パラオ #23

* 目白紗千の胸騒


宗一郎さんの十三回忌の法要も終えた。私も還暦を超えた。どうにかこうにか、今日子もここまで育ててきた。

私は宗一郎さんに約束したことを果たせているのだろうか…。あの時と同じ気持ちを保てているのだろうか…。百々乃の時の様な失敗は繰り返していないだろうか…。

年を重ねる毎に体は言う事をきかなくなっている…。田舎出で、体力だけが取り柄だったのに…。気持ちも安定しない…。これが、更年期の障害なのだろうか…。

こんな調子の私が、思春期で多感な時期の今日子を守れているのだろうか…。

一見すると今日子は真っ直ぐに成長している様に見える。ただ…何かを隠している様な感じも受ける…。

表面上、あの子は高校生になっても昔から言い聞かせてきた私の【言付け】を守っている。でも、何か違和感を覚える…。何かが影を落としている…。

今日子は普通の子たちとは絶対的に違う類稀な美貌を持ち合わせてしまっている。輝くばかりの美少女に成長したあの子を誰が放っておけるものだろうか…。  

あの子の周りは誘惑でいっぱいのはず…。それを拒めるだけの自制心があの子に備わっているのだろうか…。

何故…、こんな風に思ってしまうのか…。

それは、私の財布…。いつもの置き方と違った…。いつものお札の入れ方と違った…。いつもと何かが違った…。それを何度となく感じた…。

私が勘違いしているだけかも知れない…。呆けているのかも知れない…。だからこそ、具に監視してみた…。でも…何もなかった…。

だけど、拭いきれない何かがある…。

これが私の老婆心であればいいのだけど…。


* 鳩山今日子の精神病質


『今日はパパに会っとこ。お小遣いは全然まだあるけど…。』わたしはわたしが生まれて初めて万引きしたスーパーに向かうことにした。

お金にはまだ余裕がある。

本来ならば今日は危ない橋を渡る必要なんかない。

いつも通りパパにお酒を買って行けばいいんだけど…。

でも…、お店だって馬鹿じゃない。

いつも同じ時期に万引きされることなんていい加減わかっているはず…。

だから、万引きする時期を変える。

万引きする時間を変える。

万引きするお店を変える。

…じゃないと直ぐにバレちゃう。

それじゃなくても派手な見た目のわたしは何もしてなくっても注目を浴びてる。ほんと、万引きするにはマイナス要因ばっか…。

特にお酒ってなると、学生が酒屋さんやスーパーのお酒売り場をうろうろしているだけで目立っちゃう。学生鞄以外を持ってても怪しまれる。

『ほんと、やりにくい…。』

助かるのは、パパはお酒だったら何でもいいみたい。それだけが救い。

そのおかげで無理な大きさのものを取らなくってすむ。取るのは小瓶のお酒だけ。

わたしの高校の制服のブレザーはふた回り大きなサイズになってる。

元々、わたしは女子の平均身長からは大きくかけ離れてる。それにまだまだ成長期…。

それを見越してお祖母ちゃんがふた回り大きいものにした。ぶかぶかで不恰好なんだけど万引きには重宝する。

体に合ってないから、ポケットに嵩張る物を入れていても目立たない。それに、ブレザーのサイズが大きい分、表のポケットも内ポケットもサイズが大きくできてる。なので、素早く物を入れられる。

制服のプリーツスカートも同級生みたいに短くしない。きっちりと膝下丈。

その丈だとポケットに嵩張る物を入れててもスカートは変な広がりを見せないから…。

普通に歩いてるだけだったら、スカートのポケットに物が入ってるなんて誰も気づくことはないと思う。

とにかく、人目の有無を確認して…、獲物に無関心を装って近づき…、一瞬で取って…、ごく自然を装って的、その場をごく普通に歩き去る…。だいたい、こんな感じ。

ちょっとでも危なそうな気配を感じたら実行しない。それに、同じ日の同じお店での2度目のトライもしない。長居は絶対に禁物。


駅のスーパーに着き店内に入る。『あれっ?なんか違う…。』軽いパニックに…。

『売り場のレイアウト変更があったんだ…。』天井から吊り下がってる案内看板を見て気がついた。

お酒売り場の看板は、支払いレジの近くに下がってた。その横には出来合いの惣菜売り場…。

『お客さんも従業員も多い…。人目が多過ぎる…。』

前はお酒売り場はレジからはずーっと離れた場面にあった。

だから、夕方の買い物の時間帯は、夕食の買い物以外でわざわざ遠くの売り場に重たいお酒を買いにくるお客さんは全然いなかった。

でも今じゃあ、夕食の献立に毎日悩み、色んな食材を大量に買わなくっても「出来合いの惣菜やお弁当で夕食を済ませる…。」って人も少なくはない…。

そうなると…。買い物が物質的にも精神的にも、重たくなくなる…。荷物も気持ちも軽くなる…。軽くなった分「お酒でもついでに…。」って…。

買い物客にとっては好循環。わたしにとっては悪循環…。でしかないよ…。

『困ったなぁ…。今日はここでパパのお酒、調達しようって思ってたから…。お金持って来てないよ…。』

今日はパパに会わなくってもいいかなぁ…。って、一瞬考えた。

でも、その瞬間、絶対に今日、合わないといけない…。って、強迫観念に襲われた…。

こうなると、どんな手段を講じてもパパに会いたくなる。それだけしか考えられなくなる。


そうなるとわたしの行動は早い…。

わたしの目は高い上空から餌を探す猛禽類の目みたいにまん丸に見開かれ、悠然と辺りを物色し始めた。そこにある全てのものがよく見える。

配置の変わった店内を何事も無さげに目だけを動かしながら歩いてると、通路に置かれたカートの中に、何か赤いものが目に入った。その直後、わたしの脳は判断した。『これだ…。』って…。


わたしはゆーっくりと狙いを定めたカートに近づく…。衣擦れの音ひとつ立てることなく静かに近づく…。獲物に照準を合わせた今のわたしに食品売り場の喧騒は耳に入らない。

瞬時に獲物に手を伸ばす。わたしにはその動作がコマ送りみたいにカクカクしたぎこちないものに見えた。

腹を決め、いかにも自分の物みたいにその赤い何かにやっとの思いで左手をかける。そして掴んだ…。

わたしの意思は『急いで手を引っ込めたい。』なのに、わたし左手はわたしの意思とは関係なく、スローモーションみたいにしか動かなかった…。『じれる…。』

その時、赤い何かには小さな鈴がついてるのをわたしの目は見つけた。

小さな鈴が大きな叫び声を上げないように手の平でしっかりと包み込み…、そして躊躇なく一気にその赤い何かをカートから引き抜いた。

『…なに?何か引っかかるような抵抗感…。』が、あったけど、その赤い何かは楽々とわたしのブレザーの外ポケットに納められることとなった…。


背中に冷や汗を流し、額に汗をにじましているのをさとられないように、涼しい顔でその場を離れた。そして、2階売り場へ向かう階段の踊り場にあるトイレに駆け込んだ。


女子トイレに三つある個室の一番奥の個室に入る。

個室のドアの鍵を掛け、便座に座った瞬間、体中の血液が沸騰するのが分かった。おでこや首筋に玉の汗がうく…。

爽快な疲労感や晴れ晴れとした達成感がわたしを包み込む…。

その瞬間、わたしの体の中から何とも言えない震えるほどの快感が溢れ出した。それがわたしを満たしていく…。それがわたしを突き抜けていく…。体中の力が抜ける…。沸騰した血液がゆっくりと冷めていく…。

どれくらい余韻に浸ってたのだろう…。波が引き冷静さを取り戻したわたしの脳が、左手をブレザーの外ポケットに動かした…。そこには確かにそれは存在してた。

汗ばむ左手でそれを取り出して確認…。それは鈴の付いた真っ赤な革の長財布…。恐る恐る開いてみた。レシートらしきものが財布の仕切りのあちこちに乱雑に押し込まれてる。

よく見るとそれらの間に紙幣が四つ折りにされて埋もれてた。ゆっくりと紙幣だけを取り出してみる。『1万円札だ。』わたしはそれを制服のスカートのポケットに突っ込んだ。


『これで今日のパパのお酒が買える…。パパに会える…。』わたしは無意識に胸を撫でおろす深いため息をついてた。

『さて、あとは…。っと…。』わたしは未だ本調子じゃない脳みそをフル回転させる必要がある。それは…、この財布の処理…。

本音で言うと、わたしはこの赤い革の財布を持ち帰りたかった。わたしにとっては戦利品。机の中のコレクションに加えたい。

でも、万が一にでも、祖母ちゃんが机の中を見ることがあったら…。誰も知らない財布があったら…。もう言い逃れすることなんてできない…。

万引きの商品と違い、この財布はどう見ても他人の物。…で、あることは一目瞭然…。だから、持ち帰るの断念した。

『それじゃあ、この個室に置いて帰る…。』それが一番簡単だ。

わたしの指紋を拭き取り、ここに置いて出る…。たぶん、わたしがいなくなってしばらくしてからここを使用した女性によって財布は見つかる…。

これが一見、簡単で安全な方法。…って思える。けど、この方法では、財布は盗まれたことになる。だと、警察が呼ばれる…。そして犯人は女ってことになる…。

だから、この財布は処理は『事件じゃなく事故だ。』って、災難を装わなくちゃいけない…。

あくまで、被害者が財布を落とした…。心ない人間に拾われた…。お金だけを取られた…。みたいに…。

そこで心ない人間をその人間の行動を想像してみた。すると直ぐに浮かんだ『パパだった。』

思わず笑いがこみ上げた。『パパなら…。』って…。

パパがしそうな行動を取ることにした。とても簡単。財布からお金を抜く。そして財布を捨てる。…ただこれだけ。

余計な事をしない事が一番怪しまれない事…。


わたしは脱力感、倦怠感を覚えつつトイレを出た。そしてなんの気無しに、トイレの側にあるゴミ箱に真っ赤な革の財布を静かに捨てた。


わたしは何食わぬ顔で1階へ降り、パパのお酒を買いにいった。


* 鳩山広志の遭遇


『ん…。今日子…?なんか買い物か…?』

駅にあるスーパーマーケットの食品売り場で娘の今日子を見かけた。

懐具合が厳しいもんで、カンパしてもらおうと近づいて声を…。と、思った矢先、今日子は何事もない様に他所様のカートから何かを取り、何事もなかった様にその場から歩き去った。

『なんだなんだ…。何やってんだ、あいつ…。』今日子に気づかれないように後をつける。

あの子は2階売り場へ上る階段の踊り場にあるトイレに入ると暫く出てこなかった。踊り場が見渡せる2階にある喫煙所で今日子の出てくるのを待つ。

『長いなぁ…。何やってんだ。もう10分以上経つのに…。』

そう思ってから5分程して少し足元が覚束ない様な歩き方で今日子がトイレから出てきた。

今日子は踊り場に置いてある公衆電話に近づくとその側に置かれているゴミ箱に何かを捨てた。そして1階の食品売り場へ下りて行った。

あの子の姿が見えなくなった事を確認し、急ぎ足でゴミ箱に駆け寄り、中を覗いた。

『これは…。』今日子が捨てたであろうモノを拾い上げると、そいつは「チリン」と、音を立てた。


* 鳩山今日子の失敗


「1080円です。」今日は奮発して6缶セットのビールにした。夕方の買い物でレジは混み合っていた。

「はい。これで…。」わたしはスカートのポケットから四つ折りの1万円をレジのおばさんに手渡した。おばさんは四つ折りの1万円札を広げレジにしまおうとした…。…。手を止めた。

「ちょっと待ってね…。」

「…。」なに…?危険を察知した。『この場を離れなきゃ。』って…。でも、レジは混雑してて前にも後ろにも進めない…。

「これ、お嬢さんのお金?」男性店員が声をかけてくる。

「はい。わたしのです。」

「後ろ混んでるからこっちに来てもらってもいい?」

「はい。」腹をくくって男性店員の言う方へ歩を進めた。その場所には数人の女性店員もいた。『いったい何の用…?』

「このお札、お嬢さんのなの?」男性店員は1万円札をひらひらと揺らしながらもう一度同じ質問をしてきた。

「ええ。」

「先程、お財布を失くされたお客様がいてね…。」

「それが…。」客が早速、店に届けを出してたんだぁ…。それはしょうがない…。

「この1万円札がそのお客様のものらしいんだよ。」そんなこと分かるはずない…。いちゃもん!

「言ってる意味がよく分からないんですが…。」

「お嬢さんの使おうとしたお札がお財布失くされたお客様のものだってこと。」単なるいちゃもんでしょ…。

「なぜ、そんなこと言えるんですか?」

「それが言えるんだよ。」この店員は何を言ってんだか…。

「…。」

「そのお客様、うちの店の常連さんなんだけどね。ちょっと変な癖があってね…。」

「…。」

「年とっていろいろ忘れっぽくなっちゃったらしく、とにかく忘れないように色んな物にメモしちゃうんだよ…。」

「…。」

「今日も夕飯の買い物を忘れないようにメモしてきたらしいんだ…。今日の日付と買い物内容を…。」

「…。」

「…1万円札に。」って言って、男性店員は1万円札をわたしの目の前に広げた。

そこには鉛筆で今日の日付と味醂・片栗粉・サラダ油と書かれてた…。

「…。」何を言えばいい…。

「あの人のお札はいつもうちの方で鉛筆書きのメモを消しゴムで全部消してるから…。筆跡や書き癖もある程度分かってんだよ。」どうしよう…。ミスった…。

「さ…、さっき…。拾ったの…。」

「何を…?」

「財布…。」

「どこで…?」

「そこのところで…。」

「へぇ…。そうなの…。それも無いと思うよ。」

「えっ…。」なんで疑うの…。

「さっきも言ったように、あの人忘れっぽくなっちゃったからさ…。うちの手芸用品店で付けてあげたんだよねぇ…。あの財布に眼鏡用の鎖を…。それで財布と買い物かごを引っ付けてあげたんだよ。」

「…。」だから取った時、なんか変な引っかかりがあったんだ…。わたしは完全に疑われている。

「それに…万が一の為に財布に鈴も付けてあげたんだよ。眼鏡用の鎖って細いから…。切れて落としちゃっても大きな音がするように…。」

「…。」目の前が暗くなる。わたしの前にいた人たちが消えていく…。体中の血液が冷めていく…。引いていく…。

「お嬢さんの言う通りなら…。財布が落ちた時に結構な音がしたはずだよ。でも…、ご本人も僕たちも聞いてない…。これはどういうことなんだろうね。」

「…。」何か…遠くの方で話し声が聞こえる…。わたしに話しかけてるの…?分からない…。

「ねぇ。どういうことなんだろうね…。」

「…。」もう何も分からない…。体がぐらつく…。気持ち悪い…。気持ち悪い…。

わたしの体は機能を停止した…。そして無防備な体勢でスーパーの硬い床に叩き付けられる…。

刹那、力強い手がわたしを抱え起こした…。


わたしは意識を失った…。




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