パラオ #18

* 目白紗千の誓い


1976年 昭和五十一年 四月

『絶対にこの子は…、今日子は…、玉のように大切に育て上げる。』

『絶対に百々乃の時のような失敗は、繰り返さない。』

『絶対に目を離しては駄目…。鬼が来る…。土岐田が来る…。鬼にされる…。』


「じゃあ、撮るよ。」太郎の冷静な掛け声が私を正気に戻させた。

その家族写真には、猿の様な老婆と真っ赤なランドセルを背負った天使の様な少女が写っていた。


* 鳩山今日子の日常


今日子は四月から小学一年生。

朝、お祖母ちゃんや太郎おじちゃんの会社の人達と写真を撮った。

赤いランドセルは寿丘不動産の社長さんの太郎おじちゃんが買ってくれた。鉛筆も筆箱もノートも全部買ってくれた。

でも、太郎おじちゃんはこわい。今日子を好きじゃないみたい…。

ママは病気だからお祖母ちゃんとふたりで暮らしている。

パパは遠いところで仕事してるって、お祖母ちゃんが言ってた。

お祖母ちゃんは寿丘不動産で店番をしてるの。

学校が終わったら、寿丘不動産に行って、お祖母ちゃんと一緒にお家に帰る。

お祖母ちゃんとごはんを食べて、お祖母ちゃんとお風呂に入って、一緒に寝るの。

お布団の中でお祖母ちゃんはいつも同じお話をするの。

「勝手にお外には行ちゃ駄目だよ。お外は危ないから。怖い鬼がやって来て今日子を連れていちゃうから。今日子が居なくなったらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「子供だけで公園に行っちゃ駄目だよ。公園には危ない物がいっぱいあるから。今日子が怪我したらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「お友達と寄り道しちゃ駄目だよ。車も駄菓子屋も危ないから。車に引かれたり、変なもの食べてお腹壊したらお祖母ちゃんは泣いちゃうから。」

「お祖母ちゃんの言うこときいて良い子でいてね。悪い子になちゃ駄目だよ。いつまでも良い子でいてね。じゃないと鬼になっちゃうからね…。」

お祖母ちゃん。今日子、いい子でいるから泣かないで…。


* 雉川信子の訪問


彼の月命日には目白家に手土産を持って寄らせてもらっている。

仏壇の彼の遺影に会うため。

それに、焼香のついでに今日子ちゃんの成長を見るため。

私は彼の写真一枚すら持ってない。それ程、私と彼との時間は瞬刻だった。けれども、私と彼の歩みは久遠になった。

永久の契りを結べたのは、彼が私に授けてくれた「勝雄」のお陰…。


今回の彼の月命日には中学生になる息子の勝雄も連れて来た。

彼との間に生まれた子供をここに連れて来る私の心持ちと行動は、非常識甚だしい。恥知らずなこと、この上ない。自分の神経を疑う。

無礼で不品行な行いをしているのは分かっている。

でも、写真だけだけど、勝雄にとっては本当の父親との初めての対面…。そして…、最後の対面…。

坊主頭の中学生、毎日遅くまで野球部の活動で真っ黒に日焼けている今の勝雄からは、文学青年の様だった彼に似た印象なんて微塵ない。

でも、これ以上、勝雄が大きくなれば、彼の面影が色濃く出て来るかもしれない…。『だから…、もう…、ここには連れてこれない…。』

『だからこそ…、一度だけ…、たった一度だけ…、勝雄に本当の父親の姿を見せておきたい。』それは全て私の我儘…。

私がこの人生に於いてたった一度、たった一人、一途にひたむきに愛した彼を勝雄に知っていてもらいたかった。それもまた私の身勝手…。

いつもの月命日のように、仏壇の彼の遺影の前で焼香をさせてもらった。ただ、いつもと違うのは、今日は私だけでなく、私と彼の息子も一緒だということ…。

そして、いつも通り、少し近況報告し、いつも通りその場を発った。

目白家を出た瞬間、勝雄を彼に会わすことができた安堵が私の目頭を熱くした。緊張が解きほぐされた。訳の分からない達成感を感じた。

『宗一郎さん。これがあなたの息子、勝雄です。安心下さい…。』と、夕暮れの空を見上げ心の中で呟いた。


私は思春期で反抗期真っ只中の勝雄の手をとり、無理矢理つないで帰路についた。


* 雉川勝雄の困惑


数日前「勝雄ちゃん。今度の中学校の創立記念日のお休み、ママに付き合ってね…。」と、母さんに言われた。

その日は部活動も無いし、やるべきこともない。母さんに付き合うことにした。

当日、母さんから「学生帽、学生服でお願いね。」と、言われ『デパートじゃないんだ…。』と、落胆した。

母さんも黒の上下で行くようだ。『誰かのお葬式か…?』

片手に風呂敷包みを持って駅までの道を歩いている時「今日行くところは、昔ママがとてもお世話になった方のお家なの…。」と、母さんが振り向くことなく、前を向いたまま言った。

「ふうん…。」

「その方は数年前に亡くなって…。今日がその方の月命日なの…。」

「…。」

「いつもママひとりで行ってたんだけど…。今回は学校が休業日だったから…、勝雄ちゃんにも付き合ってもらおうと思って…。」

「そうなんだ…。」なんか…、行ってもつまらなさそう…。

練馬駅に着くまで、それ以上の会話はしなかった。いつも明るくおしゃべりな母さんが言葉少ないことに少し戸惑った。

池袋駅で山手線に乗り換えるようで、乗り換え前に母さんはデパートの食品売り場でシュークリームを買った。

「あちらには小さな女の子がいるから…。」と、何か言い訳するように言われた。

山手線を巣鴨駅で下り、中山道を板橋方向へ徒歩五分程で目的地とされる家に着いたみたいだ。

母さんは立派な門を少し開け中に向かって声を掛けた。

「紗千さん。雉川でございます。」

「はい。只今。」

暫くすると小さなお婆さんが出て来た。

「雉川さん。いつもいつも、ありがとうございます。」

「紗千さん。お変わり御座いませんか。」

「ええ。玄関先ではなんですから、どうぞ中へ。」

「有難うございます。今日は息子の勝雄も連れて参りました。同席させていただきます。」

「ご子息でしたか。これはこれは、初めまして。目白ございます。どうぞお上がりください。」

「はじめまして。雉川勝雄です。失礼します。」

大人達の堅苦しい礼儀作法に、中学生の知っている限りの大人びた振る舞いで返してみた。


小さなお婆さんはボクらを玄関の近くにある部屋に案内した。その部屋は畳敷きで薄暗く、狭く、簡素な仏壇だけがあった。

母さんは簡素な仏壇の前に静かに正座した。そして横に座るよう身振りでボクに伝えてきた。

何やら儀式めいたことをやった後、母さんは手を合わせ目を瞑り長らくじっとしていた。意味も分からないまま、ボクも母さんを真似てやってみた。

仏壇に置かれている写真立てには、文系の部活動の顧問でもやっていそうなおじさんが写っていた。

『この人が母さんがお世話になった人…。なんか、ピンとこないな…。』


ボクの足が痺れ出した頃、母さんが姿勢を変えた。『助かった…。』と、心から思った。

小さなお婆さんは「有難うございます。」と、頭を下げた。そしてボクらを隣の部屋へ案内した。

その部屋はかなり広い畳敷きだったが、絨毯が引かれ、椅子と低いテーブルが置かれていた。

勧められた椅子に座ると、開き放たれた障子から中庭が見えた。『立派なお庭だけど…、なんか物寂しい…。』

小さなお婆さんは、紅茶と母さんが持って来た手土産をテーブルに並べた。

母さんと小さなお婆さんは、何やら言葉静かに話していた。内容はよく分からない。ボクは手持無沙汰で意味なく紅茶が進む。


ボクにとって、そんな何もする事が無く退屈な時間がしばらく続いていると「ただいまー。」と、玄関の方で小さな子供の声がした。

「おかえり。こっちだよ。雉川のおば様が来てるよ。ご挨拶なさい。」と、小さなお婆さんは今までとは違う大きな声で返答した。

すると、中庭に赤いランドセルを背負った小学校三~四年生ぐらいの女の子が息を切らせ現れた。

「雉川のおばちゃま。こんにちはー。いつもママがお世話になっています。」と、ぺこりと頭を下げる。

「こんにちは、今日子ちゃん。また、大きくなったわねぇ。小学一年生とは思えないくらい…。」

『えっ…?小学一年生…?こんなに大きいのに…。』ボクは単純に驚いた。

「今日子ちゃん。このお兄ちゃんは勝雄。おばちゃんの子供なの。仲良くしてね。」

「勝雄です。」母さんが急に紹介するから戸惑った。

「勝雄お兄ちゃん、はじめまして。鳩山今日子です。」

堂々と物怖じしない女の子の態度は、六歳の子供とは思えなかった。

それに、長い髪、大きな目、長い手足、まるで人形の様だった…。けど、どの国にあるものにも似ていない。一種独特な不思議な雰囲気を持っていた。

「勝雄さん。よかったら、今日子にお勉強教えてやって下さいな。私が大昔に教わったこととは違うもので…。」と、小さなお婆さんにお願いされた。

ボクは「分かりました。」と、明るく返してみた。

「今日子。勝雄兄ちゃんから勉強教わったら後で雉川おば様が買ってきてくれたシュークリームを出すから。しっかり教わるんだよ。」

「はーい。」

ボクにとっても、訳の分からない大人達の話より、小さい子供の相手をしている方が気が楽だ。

日の当たる中庭の縁側で小一時間ほど女の子の相手をしていたら「おやつだよ。」と声がかかった。

女の子はシュークリームを待ちに待っていたみたいで、縁側から急に中庭へ飛び降りた。すると運悪く、着地に失敗し転んでしまった。

地面にうずくまっている女の子を引っ張りお越し、土汚れをはたき、「大丈夫。大丈夫。」と、言って頭を撫でてやった。

ボクが小さい頃、転んだり、怪我した時、母さんが「大丈夫。大丈夫。」と、言って頭をなでなでしくれた。ボクも無意識に同じ事をやっていた。

女の子の顔は見る見る笑顔になり、一目散にシュークリームへと向かっていった。素直な行動が愉快だった。


帰り道、来た時とは打って変わった上機嫌な母さんに手をつながれた。正直言って恥ずかしかった。友達が見てないかドギマギした。

ただ、シュークリームもご馳走になれたし、あっという間だったけど、妹が出来た様な経験もできた…。

『たまには母さんに付き合うのも悪くないか…。』と、思えた。


* 目白紗千の驚愕


雉川がこれまで通り、宗一郎さんの月命日の焼香に訪れた。

宗一郎さんが亡くなってから、恒例の日常行事となった。

『今では宗一郎さんの従甥の太郎でさえ、宗一郎さんの月命日に来ない事があるのに…。』誠に殊勝な事である。

ただ、今日はいつもと違った。雉川が息子を連れて来た。

雉川の息子は、今年で東京でも有数な名門中学校の二年生になるらしい。大病院の跡取りらしい利発そうな日焼けした元気な少年だった。

いつも通り焼香が終わり、いつも通り雉川とお茶を飲みながら百々乃の近況報告などで時間を費やした。

つまらなそうにしていた雉川の息子には、小学校から帰ってきた今日子のお守をお願いした。

それから小一時間程過ぎて私達の話が尽きかけたところで、子供達におやつを振舞うこととした。

今日のおやつは雉川が買ってきてくれた今日子の大好物のシュークリームだ。

「おやつだよ。」と、呼びかけると、慌てた今日子が縁側から飛び降り、着地に失敗して転んでしまった。

雉川の息子は、泣き出しそうな今日子を引き起し、今日子の頭を撫でながら「大丈夫。大丈夫。」と、繰り返し言った。

その光景を見た私は一瞬、心臓が止まる思いをした。

何故ならば、雉川の息子の放った言葉と仕草が、宗一郎さんの癖そっくりだったからだ。

偶然なのだろうが、宗一郎さんに似ても似つかない雉川の息子が、宗一郎さんそっくりの行動をしたことに、私は何ものかの因縁を感じざる得なかった。


* 鳩山今日子の心覚え


今日、学校から帰ったら雉川のおばちゃまが来てた。

雉川のおばちゃまは家に来る時はいつもおいしいお菓子を持ってきてくれる。

雉川のおばちゃまはママがお世話になってる大きな病院のすごく偉い人。

今日子はそのでっかい病院に毎月、太郎おじちゃんとママのお見舞いに行くの。

いつ行ってもママはベッドでぼーっとしているだけ。だけど、少しづつ良くなってるって雉川のおばちゃまが言ってた。

今日は雉川のおばちゃまの子供も一緒に来てた。

中学生のお兄ちゃんなの。顔が真っ黒で坊主頭で歯が真っ白だった。

お勉強教えてくれた。

雉川のおばちゃまのおみやげはシュークリームだったよ。シュークリーム大好き。

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