パラオ #20
* 太郎への訪問者
1983年 昭和五十八年 早春
「…さん。…社長さん。寿丘不動産の社長さん。」出社前の会社の前で声をかけられた。
「えっと…。あっ。鈴木さん。おはようございます。」声の主は、目白家の隣に住む鈴木というご婦人だった。
「覚えて下さいましたか。目白さんの隣に住んでおります鈴木でございます。」と、言って鈴木さんはきれいな銀色の髪の頭を下げた。
「ご無沙汰しております。いつも目白がお世話になっております。鈴木さんはお変わりなくお過ごしでしょうか?」
「はい。相変わらずでございます。」
「それは良かった。ところで今日はうちにご用事でも?」
「いえいえ。お顔をお見かけしたものですから、お声をかけさせていただきました。」
「そうでしたか。それはわざわざありがとうございます。」
「前はよく協会本部でお見かけしておりましたが…。最近、協会本部でお見かけしなかったものですから…。何かあったのかしらと…。」
「お気遣いありがとうございます。少々多忙で協会への足が遠のいておりました。ご心配、ありがとうございます。」
「そうでしたの。それじゃあ今度の遊園地の事も…。」
「遊園地…?」
「やっぱり。ご存知ありませんでした。」
「ええ…。」
「協会の関連会社のひとつが遊園地をやるんですって…。この春の開園で…。」
「それは…。全然、存知ませんでした。」
「10年程前から水面下で計画されてたらしいのよ…。なんか…、色々と難しい事があって協会でも知っていたのはほんの一握りみたいよ。」
「へぇ…。」
「あっ。そうそう。それでこの間、協会の婦人部でこれもらったのよ。」
「何ですか?」それは数枚の紙だった。
「そこの招待券。私のところでは使うこともないし…社長さん。よかったら貰って下さらない。」
「ええ…。有難うございます。」と、言って招待券の束を受け取ると鈴木さんはそそくさと帰っていった。
俺は何か釈然としないまま会社に入り、何も考えることなく貰った券の束を一階ロビーの受付カウンターに置いた。
夕方、コーヒーでも飲もうと一階ロビーに降りてみると、従業員が誰かと話している。
「お約束はございますか?」
「太郎君はいるんだろう。呼んでくれよ。」
「ですから。社長とお約束はございますか?」
「約束なんて大丈夫だから…。呼んでくれれば分かるから…。」
俺は問答している間に割って入った。
「私に何かご用ですか?」
「…。太郎君かい。立派になったなぁ。僕だよ。鳩山だよ。」
「は…、鳩山…。鳩山なのか…。」鳩山だと名乗った男を見て俺の記憶が甦る。
男はぼさぼさの髪に無精ひげ面で鼠色の膝の抜けたヨレヨレのスーツを身に付けていた。今の男には、俺の記憶の中の鳩山の面影は微塵もなかった。
「懐かしいなぁ。」こう言った男の口からはアルコールの臭いが漂っていた。
「何しに来た?」話しながらどんどんこいつの事を思い出していく。
「冷たいなぁ。そんな言い方しなくても…。」あの頃と変わらない【青大将】みたいな奴だ。
「何の用だ?」
「義父さんの会社、こんなに立派になったんだねぇ。僕達が寄り集まってた頃とは比べようがないよ。」
「関係ないだろう。」
「さぞかし儲かっているんだろうね。」
「何が言いたい。」
その時、入口のドアが開いた。「…。鳩山…?!」
お使いから戻った紗千さんだった。
「義母さん。ご無沙汰しています。」
「ここに何の用だい。」
「義母さんまで邪険にしないで下さいよ。」
「義母さんなんて呼ぶな。今更、のこのこと何しに来た。」
何度もぞんざいに扱われた男はカウンターに尻をのせ開き直る。
「今更もへったくれも…。義父さんの遺産をもらいに来ただけですよ。」
「馬鹿な事を言うんじゃない。お前に分けるものはない。」
「あるじゃないですか。こんな立派な会社が。お願いしますよ。」
「この会社は目白のもんじゃない。太郎の会社だ。」
「噓言ってんじゃねえ。義父さんが作った会社だろ。」
「今は太郎の会社だ。目白とは関係ない。」
「鳩山。お前何言ってんだ。それにお前には相続権はないだろう。分かってるはずだ。」
「そうかい。そうかい。お前らの魂胆は分かったよ。」と、男は捨て台詞を吐いてカウンターにあった何かを持ち、立ち去っていった。
* 鳩山今日子の目撃
あとちょっとで小学校を卒業する。あとちょっとで中学生になる。本当なら嬉しいはずなのに…。わたしの気持ちは重苦しい…。
その理由は、みんなと一緒の中学校へ行けなくなったから…。
お祖母ちゃんが急に、私立の女子校へわたしの進学を決めた。
年明け直ぐにその女子校の入学試験も受けた。合格通知も届いた。これで仲良しグループも解散…。
重い気持ちを抱えたまま、いつものようにお祖母ちゃんを迎えに寿丘不動産の入口に近づいた時、中から言い争うような声が聞こえた。
『今は入んない方がいい…。』って、咄嗟にわたしの危機察知本能が判断した。
扉を開けようとしていた手を慌てて引っ込め、速足でその場を離れた。
『この辺ブラブラして時間つぶそう…。15分もすれば大丈夫でしょう…。』
わたしは全然深く考えないで周辺をボーっと歩いてた。
どのくらい歩いてたのか、どのくらい時間が経ったのか定かじゃないけど、どっかで誰かがわたしを呼んでる声がした。反射的に声のする方に振り返る…。
「…今日子。…今日子。今日子だろ。」『誰?』全然知らないおじさんがわたしの名前を呼んでる…。
「は…。はい…。」とりあえず返事だけしとく。急に体が硬くなる。緊張が走る。
「やっぱりそうだ。10年以上会ってなくても分かるもんだな…。」鼠色の知らないおじさんは正解を出せた自分自身を汚い笑顔で喜んでた。
「…。」
「パパだよ。パパ。今日子のパパだよ。」
「パ…?パ…?」おじさんの言ってる言葉の意味をわたしの脳みそは理解できない。
「そうだよ。パパだよ。大きくなったなぁ。綺麗になった。ママは、百々乃は元気にしてるのか…?」おじさんはそう言うと一歩近づいてきた。
「…。」わたしは無意識に一歩退いてた。
「あっ。ごめんごめん。怖がらせちゃったね。長いこと会ってなかったからね。安心して。本物のパパだから。」って、やっぱり汚い笑顔で言う。
「…。」
「今日は寿丘不動産に用があって来ただけだから…。また、ゆっくり会いに来るよ…。」
「…。」
「そうだ、これこれ。」って、おじさんはわたしの手をとり、何かをわたしに手渡した。
「…。」
「じゃあまたな。」って、鼠色の知らないおじさんはフラフラよろよろしながら歩き去ってった。
わたしは狐につままれた思いだった。
少しして、正気に戻ったわたしは、手に握らされたものをランドセルに押し込み、全力疾走で寿丘不動産へ向かった。
扉を蹴破るぐらいの勢いで寿丘不動産へ入ると、お祖母ちゃんと太郎おじちゃんが小声で何か話してた。
「た…、ただいま…。」
「おかえり、今日子。えらく息が上がってるねぇ。駆けてきたのかい?それじゃあ、ぼちぼち上がろうかねぇ。」って、お祖母ちゃんはヒソヒソ話をやめていつもと変わらない帰りの挨拶をした。
「紗千さん、お疲れ様でした。」太郎おじちゃんもいつも通り…。
「社長、お先に失礼しますよ。」
「太郎おじちゃん、さようなら。」
わたしもいつものように挨拶をし、お祖母ちゃんと家路についた。
『お祖母ちゃんも太郎おじちゃんもなんか不自然…。』
帰り道、お祖母ちゃんに「今日、パパが来てたの?」って、聞きたかったけど、なぜか口に出せなかった。
この時のお祖母ちゃんからは「何も聞いちゃいけない。」って雰囲気が漂ってた。
* 目白紗千の悲観
私は、一日一日と日が経つにつれ美しく成長していく今日子に末恐ろしいものを感じざるを得なかった。
ずっと側にいる私でさえ、今日子が美しく育っていく様に驚きを隠せない。
このまま何も手を打たず、このままほったらかしで今日子を衆目にさらしてしまえば、この子に何が起きても、この子が何をされても、仕方が無いとさえ考えてしまう。
『小鹿をライオンの群れに放つ様なもの…。』
それ程までに今日子の美しさは危うい。母親の百々乃とは全然違う魅力を孕んでいる。
まだ小学六年生だと言うのに学校から寿丘不動産に寄る数分程度の道のりでスカウトと称する大人達に頻繫に声をかけられているらしい。
『今日子を人目に付かないようにしなければ…。』
『今日子を異性から遠ざけなければ…。』
そう考え、私は今日子の進学に際し、男女共学の公立校ではなく私立の女子校に通わせることにした。
幸運なことに私達の家から十数分という場所に中高大一貫の女子校があり、私はそこへ今日子を進学させることを決めた。そしてそれを今日子に伝えた。
話を聞いた今日子は、一瞬、嫌な顔を露わにした。
しかし、今日子は私の言う事に逆らうことなくこの話を受け入れた。
『今日子は私を悲しませる事は出来ない…。ずっとそう言い聞かせてきたから…。』
わたしの決めた進学先は、偏差値の高い学校だったが、今日子は難無く入試試験に合格した。ひと安心を得た。
だが、中学校入学まであとひと月という時、奴が現れた。今日子の父親である鳩山広志だ。
こともあろうに奴は「宗一郎さんの遺産を渡せ。」と、言ってきた。全くのお門違いな言い分だ。
生前の宗一郎さんは、何故だか鳩山広志という人間を息子の様に可愛がっていた。私は鳩山広志に全く好感を持てなかった。
宗一郎さんの考えは宗一郎さんが亡くなった今でもよく分からない。
百々乃が鳩山広志と駆落ち同然で家を出て行ってしまった時も、百々乃が鳩山広志と勝手に結婚したことも、鳩山広志が事業に失敗して宗一郎さんから借りたお金を返済出来なくなった時も、宗一郎さんは責める事無く、全て許してきた。
宗一郎さんが何故、鳩山広志に対してこんなにも寛大にいれたのかは私には一向に分からない。
百々乃が倒れた時は姿をくらましていた薄情者の鳩山広志。幼子を育てようともしなかった与太者の鳩山広志。急に現れて遺産をよこせと騒ぐゆすりたかりの鳩山広志。それが鳩山広志という人間。
今現在、鳩山広志という人間は私達家族にとっては疫病神でしかない。絶対に今日子には近づけるわけにはいかない。絶対に今日子を守らなければいけない。
私の中にある百々乃の時の…。あの時の…。嫌な記憶が今とダブる…。
『もう、絶対に失敗は出来ない…。』
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