パラオ #25

* 鳩山今日子の暮らし


1987年 昭和六十二年

お祖母ちゃんが倒れてから、もう1年ぐらいの月日が過ぎた。あの日あの時、お祖母ちゃんは脳内出血を起こして歩道から道路へ倒れ込んだ。

その際、打ち所悪く足の骨も折った。救急病院での大変な手術だったけど、どうにか一命はとりとめた。ただ、今でも入院中だ。

術後ほどなく、太郎おじさんは、長期入院・療養を見越して、お祖母ちゃんを太郎おじさんが懇意にしてる大塚にある総合病院に転院させた。わたしが入院中のお祖母ちゃんの世話で通いやすいように…。って、配慮からだ。

お祖母ちゃんの入院・療養費用は、太郎おじさんの寿丘不動産が「従業員の帰宅途中の事故。」ってことで、全額負担してくれてる。

わたしの生活費も太郎おじさんの寿丘不動産が「就業時間に含まれる帰宅中の労働災害。」ってことで、従業員の家族であるわたしに支払らってくれてる。

おかげでわたしは、これまでと変わりなく学校に通い、日々、お祖母ちゃんの入院中の世話をし、そしてこの家で不自由ない生活を送ってる。

全部、太郎おじさんの寿丘不動産おかげ…。

…なんだけど、なぜか本心から感謝できない…。


お祖母ちゃんの容態も事故当時から比べるとかなり改善した。けど、足の骨折から歩行には歩行補助器具が必要だし、脳内出血から中度の認知症も患ったまま…。

なので、お祖母ちゃんの日常は、1日の大半を病院のベッドで過ごすような生活…。

わたしは学校帰りにはお祖母ちゃんの入院している病院に立ち寄るようにはしてるけど、それはあくまでも日課として。

お祖母ちゃんの洗濯物を回収して、洗い上がった物と入れ替えて、少しばかりお祖母ちゃんの様子を見る。

それだけ。ただそれだけ…。


お祖母ちゃんにも太郎おじさんにも、これまで散々世話になってるはずなのに…、思いやりのない孫…。薄情な女…。冷血な人間…。ほんと、人でなし。

でも、どうしても、わたしは許せない。あの日、お祖母ちゃんが、太郎おじさんが、今は亡きパパを罵ったことを…。パパを馬鹿にしたことを…。パパを嫌ったことを…。どれもこれも…。だから、お祖母ちゃんのこと、おざなりにしちゃう…。

太郎おじさんのこと、信じきれない…。

1年の月日が経っても、この気持ちはちっとも変わんなかった。


* 目白紗千の悪夢


『ガサガサと音が…。』目が覚めた。

目を向けると、孫の今日子が汚れ物と着替えを入れ替えてくれていた。

『今日子。いつもありがとうね。』

『お祖母ちゃん。起こしちゃった。ごめんね。』

『いいんだよ。よく寝たから、今日は頭もスッキリしてる…。』

『じゃあ…お祖母ちゃん。聞いてもいい?』

『なんだい。』

『土岐田。』

『今日子!!!何で…何で…そんなこと…。』

その単語を聞いた瞬間、私の目の前の色が無くなった。眼球に血液が集まっているのを感じる…。周りの景色が赤一色になる…。

頭はまるで孫悟空の頭の輪っかで絞められた様に、頭の回りを力尽くで圧迫されている様な痛みがじわじわと続く…。

頭が熱い…。

『熱い…。熱い…。暑い…。そうだ…。あの蒸し暑い場所で…。全てが始まった…。』

私の頭の中で様々な映像が高速でグルグルと回っている。とても速いスピードで回っているのに…、わたしにはその映像がはっきり見える。

そして、その映像に必ず現れる醜い男…。私をイラつかせる…。忘れもしない…。

『…お前を、…お前を、絶対に許さない。』脳裏に浮かぶのは、奴の脂ぎった顔、だらしない体、獣臭い臭い、ふてぶてし態度、どれを取っても嫌悪しか湧かない。

『あいつの血が百々乃を腐らせた…。』

『あいつの血が今日子にも流れている…。』

『あいつの血が…。』

『あいつの血は…。』

「土岐田の…。」

「お祖母ちゃん。お祖母ちゃん。」

「…ん。…ん。」目が…。覚めた…。醒めた…。

今日子が私の体を揺すりながら声をかけている。

『夢だったんだね…。』酷い夢…。嫌な記憶…。思い出したくない出来事…。

『はて…。どんな夢だったかねぇ…?』

朦朧とし、混沌としていた私の意識は、また直ぐに、健やかな安らぎについた…。


* 鳩山今日子の偶然


「お祖母ちゃん。お祖母ちゃん。」

「…ん。…ん。」

お祖母ちゃんは一瞬目を覚ましたけど、また直ぐ、寝息をたててた。

でも、驚いた。

入院、療養中のお祖母ちゃんの着替えと汚れ物を入れ替えてたら、寝てたお祖母ちゃんが急に寝言を言い出して…。

最初は「むにゃむにゃ」って、何を言ってるのか分かんなかったけど、しばらくすたら、急に体を揺らしながら大声で…。

「ときた…。」って、はっきり言った。

わたしは急いでお祖母ちゃんを起こして、なに言ってんのか聞き出そうとしてみたんだけど…。お祖母ちゃん、また直ぐ寝ちゃって…。

ひとつ分かったことがある。

あの時…。お祖母ちゃんが倒れる時…。なんか言ってた訳分かんない言葉って【ときた】だったんだ…。

でも…、【ときた】って、なんなんだろう?


* 鳩山今日子のもう一方の暮らし


月に一度、ママのお見舞いにも行く。今日がその日。

今、ママは神奈川県の真鶴にある雉川総合病院の分院で療養している。お見舞いに行く時は、太郎おじさんがいつも車で連れてってくれる。

お祖母ちゃんの事故を知った雉川のおば様が「百々乃さんの早期回復には都会の喧騒よりは郊外の静寂の方がいい…。」って、言って下さり、ママを環境の良い真鶴の分院へ転院させてくれた。

「一日でも早く家族が一緒に暮らせるように…。」って言う、雉川のおば様の配慮から…。感謝感謝。

わたしにとっては小旅行みたいなママのお見舞いは、毎回楽しい時間なんだけど…。太郎おじさんには面倒事みたいで、毎回毎回、終始無言を貫いてる…。

本日も変わらず、太郎おじさんは必要最低限の言葉しか発しない。いつもと同じでママに面会することもない。だから、ママに会うのはいつもわたしひとり。


昼過ぎに真鶴の雉川総合病院の分院に到着。ママの病室に入ると、本日のママはスヤスヤ眠ってた。

付き添いの看護婦さんに状況を尋ねると「午前中、とても機嫌が良く、少しばかり興奮気味だったので鎮静剤を投与した。」って、教えてくれた。

ママに何度となく面会してても、ママにはわたしが分からないみたい。

いつ会っても、ママは幼女みたいな言動や行動をするだけ…。

わたしには、こんな状態のママが回復出来るなんて到底思えない。


今日はおとなしく眠っててくれたおかげで、ママの何とも言えない悲しくなる姿を見ずに済んだ…。って、思っていた時、ママがうわ言を言い出した。

「…あたしじゃない。」

「…ごめんね。…ごめんね。」

「悪いのは…。」

ママはうわ言を言いながら、徐々に激しく体を動かし出した。

手で首筋を掻き始める。結構強い力で掻いてるみたいで首筋に血が滲み出した。わたしはその様子が怖くなって、ナースコールに手を伸ばした…。

…瞬間。

「…あいつ。」

「えっ…?なに?ママ、なに?」

「…ち。…ち。」

「ママ、何言ってんの?」

「ときた…。」

「えっ?!」

それっきりママは電池が切れたみたいに動かなくなった。悪い夢は過ぎ去ったみたいで今は何事もなかったようにスヤスヤ眠ってる。

【ときた】って…。聞き覚えがあった。間違いなく聞き覚えがあった。

そう。

『前にお祖母ちゃんが寝言で言ってた…。』って、聞き覚えが…。


* 太郎の謎


百々乃の見舞が終わり、東京への帰りの車中で今日子がおかしなことを聞いてきた。

「ねぇ、太郎おじさん。【ときた】って分かる?」

「…あん。…えっ?なんだって?」車内がうるさくって聞き取れなかった。

「【と・き・た】って分かる?」

「なんだそれ。人名か?」

「分からない…。」

「どんな字、書くんだ?」

「分からない…。」

「都議会議員にそんな名前のジジィはいるけど…。」

「今日ね。ママがうわ言で言ってたの。」

「百々乃がぁ…。じゃあ…。都議会議員は関係ないかぁ…。」

「お祖母ちゃんもこの前、同じこと言ったの…。」

「紗千さんが…。なんだそれ?」

「全然分からないの…。でも、ふたりとも同じことを言ったんだよ。なんなの?」

俺は返す言葉がなかった。ただ、この家族は昔から妙な事ばかりだ…。

【触らぬ神に祟りなし】…か。

俺はこれ以降、話すことを止め、運転に集中した。


* 鳩山今日子の探求


【ときた】って、言葉が頭から離れない。変に引っかかる。

全然、聞きなれないし、知らない言葉なのに、なぜだか、わたしの心に引っかかる。

お祖母ちゃんとママ…。この二人からこの言葉が発せられた状況を考えてみると…、絶対にいい印象を持ったもんじゃない。

どう考えても…【恨み】【憎しみ】【怒り】みたいな感情しか浮かばない…。

それに「お祖母ちゃんとママ。二人共通の…。」って言う点が謎めいてる。なぜかって言うと「お祖母ちゃんとママはずーっと会ってない…。」から。

少なくとも、わたしがお祖母ちゃんと一緒に住むようになってから、お祖母ちゃんがママのお見舞いに行ったことは一度もない。

そう考えると…、最低でも15年ぐらいは会っていないことになる。

仮に、お祖母ちゃんがママのお見舞いに行ってたとしても…、今のママの状態じゃあ、まともな話もできない。だから【ときた】は、ここ最近の二人の共通のものじゃない。

そうすると…、お祖母ちゃんとママの二人にとっての共通の時間は…、わたしが生まれるずーっと前。お祖母ちゃんとママが一緒に暮らしてた時…。

でも…、そんな時代を知っている太郎おじさんに聞いても、太郎おじさんは全然知ってる感じはなかった…。

【ときた】という言葉がなぜか引っかかる。

【ときた】という言葉を知ることができれば、なぜか切り札になるような気がする。

【ときた】という言葉の持つ意味が、パパのことを見捨てた、パパのことを悪く言った全ての奴らにイヤな思いを与えれる気がする。

そう考えると、あの日以来、とげとげのわたしの心が、ほんの少しだけ丸くなったみたいに感じた。


でも、現状は【ときた】の糸口も掴めないまま時間だけが経過してた。

そんな折、雉川のおば様から「日曜日、気分転換がてら遊びにいらっしゃい。」って、電話があった。

このお誘いは、わたしが「お祖母ちゃんやママの身の回りの世話で疲れているだろう…。」って、心配下さった雉川のおば様の気遣いから。

なので、おば様が言われる通り『気分転換も必要。』ってことで、おば様のお言葉に甘えることにした。


練馬のおば様の家の玄関のベルを押すと、すぐさま雉川のおば様が顔を出した。

「今日子ちゃん。いらっしゃい。」

「お邪魔します。」

おば様のご自宅は先日、建て替えが終わったばかり。

元々、雉川家は、雉川総合病院の隣に広大な土地を所有してて、そこにおば様と結婚する前の旦那様が広大な敷地を有する立派なお屋敷を建て住まわれてた。

旦那様亡き後は、おば様がその物件を受け継ぎ住んでた。

おば様の旦那様は、勝雄さんが生まれる前に亡くなってて、おば様は勝雄さんと二人だけなのにこんな広大な土地でこの広々とした屋敷に住むことにずっと困惑してたんだって。

昨年、勝雄さんが研修医になられて家を出たのきっかけに、おば様は、雉川家の所有する広大な土地の大部分を雉川総合病院に寄付された。

今は小さな敷地に小さな平屋のお家を建てて、おば様ひとりで住んでる。

寄付した広大な土地には、おば様が雉川総合病院理事長として、小児病棟を建設する計画みたい。

ほんと、人格者。わたしにとって、憧れの同性の大先輩。そして理想の大人の女性。


「今日はお天気が良いから、お庭でお茶にしましょうか。」

「はい。」

お庭はお家より広い。よく日が当たる。お庭一面には芝生が敷かれ、所々にセンスのいい鉢植えが置かれてる。聞いてみると植えられてるのはハーブみたい。

「今日子ちゃんは会うたびに綺麗になっていくわね。何か特別なことでもやってるの?」

「そんなことないですよ。何もやってないですよ。」

「何もやってなくってその美しさ…。若いってすごいわねぇ…。」

「おば様だっていつまでもお綺麗じゃないですか…。」なんて…。お茶を頂きながら他愛もない会話をしてた時、なぜだかふと『【ときた】について聞いてみよう…。』って、頭に浮かんだ。

「今日子ちゃん。紗千さんの事や、百々乃さんの事で疲れてない?」

「いつもご心配をおかけして申し訳ありません。わたしは大丈夫です。」

「それならいいんだけど…。困った事があったら言ってね。」

「ありがとうございます。困った事ではないんですけど…。」

「どうしたの?」

「おば様。【ときた】って分かります?」

「えっと…。なんだろう…?」

「お祖母ちゃんが倒れる前に【ときた】って、言ったんです。」

「えっ…。紗千さんが…。」

おば様はしばらく考え込んで、その後ぽつりと言った。

「あの人かも…。」って…。

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