パラオ #16
* 鳩山百々乃の人生
1969年 昭和四十四年 三月
深く考えもせず夫婦となったあたし達は、鳩山の故郷、香川県の実家の田畑を売りながら、自由気ままに関西を拠点に転々とした生活を送っていた。
「その日が楽しければ…。」と、毎日を送ってきた。
お金が尽きればまた、鳩山の実家の田畑を売って…。不毛な日々の繰り返し…。
あれから何年、こうしていたんだろう…。
別に何処かに安住の地を求めるわけでなく…。目白の家を飛び出してからの何も起こらない穏やかな日常…。
それがあたしの心に隙を与えた…。
あたしの体に異変が起きた…。『妊娠した…。』
あたしは、自分自身の出自を知ってからは、男に愛情を抱く事も、男に触れられる事も、自然と拒否していた。
どんなに生活が乱れている時でも、言い寄る誰とも触れ合うことも、一線を越える様な事もなかった。
ただ、噓でも結婚し、過去を忘れさせてくれる生活を共に過ごしている鳩山に気の緩みからか、初めて全てを許した。
鳩山も彼なりの優しさからか、あたしの心が解れるまで何も求めてこなかった。
ただ、あたしの心が解れ鳩山を受け入れた途端、あたしは拙い失敗をしてしまった。
あたしは恐怖した。「また汚いものが生まれてしまう…。【土岐田】の血を繋いでしまう…。」と…。
しかし、母体とは不思議なもので、身籠っている月日の間の意味知れぬ多幸感が、あたしに恐れを忘れさせた。
面白いことにあれ程恐怖を感じていたのに、月日が経つ毎にお腹の子供に話しかけたり…、子供の性別や将来を想像してみたり…と、自分自身の新たなる面の発現に驚くばかりであった。
しかし、それも出産までの話…。激痛を伴う出産と共にあたしは現実に押し戻された。
そして、思い出したくもなかった「高梨英子」のことまでを思い出す羽目になった。
そんな辛い思いをしながらも、あたしは1970年の最初の月に女の子を産んだ。
鳩山は生まれた子供に「今日子」と名付けた。
後に知ることとなるのだが、鳩山は子供が生まれる前に目白宗一郎に連絡していたらしく、後日、目白宗一郎から、迷惑でなければ「今日子」と、命名して欲しい…。と、便りがあったようだ。
これまで時代を象徴する三無主義(無気力・無関心・無責任)男でお調子者だけが取り柄だった鳩山は、人が変わった様に働き口を探し始めた。
今日子の誕生に何か思う所があったのかも知れない。
しかし、どうしても、あたしは今日子に愛情を持つことが出来なかった。今日子の中の四分の一の汚れた血の事を考えずにはいられなかった。
あたしは、母乳を与えても、おしめを取り換えても、兎に角何をしても、今日子に触れた後は手を洗うようになっていた。
それからのあたしは、育児からの神経症からか、生まれ持つ人格的障害からか、鬱積を鳩山にぶつけるようになっていった。
鳩山の「今日子」という新しい家族を意気揚々と迎え入れようとする決心は、あたしが創り上げた刺々しい殺伐とした日々によって簡単に踏みつぶされることとなる。
お調子者だけが取り柄だった鳩山の活力は、目に見える程に減退し、働き始めた会社も欠勤がちになる。
会社を休みだした最初の頃は、安アパートの部屋の片隅で口を利くこともなく日がな一日ボーっと過ごしていた。
しかし、暫くすると朝から酒を飲むようになり、とうとう全く会社に行かなくなった。最終的には会社から解雇された。
それでもやり直そうと何度も働きには出るが、結局のところ同じことの繰り返し…。
日に日に酒量は増え、金が無くなればまた香川の実家の田畑を売る…。そんな自堕落な鳩山の姿を見て、更にあたしは罵り続けるだけだった。
流石にこんな日々に嫌気がさしたのか、鳩山は借りていた安アパートにも寄り付かなくなった。
そんなある日の深夜、急に安アパートの大家から「電話だよ。」と、叩き起こされた。
急いで共同電話に出てみると、連絡は鳩山からだった。「いったい、何をしているの。」と、文句を言おうとする前に「○○○に金を持って来てくれ。」と、涙声で頼まれた。
あたしは言い知れぬ思いからか、アパートに有るありったけのお金を搔き集め、急いで鳩山に指示された場所へ行った。そこは雀荘だった。
恐る恐る中に入ると、顔を腫らして床に怯えうずくまる鳩山と、彼を取り囲むように殺気立った数人の男達が目に入った。
男達が言うには、賭け麻雀に負けた鳩山が金も払わずに便所から逃げようとしたので焼きを入れたのだ…。と。
あたしは男達に言われるままお金を支払い、頭を幾度となく下げ、ボロボロの鳩山を抱えアパートに逃げ帰った。
アパートの部屋に入るなり鳩山はボロボロの格好のままあたしに向かって土下座をし「心を入れ替えます…。」と、大粒の涙を流しながら何度も何度も謝った。
この夜以降、鳩山は人が変わった様に精力的に動き始めた。
そんな中、鳩山の故郷の友人という者から「共同で会社を興さないか…。」と、いう誘いがあった。
鳩山は「渡りに船」と、ばかりに二つ返事で承知した。
あたし達家族は、起業場所となる鳩山の故郷の香川県へ引越し、鳩山は起業に向かっての資本金集めに奔走した。
鳩山は実家の残っている田畑を抵当に銀行から金を借入れ、縁者に頭を下げ借金をし、何とか起業資金を調達した。
その縁者のひとりには、あたしの育ての親である目白宗一郎も加わっていた事をあたしは後に知った。
しかし、事実は残酷な事に「共同で…。」と、誘った友人は起業資金を持ち逃げし、鳩山には一瞬にして、努力して集めた起業資金分の莫大な借金だけが残る結果となってしまった。
この事実を知った時の鳩山は、茫然自失に陥り、幽霊でも見たかの様に立ちすくみ、暫くの間言葉にならない声を発していた。
詐欺の事実を知った鳩山の実家や縁者達からは、労りの言葉は無く、罵倒と借金返済の要求だけが投げ掛けられた。鳩山は借金返済の重圧からか、みるみるうちに瘦せ細り廃人の様になってしまった。
これほどの目にあっても鳩山が自死を選ぶことがなかったのは、彼に責任感が有ったからではなく、酒を飲む事で現実逃避していたからであり、廃人の様な体で毎日の様に、抜け殻の様になるまで酒を煽った。
その結果、鳩山はこの短期間で典型的なアルコール依存となり、アルコールが切れると家を壊すほどに暴れ、アルコールが入ると子供のようにはしゃぐ「躁」と「鬱」を繰り返した。
しかし、こんな状態の鳩山をまじかにしてもあたしは手を差し伸べることもなく、火の粉がかからぬよう逃げ隠れするだけだった。心底、この己の冷たさに自分自身でも驚いた。
ただ、この件であたし達家族の金回りは完全に途絶えることになる。一人っ子だからと甘やかされていた鳩山は実家からも見限られ、今では勘当状態…。
あたし達家族は乳飲み子を抱え毎日の食費にも事欠く次第…。あたしにとっては見知らぬ土地で誰にも頼ることが出来ない状況…。八方塞がりである。
『アル中でまともな生活も送れない鳩山に期待してもしょうがない…。』と、あたしは自身が働きに出ることを決意した。
ただ、看護学校中退で資格なし、学歴は中卒のあたしにとって堅気の仕事にありつける可能性は皆無である。
仕事探しの選択肢のない中であたしは【新宿ゴールデン街】で過ごした日々を思い出した。
『あれなら学歴も問われない…。経験もいらない…。』と。
あたしは地元坂出市の繫華街へ足を運んだ。
坂出の繫華街で開店前の飲み屋を見て回り「従業員募集」の張り紙がないか探した。すると【新宿ゴールデン街】に有った様な間口の小さな一軒の飲み屋の扉に「従業員募集」の薄汚れた張り紙を見つけた。
あたしは『まだ日の高い時間…。誰もいないだろうなぁ…。』と、思いつつも、そのすりガラス扉をノックしてみた。
すると即座に「誰だい?まだやってないよ。」と、しがれた女の声で返事があった。
「すみません。表の張り紙を見て…。」と、あたしが返すや否や、すりガラスの扉は勢い良く開いた。そして、化粧っけのない黄ばんだスリップ姿の四十女が顔を覗かせた。
「…。今晩から来れる?」と、あたしを見るなりたばこの煙を吐きながら聞いてきた。
「…ええ。大丈夫です。」
「んじゃ…。夕方六時にここに来て。」と、四十女は吐き捨てると刹那にすりガラスの扉は閉められた。あたしは呆気に取られた。
約束の時間にその飲み屋に出向くと、昼間会った【女】とは全くの別人に見える【女性】があたしを迎えた。
「おはようさん。今夜からよろしくね。」声まで別人だ…。
「よろしくお願いします。」
「お名前は…?」
「もも…。桃子です。」咄嗟に偽名を使ってしまった。
「桃子…。源氏名もそのままでいいか…。じゃあ…今晩から【桃子ちゃん】で…。よろしく。」
それだけ取り決めると女主人は小さな店内の説明を始めた。そして、然程混雑もなく今夜の仕事はあっという間に終わった。
あたしが帰り支度をしていると女主人が封筒を渡してきた。
「はい。今日の日当。うちは日払いの取っ払いだから。」
「ありがとうございます。」
「うちを辞める時は言わなくっていいから…。だから日払いにしてるの。後腐れ無しってことで…。明日も来れる?」
「はい。大丈夫です。」
「これ以上欲しかったら、お客様を捕まえてね。じゃあ、明日もよろしく。」
「はい。分かりました。」
帰りの道すがら封筒の中身を確認した。この飲み屋での初日当は六千円だった。
夕方六時から夜中の零時迄の六時間で…。大卒初任給が四万円程…。あんなカウンター八席しかない古ぼけた飲み屋の日当が六千円…。
今夜は、その八席すらも埋まらなかった…。それでも六千円…。学歴とはいったい何なんだろう…。労働とはいったい何なんだろう…。
あの女主人は言った「これ以上欲しかったら、お客様を捕まえて…。」と。
しかし、次の日には開店と同時にカウンター八席は即座に埋まった。そして何事も無く今夜の営業も終わり、やはり帰りがけに封筒に入った六千円を渡された。
三日目には入店待ちの客が出た。昨日同様、開店と共にカウンター八席は埋まり、入れなかった客が外で待つという事態となった。
あたしは『古ぼけた店の割には、客が沢山来るなぁ…。』と、感心してしまった。
帰りがけにはまた、封筒に入った六千円を渡された。
あたしは『繫盛店だから日当が良いんだ…。』と、また感心してしまった。
それからは三日目の状態が連夜続いた。あたしは毎日封筒に入った六千円を貰って帰った。たいして何もしてないのに、たった七日間で大卒初任給の金額を稼ぎ出した。
「お金なんてこんなに簡単に稼げるのに…。鳩山は心も体も壊すほどいったい何をやってきたのだろう…。」この時のあたしは全然何も分かってなかった。
この飲み屋で働き出してからひと月程が過ぎた頃、女主人があたしに一人の客を紹介した。
「桃子ちゃん。こちら【たーさん】よくここで見かけるでしょ。駅周辺の土地を持ってる地主さんなのよ。」
「いらっしゃいませ。いつも大変お世話になっております。桃子と申します。」
「桃子ちゃんのことがお気に入りなんですって。お酌お願いしてもいいかしら。ほんと、妬けちゃう。」
「はい。どうぞ一杯。」
この日からあたしは【たーさん】専属のホステスの様になった。
【たーさん】と呼ばれる客は、五十代の背の低い腹の出た禿おやじで、親の遺産を受け継いだだけの苦労知らずのボンボンらしい。
ただ、あたしが、このチビ・デブ・ハゲの三拍子揃った典型的な中年男の相手を任されるようになってから、チビ・デブ・ハゲの中年男は必ず来店時に女主人とあたしに手土産を持って来るようになった。
手土産をよく観察してみると、あたしと女主人のものは内容が違うようで、女主人は受け取ると開けることなくすぐさま店の二階にある自宅へ持ち帰る。
あたしへの手土産は最初のうちは菓子だった。閉店後によく女主人と分けて持ち帰った。
しかし何日かすると、あたしへの手土産はスカーフになり、貴金属になり、宝石になり、現金となった。あたしは怖くなり女主人に相談すると…。
「【たーさん】桃子ちゃん気にいったみたいで【妾】にどうかって言ってるんだけど…。桃子ちゃんどうする…?悪くない話だと思うけどね…。」と、薄ら笑いを浮かべた顔で言われた。
この瞬間、あたしの中で色々な物事が繋がった。『辞める時は言わなくいい…。日払いの取っ払い…。お客様を捕まえて…。そういうことか…。』
あたしは忘れていた…。あたしが生みの親から受け継いでいるものを…。
だからあたしは直ぐに雇われ…、高給で優遇され…、あたしを見定めるために勝手に客が増え…、そしてこの女主人はあたしを商品として売ろうとしていた…。
「若いうちに売れるもん売っとかないとね…。女の価値は年々下がるんだから…。」と、女主人は煙草の煙と笑い声を吐きながらこぼした。
『甘かった…。』あたしには物としての価値しかないのだ。あたしには雌としての価値しかないのだ。
こいつも【土岐田】だったんだ。
あたしは動揺を悟られぬ様に平静に「お疲れ様でした。お先に失礼します。」と、頭を下げ飲み屋を出た。
看護学生の頃に夜遊びしていた【新宿ゴールデン街】にも自分自身を商品にしている雌どもは山ほどいた。
いつもそいつらを見るたびにどす黒い溜飲が湧き上がる思いをした。
多分それは、あたし自身の将来の姿に見えていたからに違いない。
どんなに汚いものでも受け入れる、あたし自身の将来の姿…。
一番忌み嫌った扱いを受けた。あたしの中にどす黒いドロドロとした塊がまた生まれた。
『あのババア…、痛い目見るがいい…。』半開きの目に冷え切った笑顔を貼り付け足早に帰路を進んだ。
1973年 昭和四十八年 正月
「二周年、おめでとう!」
「おめでとう!」
「ありがとうございます。」
「ママ。ボトルお願い。」
「はい。ただいま。」
新年を迎えた期待感からか、若い娘達の色香の高揚感からか、満席の店内には上機嫌な声が飛び交っていた。
外は真冬の寒さ、だがこの店内はむせ返る様な熱気が充満している。
この店はあたしの店。
【たーさん】に出資してもらって二年前に出した…。あのババアの飲み屋の鼻先に…。
あたしは寝食も忘れ、二年かけてババアのとこの上客を一人ずつこの店に引き込んでいった。
そのせいでか、昨年末、向かいのババアは借金を作り、夜逃げ同然にこの街を出ていった。
『ざまあみろ…。』心の底から笑いがこみあげた。
「どんどん飲んでね…。今日はあたしの驕りだから…。」
あたしの中の膨れ上がったどす黒い塊がゆっくりとゆっくりと小さくなっていくことを感じとれた。
『今夜のお酒は本当に美味しい…。本当に…。』そう感じた刹那…。あたしの目の前は真っ暗になり…。
……………。
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