パラオ #15

* 目白紗千への凶報


1963年 昭和三十八年 三月

百々乃の通う看護学校から電話連絡があった。

「目白百々乃さんは暫く登校していない。」と…。「また、体調を崩しているのか。」と…。「出席日数が足りないため、留年が確定した。」と…。

私にとって、看護学校からの報せは寝耳に水だった。

私は百々乃が看護学校へ行っていない事など知る由もなかった。百々乃の行動の変化に対して、全然感知出来てなかった。

百々乃は、毎朝同じ様に家を出て行き、時間の前後はあれ、同じ様に帰宅し、夕食をとり、そして自分の部屋で就寝迄の時間を過ごす…。同じ日常を繰り返しているだけだったはず…。

週末はだいたい自室に籠もっている。偶に、宗一郎さんの処に来ている大学生と遊びに行く…。

ここ数年、こんな生活の繰り返しであったはず…。

私の知らないところで、知らない事が起こっている…。


「ただいま。」

「おかえりなさい。百々乃、少しいいかい?」看護学校から帰宅した百々乃を呼び止めた。

「なに?お母さん…。」

躊躇した…。問い詰めると、何かが壊れてしまうかのように直感した…。

ここまでの時間で積み上げてきた私達家族の関係は、まるで薄氷の上を歩くように恐る恐る積み上げられてきたものであることをこの時気づかされた…。

「今日、看護学校から連絡があった。百々乃が看護学校に来てない。と…。」

「…。」百々乃は何も答えない…。焦ってもいない…。顔色ひとつ変わらない…。

「百々乃、どういうことなの?」私は苛立ちから口調がきつくなる。

「…。」それでも百々乃は何も応え無い。

「一年生の時から体調不良で休んでたって…。」私は応えて欲しいあまり追求する様に質してしまう。

「…。」でも、百々乃は人形の様に反応しない。

「ねえ…、いったい…。」

私の話が終わることなく百々乃は言った。

「うるせぇ。」

「…えっ。」百々乃の口から出た言葉は本当に彼女が言った言葉なのか自分の耳を疑った。

「急に母親面すんなよ。」

「…。」この言葉は、間違いなく百々乃が発している。

「看護学校から連絡来るまで何も知らなかったんだろ?」

「…。」私は何も返せなかった。

「今更、母親面すんなよ。」

「百々乃、いったいどうしたの?」私は百々乃の話が理解出来ず、常套句の様な心無い言葉を投げ掛けてしまった。

「だ・か・ら…、母親面すんなよ。本当の母親でもないくせに…。」

「えっ…?!」百々乃の言葉は鋭利な形となって私の胸を貫いた。心臓が止まる思いをした。

「あぁぁぁぁ…、面倒臭え。出て行ってやるよ。こんな所…。」

「…。」どうしたの…?何故そんな事を言うの…?何処でそんな汚い言葉使いを覚えたの…?私の頭の中は処理仕切れない状況をこの場面に必要ない疑問でいっぱいにするしか無かった。

「あんたらには世話なったけど、今日までだ…。」

「…。」頭の中の処理が全然追いつかない…。

「あたしはあたしの思うままに生きていく…。あんたらには関係ない。元々、なんも関係ない人間だからな…。」

「何を…何を…言ってるの…。」百々乃は何を言っているの?私も何を言っているの?頭の中が混乱している。

「言った通りだよ。あんたらが一番分かってるはずだ。」

「…。」百々乃。どういう意味なの…。意味を汲み取れない…。

「じゃあーな。」

「も…、も…、百々乃…。」教えてよ…。


* 目白百々乃の決別


看護学校から家に帰った途端、目白紗千に急に問い詰められた。夜遊びからの寝不足であたしの堪忍袋の緒が切れた。【売り言葉に買い言葉】の様に、勢いで実の親で無い事を口走って家を飛び出した。

『まぁ…遅かれ速かれなことだし…。』

あたしは目白のウソ親にも復讐を考えていた。

ただ、嘘でも、今日までひもじい思いをすることも無く育ててもらった恩義もある。

『この結末でチャラってことかなぁ…。』と、ある面強引な幕引きでもいいから自分自身を納得させてあの人達とは縁を切りたかった。

あたしは復讐のために人道を外れた…。

いくら恨みがあるとはいえ、赤の他人である目白夫妻にあたしの犯した冷酷な罪まで背負わせる必要は無いから…。

これで良かったんだ。

あたしは目白のウソ親を少なからず恨んでいる。

目白夫妻にとって、パラオという国からあたしを連れ出す必要があったのか?

「土岐田」に命じられてあたしを連れ出しただけなら、あたしに対する愛情なんて微塵も無いはず…。

誰かに命令されたから育てていたなんて、全然嬉しくないよ…。

意思も無く、目的も無く、愛情も無く、見ず知らずの他人の子供を育てていたなんて…まるで【カッコウの托卵】みたい。

でも、托卵された鳥は自分の子供だと思って育てているのだから…、分かって育てているよりはまだマシか…。目白のウソ親を憐れに感じてしまい、目頭が熱くなった。

あたしの中で色んな感情がゆらゆらと揺れ動く、気持ちがざわざわと不安定…。自分の心にけじめがつけられない…。

でも、結局最後は全てが面倒になった。『もう、忘れた。』もう考えることを止めた。


『さあ…これからどうしょうかな…。』

鳩山とでも一緒になるか…。あたしにはお似合いの相手だ。


* 目白紗千の失望


私は畳に座ったまま動けずにいた。

動く意思を持てなかった。それ以上に考える事を停止していた。

目の前の畳の編目をぼんやり見ていた。

「ただいま。」宗一郎さんの声が耳に響く。帰ってきた事を知る。

「宗一郎さん…。宗一郎さん…。」固まった私の喉から弱々しい声を無理矢理絞り出した。

「どうした?!何かあったのか?!」宗一郎さんは慌てて私に近づいてきた。

「百々乃が…。百々乃が…。」固まった私の脳みそは幼児の様な言葉を発するだけだった。

「百々乃がどうした?」

「百々乃が…。百々乃が…。出て行った…。」どうにかやっとひとつだけでも事実を伝えられた。

「いったい、どういうことだい?」

「出て行っちゃった…。」停止していた思考が少しづつ戻り始めた。宗一郎さんにちゃんと伝えなくては…。

「どうして…。」

「知ってたの…、私達が本当の親じゃないこと…。」

「えっ…。」と言うと、宗一郎さんはゆっくりと崩れる様にしゃがみ込んだ。

そして宗一郎さんは「僕達は…。親にはなれなかったみたいだね…。」と、ぽつりと呟いた。


* 目白宗一郎の哀願


僕は紗千の話を聞いてもとりわけ、慌てることはなかった。

紗千は話を聞いても動かない僕に業を煮やした。

僕が然程慌てないのには理由がある。

それは常々、鳩山君からこと細かに百々乃の事を聞いていたからだ。

鳩山君の話を聞いている上で、かねてから『百々乃は何かをしでかすだろう…。』と、予測はしていた。

数年前の一時期、まだ中学生だった百々乃の行動がおかしくなった事があった。

僕はあの頃から意識の中で『薄々こんな日が来るのではないか…。』と、予見していたのかも知れない…。

だからこそ僕は慌てない。僕は驚かない。腰を抜かす事もない。

なぜならば、百々乃には時間が必要だから…。考える時間が必要だから…。

今、困惑し、興奮し、憤慨し、絶望している百々乃が頼れる人間は、僕でも無く、紗千でも無く、太郎でも無い。頼れるのは鳩山君だけだから…。

だから僕も、出来は悪いが次男と思い接してきた鳩山君を頼りにする…。

そして、僕は百々乃の父親として頭を下げる『鳩山君、どうか僕の娘を頼む。』と…。


* 目白百々乃の変遷


「一緒なりましょ。」

「…。うん。なろう。」

「じゃあ…どっか連れて行って。」

「分かった。どこがいい?」

「面白可笑しく過ごせる所がいいわ。」

「うん。分かった。」と、言って鳩山はいつもの下品な車を走らせた。

「どこ行くの?」

「俺の故郷。あそこなら金には困らない。遊んで暮らせる。」

「いいじゃない。遊んで暮らすの。賛成。レッツゴー!」

あたしは全てを忘れたかった。全てを捨てたかった。全てをやり直したかった。

あたしの出自も…。あたしの罪も…。あたしの復讐も…。あたしの愛も…。

知らない土地で…、知らない人々に紛れて…、全く違う人生を送る…。最高じゃない…。

「これであたしは忌々しい全てから解放される…。」と、この時だけは思えた。


* 目白紗千の誤解


百々乃は何時から知ってた…?分からない。

百々乃は何処で知った…?分からない。

百々乃は何故知っていた…?分からない。

百々乃に誰が教えた…?分からない。

…?分からない。

私は何度も何度も何度も何度も、頭の中で自問自答を繰り返した。

ここには、私と宗一郎さん以外に私達の過去の事を知っている人間などいない。

私と宗一郎さん…。

私達…。

私達以外に…。

私と…、宗一郎さん…。

以外に…、・・・?!

いた。土岐田だ。

しかし…、百々乃と土岐田の間に接点なんかあるのだろうか…?

接点…。接点…。

…接点。

あるのか…?

…あった。

思い出した…。

百々乃がまだ小学生だった頃の…、協会の表彰式典…。

あの時だ…。

あの時に間違いない…。

あの時しか有り得ない…。

百々乃は土岐田に会っている…。

土岐田は百々乃に話しかけている…。

…あの時。

あの時…、あいつは百々乃に吹き込んだんだ。

「お前の親はあいつ等ではない…。私だ。」と…。

間違いない。

あの時だ。

卑怯、卑劣極まりない…。

そんなに私達をバラバラにしたいのか…。苦しめたいのか…。

許せない…。許さない…。絶対に土岐田を許さない…。


* 目白宗一郎の安堵


百々乃が家を飛び出してから十日程が過ぎた頃、鳩山君からの葉書が届いた。

葉書に押された消印には「坂出」という馴染みない地名が押印されていた。

書かれた内容を確認してみると「百々乃さんと一緒にいる。どうか安心して欲しい。百々乃さんと結婚したい。どうか許して欲しい。」という簡潔な文章が綴られていた。

『そうか…。百々乃は鳩山君を選んだのか…。』

大方は僕の予想した通りだ。僕は葉書の内容を紗千にも伝えた。


僕の推察では、数年前まで百々乃は太郎が好きだったはず…。太郎の方もまんざらでもなかった…。二人の関係は良好だった。

しかし、中学生の頃に一時期、百々乃の行動がおかしくなってからは、百々乃は太郎を避けだした。

百々乃にその時、何があったのかは分からない。

ただ、あの頃の僕は、思春期の百々乃が太郎を避けているのは、親族による恋愛を苦慮しているからだと思っていた。

だから、百々乃が落ち着いて話を聞ける年齢になったら、僕達家族の事実を話し、百々乃の悩みが杞憂である事を伝えようと思っていた。

しかしながらその頃の僕は【シンコ】さんとの様々な出来事で百々乃をないがしろにしてしまっていた。自分の都合を優先させてしまった…。

架空な話を考えても仕方ないが、あの時、僕がちゃんと百々乃に向き合っていれば…。僕達家族はこうなっていないだろうと、後悔してしまう。

【後悔先に立たず】とはよく言ったものだ。


これまでの自分を振り返ると、僕という人間は流れに身を任せて生きてきただけだと思う。流れを読んで決めてきただけだと思う。誰かに引っ張られて動いただけだと思う。

そして、今回も流れに任せる。だからこそ、僕は鳩山君宛てに「よろしく頼む。」とだけ書いて返信を送った。

百々乃と僕達の距離が縮まることはもうないだろう。そして僕は二度と百々乃に会えない予感もした。

だから、願わくば、百々乃には、この先ずっと幸せな人生を送ってもらいたい。

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