パラオ #19

* 太郎の困惑


1982年 昭和五十七年

車の運転が出来ない紗千さんからの頼みで、百々乃の娘の今日子を連れてもう何年もの間、月イチのペースで練馬にある雉川総合病院へ百々乃の見舞いに行っている。

俺にとっては苦々しい思い出しかない百々乃に近づくのは極力避けたい。そして事実、避けている。もう、俺が進んで百々乃に面と向かって会うことは二度と無い。


九年前に宗一郎叔父さんが亡くなって、寿丘不動産の経営は俺に託された。

思いもよらぬ叔父さんの急逝は寿丘不動産の足元を大きくぐらつかせた。

生前の叔父さんは、寿丘不動産の業績をずっと右肩上がりに推移させてきた。それもこれも叔父さんの水面下での努力の賜物。

社屋も拡大した。従業員も増えた。そして「これから…。」と、皆が思っていた矢先の宗一郎叔父さんの訃報…。

それと時を同じにして、音信不通だった百々乃が見つかり、百々乃が産んだ今日子という幼女が現れた。

その当時、紗千さんは一気に様々な事が起こり、心神耗弱状態だった。

そして「私は会社を継げない…。何も分からない…。」と、丸投げ同然に俺に事業継続を依願してきた。

俺も全然自信が無かった。何故なら、寿丘不動産の売り上げの多くは、全て叔父さん自らが開拓し管理していた大きな取引先や沢山の優良顧客のものだったからだ。それに、急な百々乃の帰還も俺の心をかき乱したからだ。

いつも『いったいどうやって叔父さんはあんな大きな仕事を見つけてくるのだろう…。』と、不思議に思っていた。

叔父さん亡き後、そのからくりがやっと分かった。


生前、宗一郎叔父さんが熱心にやっていた【協会】の活動が、大きな取引や大きな売上に直結していたのである。

それを知った俺は、安易に叔父さんのやり方を踏襲しようとした。

しかし、崇高な【協会】の理念、事細かな【協会】のルール、殺人的な【協会】活動のスケジュール、複雑な【協会】会員の人間関係。どれも一筋縄ではいかなかった。

この時、叔父さんの【協会】への尽力が並大抵でないことを知った。と、共に、叔父さんの寿丘不動産への思い入れの深さを理解した。


『兎に角、これらを全てクリアーしないと【協会】や【協会会員】からの信頼と協力を得ることは出来ないのか…。』大きくなった今の寿丘不動産は【協会】や【協会会員】達によって支えられていたからだ。

『寿丘不動産の屋台骨は彼らだったんだ…。』俺は目の前が真っ暗になった。


それから俺は『泣き言を言っててもしょうがない…。』と、寿丘不動産の仕事と【協会】の活動を必死に両立さた。焦らず一歩一歩【協会】内で信用を勝ち得ていった。

その甲斐あって、時間はかかったが寿丘不動産の業績は回復し、そしてまた少しずつ成長していけた。

それに伴い、俺は正式に寿丘不動産の社長に就任した。無償で会社を譲ってくれた紗千さんには名目だけであるが非常勤役員になってもらった。その役員報酬で孫娘との生活費を賄ってもらうことにした。

しかし、紗千さんは「何もしないでお金だけもらうわけにはいかない。」と、寿丘不動産の店番をかって出てくれている。

何とかなった。息つく暇もなかった。目が回る程に忙しかった。ただ、その忙しい時間が、百々乃への苦い思いを感じなくさせてくれた。

【協会】の活動と寿丘不動産の仕事だけに打ち込む事で何も考えずにすんだ。


しかし、年を追うごとの今日子の成長は、結果的に、俺が忘れ遠ざけようと努めてきた思いを甦らせることになった。


今日子の成長は若き日の百々乃を彷彿とさせた。否、小学六年生で今日子は百々乃を超越していた。

十二歳の今日子の身長は、成人女性の平均身長と変わらず、等身に至っては嘗て「八等身美人」という言葉があったが、優にそれを超えている。

身体はまだ少女のものだが、手足が異常に見える程に長く、体の半分以上が脚のようである。

小さな頭に長い黒髪。顔の半分はあろうかと思える程の眼。その眼をより大きく見せる長い睫毛。鼻筋の通った小さな鼻。厚ぼったい形の良い赤い唇。

叔父・叔母を鑑みてどれをとっても『何処にこんな遺伝子があるのか…。』と、奇妙を通り越して奇怪にさえ思えてしまう程である。『似ているのは…地黒なとこだけ…。』

【鳶が鷹を…】などの言葉では表現しきれない突然変異レベルである。


毎月毎月、百々乃の見舞のために今日子に付き合わされる俺にとっては、嘗ての苦々しい記憶と共に、一方的に恋焦がれていた幼稚な気持ちまでもが思い出される何とも言えない感情になる。

会社を預かる俺が…。いい年をしたおっさんの俺が…。腹の出始めた中年男の俺が…。今更ながら小学生を見て心乱すなんて…、お笑い種だ。

『兎に角、この家族には必要以上に関わらない…。近づかない…。』それだけが俺が俺自身を守る術だと心に刻み込んでいる…。


* 鳩山今日子の成長


「今日子。昨日のベストテン見た?」

「見た。見た。」

「また、聖子ちゃん一位だったね。」

「今週のスポットライトの子、見た?」

「中森…なんちゃら…だっけ?」

「この前、夜ヒットにも出てた…。」

「見た?見た?」

「それ見てなぁーい。」

これはいつもの仲良しグループでの会話。いつもわたしの机に集まって、いつものようにテレビ番組の話で盛り上がる。

木曜日の夜はザ・ベストテンが放送されるから、金曜日の朝はいつもこんな感じ。

ただ、お祖母ちゃんと二人暮らしのわたしは、お祖母ちゃんの寝る時間があるから月曜夜10時からの夜ヒットは見せてもらえない。

5年生までは8時には寝てたから、ちょっとはマシになったけど…。もうちょっとテレビ見たいなぁ…。

前は、みんなでピンクレディーの振り付けを真似たり、別マの話をしてたけど…。わたしだけが段々とみんなの会話についていけなくなってる…。


「来週の日曜日、池袋のサンシャイン60に行かない?」

「行こ。行こ。今日子は?」

「今日子ん家はきびしから…。」

「でも、もう6年生だし、大丈夫じゃない。」

「…うん。お祖母ちゃんに聞いてみる。」

突然の仲良しグループのお友達からの誘い…。正直驚いた。これまでずっと学校以外で遊ぶことなんてなかったから…。

お友達と公園で遊んだこともない。お友達の家に遊びに行ったこともない。いつも学校が終わると寿丘不動産へ寄ってお祖母ちゃんと家に帰るだけ…。

今までずっとお祖母ちゃんから「危ないから駄目…。」って、言われて、お友達と遊ぶことも、お友達と外出することもしなかった。

普通はこれだけ付き合い悪いとお友達が出来なそうだけど、こんなにも友達付き合いが悪くても、みんながわたしと仲良しでいてくれるのには訳がある…。

それは、わたしといると何かと注目されるから…。

同級生の男の子達からも、学校の先生方からも、商店街の人達からも、全然知らない色んな人達からも注目される…。

そして必ず言われることがある。「テレビ出てるの?」「芸能人?」「モデル?」って…。

一緒にいるみんなは、それを自分のことのように面白がってる。自分に言われてたように楽しんでる。わたしには全然面白くないのに…。

わたしはわたしが他の子達と違うことは分かってる。同い年の女子達より大人っぽい…。同い年の女子達より背が高い…。その程度のこと。中身はみんなと同じ小学6年生の女子。

でも、その程度のことが注目を浴びる理由。そして、その程度のことが友達付き合いが悪くても仲良しでいてくれる理由。


『サンシャイン60かぁ…。1978年に出来た東洋一高い建物。水族館が有って…、60階には展望台も有って…、行ってみたいなぁ…。みんなと一緒に行ってみたいなぁ…。』

わたしが今まで持ったことのないささやかな希望が胸を高鳴らせる…。

『でも、お祖母ちゃんは反対するだろうなぁ…。すごく怒るだろうなぁ…。』

さっきまでの高鳴りは一気にしぼむ。でも、また『行きたい!』という気持ちが舞い戻る。

心の中で何度も何度も夢と希望、現実と失望が繰り返しやって来る。

それを繰り返しながらも、自分の気持ちが夢と希望の方に傾いているのを知らず知らずのうちに感じてた。

そしていつの間にか、わたしの心の中は『どうすれば…?どうやれば…?』って、いう考えが占めるようになってた。

その考えは、日を追うごとに具体的になってって、わたしは知らない間に、わたしの中でサンシャイン60へ行くことを決めてた。

もう、決心は手段を選ばない…。


日曜日は寿丘不動産は定休日。だから、いつも日曜日にお祖母ちゃんは溜まっている家事をやる。

いつもと同じ日曜日だと、わたしもお祖母ちゃんの手伝いや学校の勉強で一日中家にいる。

だから、日曜日に出かけるなんて滅多にない。まして、わたしひとりでの外出なんて考えられない。

『お祖母ちゃんが不信感を抱かないで…。安心して外出を許可してくれる理由…。が、ないとなぁ…。』すごく難しい…。

小学校4年生までお祖母ちゃんと一緒に寝ていたわたしは、毎夜毎夜、お祖母ちゃんから【絶対にやっちゃいけないこと】を、言い聞かされてた。

その話はとってもこわい。それでとってもお祖母ちゃんを悲しませる内容。だから、わたしは『絶対に破っちゃいけない。』って、幼心に刻み込んでた。


でも、日曜日にみんなと一緒にサンシャイン60に行くには、その【戒め】を破らなくちゃいけない。簡単なことじゃない。破ることがとてもこわい。

破ると全てが壊れちゃうように思う。それでもなお、わたしの中の願望の方が打ち勝っちゃった。『絶対に行きたい。』って…。

『本当のことは言えない。言えば絶対に反対されちゃう。行けなくなっちゃう。』

「お祖母ちゃんに………。噓をつかなきゃ………。」やらなきゃいけないことを口に出しただけでお腹が痛くなった。まだ何もしていないのに体がこわばった。おでこに汗が滲む。


「あのね、お祖母ちゃん…。」

「なんだい今日子。」

「今度の日曜日…、お祖母ちゃんのお手伝いしなくてもいい…?」

「どうしたんだい?」

「今度の日曜日…、塾の見学に行きたいの…。行ってきてもいい…?」

「塾?勉強塾かい?」

「うん…。そう…。」

「今日子は塾に行きたいのかい?」

「うん…。来年中学生だから…。」

「家でやる勉強じゃ足りないのかい?」

「英語とかよく分からないし…。たぶん…、ついていけなくなちゃう…。」

「そうだねぇ。ところで日曜日は、一人で見学に行くのかい?」

「うううん。クラスのお友達と…。お友達の…、お母さんと…。」

「太郎ちゃんは…、次の日曜日は…、内見予約があったね。じゃあ、お祖母ちゃんが一緒に…。」

「大丈夫。大丈夫だよ。お祖母ちゃん脚の調子、良くないから…。大人の人いるから。大丈夫だよ。」

「そうかい。何処にある塾の見学に行くんだい?」

「大塚…。それと…、東池袋…。」

「分かったよ。気を付けて行っておいで。」

「うん…。」


事前に一緒に行くお友達にはお願いをしといた。

サンシャイン60に行く前に大塚の塾に寄ってパンフレットをもらいたい。って…。

仲良しグループの皆もわたしが行けるとは思ってなかったみたいで、驚き顔で二つ返事でわたしのお願いを聞いてくれた。


当日の朝、あれ程、期待して待ち望んだ日だったのに…。

わたしの頭の中には灰色の靄がかかったみたいだった。

全然、気持ちが晴れやかじゃない。体が重い。

『これが罪悪感なの…?お祖母ちゃんを騙すのって、こんなに苦しいの…?』

「どんなことしてでも絶対に行く。」って、強い意志はどこに行っちゃったの…?

『行きたくない…。こんな思いをしたくない…。』って、気持ちがどんどん大きくなっていく。『やめようかなぁ…。風邪ひいたって噓つこう…、か…、な…、ぁ…。…?!』その時気がついた。

また、噓をつかなきゃいけないことを…。こんなに嫌な思いをする噓をまたつかなきゃいけないことを…。

『もう…、噓つきたくない…。この一回だけでいい…。こんな思いはもう、イヤ。』

わたしは、重たくっていうことを聞かない体で外出の用意をして、無理矢理家を出た。


しかし、お友達との初めての出来事は、わたしから全ての鬱を取り除いた。全てがキラキラ輝いてた。全てが夢のようだった。

朝のあのイヤな気持ちは、この初めての楽しい体験がキレイに拭い取ってくれた。

家に帰るまでは…。


家に近づくにつれて足が重くなってく。お腹が痛くなってく。夢の時間が現実に戻ってく。

『お祖母ちゃんにバレないようにしなきゃ…。お祖母ちゃんにバレないようにしなきゃ…。』同じ言葉が頭の中をグルグル回る。目の前が暗くなる。

「ただいま…。」

「おかえり。」

「これ…。」

「この学習塾にするのかい?」

「ん…。もうちょっと考える…。」

「そうかい。ご飯にするかい?」

「うん…。着替えてくる…。」

それからの記憶はあまりない。意識がハッキリした時には、月曜日の朝を迎えてた。


あれから何日経っても何も起こらない…。何も変わらない…。

わたしの生活も…。お祖母ちゃんの生活も…。学校のお友達との関係も…。いつもの通り…。変わりなく…。

『噓ついても、何も変わらない。言付けを破っても、何も変わらない。わたしの不安って、何だったの…?お祖母ちゃんの言付けって、何だったの…?』

拍子抜けした。呆気ない結末だった。

『何も変わらないじゃん。」

わたしの中で何かが弾けた…。

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