。そして、鶴岡には「卒業後はニュータカナシが面倒をみる。」と、約束させてもらった。


その後、理系の鶴岡は研究が忙しくなった体を取り、文系の一朗との距離を広げていってくれたらしい。そして、一朗との関係は自然消滅し、現在に至っている。

鶴岡は、大学院卒業後、ニュータカナシへの就職を希望した。私は約束通り彼女を迎え入れた。

しかし、鶴岡はニュータカナシに入社しても私に甘えることも無く、実力で現在地位まで登り詰めた。過去の遺恨など無かったかのように…。

そして、鶴岡は一朗との過去の関係を持ち出すことも無く、一朗を陰日向となり支えてくれた。

考えるに、それが鶴岡の意地だったのだと思う。

本当に私は彼女に酷いことをした。鶴岡には感謝しかない。

ただ、一朗には己の身を持ってしてもニュータカナシを繁栄に導かねばならない生まれ持っての責任がある。

ニュータカナシ全従業員の生活を守る義務がある。

その為ならば、私は手段を選ばない…。


* 鳩山今日子の察し


高梨一朗欧州統括本部代表取締役の帰国をあと、数日後に迎えようとしていた。

株主総会の準備はこわいほど問題なく進捗していた。

わたしは余りに何も起こらない事に少々、物足りなさを感じていた。

おかげで、わたしは会社、お祖母ちゃんの世話、ママの見舞い、といった平常運転の日々を送れていた。


そんな中、鶴岡スーパーバイザーの新しい話題が耳に入ってきた。

「高梨一朗欧州統括本部代表取締役と鶴岡スーパーバイザーは大学生の時、付き合っていた…。」

「英子会長が無理矢理別れさせた…。」

「鶴岡スーパーバイザー別れた後も未練タラタラ…。」

「だからここまでの追っかけてきた…。」だと…。


はっきり言って鶴岡スーパーバイザーはひどい言われようだった。

鶴岡スーパーバイザーを貶める言葉の数々に腸が煮えくり返った。

姉のように慕い、信頼する鶴岡スーパーバイザーの悪口が、わたしの理性を失わせた。

そして、わたしの意識は怒りに任せて暴走し始めていた。

『なぜ、あんなにいい人の鶴岡スーパーバイザーが悪く言われなくっちゃいけないの?』

『どうして、あんなに優しい鶴岡スーパーバイザーを責めるの?』

『誰も、何も分かっちゃいないのに…、なんで勝手なことばっか言うの?』

『なぜ?なぜなの?』

『どうして?』

『これじゃあ…。…。…。』

『これじゃあ…。…。…。あの時と…。』

『一緒じゃ…、な…、い…。』

わたしの心の奥のもう開くことのない引き出し…。その引き出しがゆっくりと重たい音を立てて開き始めた…。

『そう…。あの時と…。一緒…。』

『…。…。パパの時と…。』

そう思った瞬間、怒りの感情が爆発するようにわたし全体に広がった。

体中の血液が沸騰する…。

でも…、頭は氷のように冷え切っている…。

『思い出した…。嫌な目に合わせないと…。』

『パパを馬鹿にした奴らを…。』

『鶴岡スーパーバイザーを馬鹿にした奴らを…。』

『奴ら全員に…、嫌な目を…。』

その頭が鶴岡スーパーバイザーの言葉を再生する…。

「私が出来なかった事を鳩山なら実現してくれるから…。」

「私が…。出来なかった事…。」

「出来なかった事…。」

『脱落…。』『玉の輿…。』『付き合ってた…。』『未練…。』『別れさせられた…。』わたしの中に残っている言葉のピースがつながる…。

『鶴岡スーパーバイザーが出来なかった事…。それは…、高梨一朗との…、結婚…。』

わたしは自分自身の閃きに嬉々とした。

『わたしが高梨一朗と結婚すれば…、この会社のクズ共はショックを受けるだろうなぁ…。』

『わたしが高梨家に嫁げば…。わたしは土岐田次郎の血筋の一部となる…。お祖母ちゃんもママも誰も彼もショックを受けるだろうなぁ…。』

『…面白い。』


「パパ、鶴岡スーパーバイザー、わたしが実現してあげるね。」と、声に出して誓っていた。

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