パラオ #31
* 鳩山今日子への悲報
1990年 平成二年 冬
転属騒ぎからやっと半年ばかりが過ぎた。
毎日、毎日、慣れない秘書のお仕事を覚えるのに精一杯。
どうにかこうにか、つい先日までは、然程波風を立てることもなく秘書室勤務をやってこれた。
ただ、ここ数日、急に秘書室の動きが慌ただしくなった。
鶴岡室長以下、秘書室全スタッフが上を下への大騒ぎ…。って感じ。
まだまだ秘書としては半人前のわたしですら第一線に駆り出される始末…。
理由は、世界中にあるニュータカナシのグループ企業の重役達を、急に、一時期に、一挙に、日本へ召集することになったから…。
現在のニュータカナシは、元々、会社が大きくなるきっかけとなった酒類販売業や鉄鋼事業、その他に、ホテル事業、観光事業、薬品化学事業、デベロッパー事業、商社…等を世界中で展開してる。
それら世界中に散らばってるグループ企業の重役達を一同に召集するのだ、一筋縄でいくわけがない。
召集については英子会長が独断で決めたみたいで、ニュータカナシの社員は誰一人として英子会長の意図を知る由もなかった。
今回のニュータカナシ本社秘書室の任務は召集を受ける各国にいる重役達のスケジュール調整。
様々な国で様々な国籍の人々によって経営されている多国籍企業であるニュータカナシ。その重役達を一同に呼び集める事は、一時期としても至難の業…。
そんな難しい調整に秘書室全員が四苦八苦している最中、わたしにとって最悪な悲報が耳に入る…。
英子会長のお父様…。土岐田次郎氏の死…。
聞いた瞬間、わたしの頭から静かに、そして一気に,血の気が引いた。その場に倒れそうになった。
『なんのために…。』わたしの心の中の第一声…。
ガラガラと音を立て建物が崩れいてく、ありふれた、ありがちな映像がわたしの頭の中に映し出される…。
パパを馬鹿にした。パパを見捨てた。パパを見殺しにした。そんな奴ら全員に嫌な思いをさせるため、痛い目に合わせるため、そのためだけに土岐田次郎へ近づくことを画策した。
…にも関わらず、当の土岐田次郎がいなくなっては…、全てがパー。全部、水の泡…。
今日まで、土岐田次郎に会うためだけに、近づくためだけに、進んできた…。
そのためだけに、選んできた…。
それがあったから、迷わなかった…。
『じゃあ、無くなった今はどうすればいいの…。の…。の…。』心からの叫び…。
荒波が岩にぶつかって弾ける、よく見る映画の出だしみたいな映像が、わたしの頭の中に映し出される。
体中の力が抜ける…。立ってることが辛い…。
『いっそ、こんな体も心も、砕け散って欲しい…。』これが、自暴自棄ってやつね…。
体が風船みたいに膨らんで、パーンって粉々に割れる、アメリカのカートゥーンショウのひとコマが、わたしの頭の中に映し出される。
今すぐにでも全てを投げ出して消えてしまいたかった…。この場から逃げ出したかった…。
でも…。それを踏みとどまらせてくれたのが、鶴岡秘書室室長の存在…。
鶴岡秘書室室長の額に汗をにじませながら働く姿…。
わたしにとっては会社の上司であり、キャリアウーマンの大先輩であり、かっこいいお姉さんみたいな存在。
あの移動初日から、何も出来ない、分かってないわたしを半年ばかりの時間で、育み、守り、そして、成長させてくれた。
ことある毎に「鳩山は、私の持っていないものを沢山持っている。私の出来なかったことを鳩山なら実現してくれる…。」って、言いながら褒めて下さった。
その人、その言葉でわたしは救われた。
わたしの喪失感なんてたいしたことない。って思える。
今やるべき事はなに?って思える。
うじうじ悩むな。って思える。
だから、今は秘書室の任務に集中する。
おかげでどんより考えなくってすむ。
土岐田次郎の死因は老衰だったみたい。「大往生」って、みんな噂してた。
英子会長は実父の死期が近いことを知って、色々と準備してらっしゃったみたい。
特に、忙しい各国の重役達に気を遣わせないないように、葬儀を一度で円滑に済ませるため、ある面強引な召集をかけたみたい。
その甲斐あって、各国から来日した重役達はスムーズに葬儀に参列できて、以降の各国の会社業務にも支障をきたすことはなかったらしい。
英子会長の英断は功を奏した。でも、土岐田次郎氏に、会うことすらも叶わなかったわたしのこれまでの頑張りは甲斐も無かった…。
でも、あたしは新しい救いを見つけることができた。
* 高梨一朗の遭遇
祖父の初七日法要を終えた翌日、ニュータカナシの本社ビルへ赴き、各部門へ葬儀のお礼を述べて回った。
「おはようございます。失礼します。」
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはようございます。」と、この部門では、あちこちのデスクから若い女性達の黄色い挨拶が飛び跳ねる。
「おはようございます。高梨欧州統括本部代表取締役。お変わりなくお元気そうで…。」と、一番奥に座する鶴岡秘書室室長が私の方へ歩み寄る。そして、頬を少し赤らめた満面の笑みを私にくれた。
「鶴岡さんもお変わりなく…。」
「この度は、ご愁傷様です。お悔やみ申し上げます。」と、鶴岡秘書室室長は濡れた様な黒髪の頭を下げた。
「鶴岡さん達も忙しい中、葬儀のお手伝い、ありがとうございました。葬儀中はお会いできずに、挨拶が遅くなり申し訳ありません。」と、鶴岡秘書室室長と周りにいる女子社員達にも礼を述べた。
「いえいえ。お気遣いなく…。」と、鶴岡秘書室室長や周りの女子社員達も合わせた様に首を横に振っていた。
「それで、唐突なんですが…。」
「はい。なんでしょうか。」
「明日、日本を発とうと思います。」
「…寂しくなりますね。英子会長もお寂しいのでは…。」
「仕事が待っていますから…。これ以上ゆっくりとは…。」
「そうですね。」
「それで飛行機のチケットの手配をお願い致します。」
「承知致しました。何時ごろの便が宜しいでしょうか?」
「…ん。荷物の片付けに…。本屋にも寄りたいから…。明日の夕方の便でお願いします。」
「承りました。」と、応えながら、鶴岡秘書室室長は私の入ってきた出入口の方へ目をやった。
『ん?何だろう…。あっちに何か…?』
「丁度良かったわ。鳩山。鳩山。」と、鶴岡秘書室室長は出入口付近に向かって部活動の後輩か学校の生徒でも呼ぶように声をかけた。
『珍しいな。鶴岡さんがスタッフを呼び捨てなんて…。それも大声で…。』
「はい。鶴岡室長。どういったご用件でしょうか。」と、若々しい澄んだ声の主が私の後ろから近づいて来る気配がする…。
「明日〇月〇日、18時以降の航空便で…。アンカレッジ経由でロンドンのヒースロー空港着。ファーストクラスの航空券を1名分取ってちょうだい。乗客名は…。」
「…はい。…はい。承りました。」と、私の後ろで命を受けた御仁はメモを取りながら歯切れのよい透き通る様な声で答えていた。
私は彼女にお礼を伝えようと体の向きを変えた。
瞬間、私は固まった…。茫然自失となった…。
そこにいた女性は私の想像を遥かに超えた。
文字でも言葉でも形容することのできないほど、若々しく美しい女性だった。
女性の回りだけが輝いている様な錯覚を見るほどだった。
感情の起伏に乏しく、何事も冷めた目で見ている私が何時になく動揺していた。
否。動揺ではない。一瞬で心奪われていた…。
「…では、高梨欧州統括………。次第、航空券を………。お持ち………ます………。」遠くで鶴岡さんが何かを言っている…。
私は呆然と「ありがとう。」と、だけ言い残して、その場を去った。
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