パラオ #14

* 目白百々乃の悪意


1962年 昭和三十七年 正月

あたしの『行動したい…。』という衝動を抑え込んでいる間、これといった目ぼしい収穫の無いままに時間は過ぎていた。

ただ、一つだけ、あたしの過去の虚ろな記憶を補強できたことがある。それは、協会が「土岐田」を選挙に出馬させようと企ていることだ。

あたしは焦りを感じ始めだした。

何故ならば「土岐田」が議員候補となるのであれば、それなりの警備も行われる…。と、いうことになるからだ。

そうなれば、簡単には「土岐田」には近づけなくなる。

どうすれば「土岐田」に煮え湯を飲ませる事ができるのだろう…。

『そうだ。』ふと、なんの気無しに、悪知恵が浮かんだ。

「土岐田に対して直接的に復讐することが難しいのであれば、間接的に…。」と…。

「高梨英子だ。土岐田の娘である高梨英子を…。」我ながら非道外道な考えであったが、あたしの頭の中は、その思いで満たされてしまった。

あたしは復讐に取りつかれ、どんどん壊れていっているんだろう…。狂いだしているのかもしれない…。

あたしは、段々と自分の正気が狂気に食い尽くされようしていることを感じた…。


1962年 昭和三十七年 看護学校 三学期

あたしは、看護学校一年生の三学期よりしっかりと復学した。

乱れた容姿を元に戻し、いい子の「目白百々乃」を演じた。

あたしの産みの親のおかげか、容姿だけは誰よりも秀でている。

看護学校をサボり気味だった期間は「体調不良」だと学校側には伝えてあった。

その、か弱く美しい少女が熱心に頑張って学校に通うようになったら…誰だって、贔屓目に見るだろう。

それが、同級生であろうと、教師であろうと…。

看護学校は、二年生より一般の病院での「研修」が始まる。

これは、看護学生の受け入れを承諾している一般病院での実働・実技・実務の研修授業となる。

勿論、戦後、東京で一番最初に病院としての認可を受けた雉川総合病院も看護学生の受け入れ承諾をしている。

あたしは、看護学校への出席日数不足を理由として、七月・八月の二ヶ月間、雉川総合病院での研修を先生に依願した。

先生は、あたしが遅れを取り戻すための夏休み返上だと勘違いし、申し入れを二つ返事で了承してくれた。

これで、あたしの非道外道な計画が一歩を踏み出した。


1962年 昭和三十七年 夏

計画通り、七月には雉川総合病院へ潜り込めた。あれから潜入二週間、ここでの実地研修は順調にこなしている。

先輩看護婦の言付けを、言付け通りにこなしていけば良いだけの話…。

しかし、あたしは真面目に研修を受けるためにここに来ているわけじゃない。ここに初産のため入院している高梨英子を介して「土岐田」に鉄槌を下すためだ。

高梨英子に恨みがある訳じゃない。それ以前に、面識すらもない。ただ、彼女が「土岐田」の娘であったからだ。

あたしの生物学上の父「土岐田」に代わり、あたしという「汚物」を生み出した報いを受けてもらう。

そのためにあたしの考えた報復は「高梨英子に癌性疼痛に使用される鎮痛剤である【モルヒネ】を過剰投与し、中毒症を引き起こさせる。」と、いうものだ。

【モルヒネ】は二百年の歴史を持つ癌患者用の鎮痛剤。本来は注射による投与だが、妊婦に意味もなく注射なんてできない。【モルヒネ】の効果は薄まるが経口投与も行われる。高梨英子の入院中の食事に混入してやるつもりだ。

医療用麻薬の中毒症により、生まれてくる子供もまともに育てられない麻薬中毒女に貶めてやる。

麻薬を買い求めるために、溝鼠の這い回るいかがわし夜の街を夜な夜な徘徊する快楽だけを追い求める汚い白痴女となればいい。

これで「土岐田」の野望と期待を無残に打ち砕いてやる。


しかし、現実は思う通りには運ばない。

先輩看護婦が言うには「高梨英子は七月半ば頃に出産予定…。」とのことだった。もう直である。

その上【モルヒネ】の保管管理は、あたしが想像していた以上に厳密で勝手に持ち出せる様な余地は無かった。

『時間も方法も無くなった…。』【万事休す】という古めかしい言葉の意味を体験した様な感覚だった。


しかしながら、まだ「運」は、あたしの味方をしてた。近いうちに高梨英子が出産を迎える…。高梨英子が子供を産む…。

そして、高梨英子がこの病院で子供を産むのであれば…。あたしはその赤ん坊を誘拐する。それがあたしにに残された最後の好機…。

「土岐田」を間接的に苦しめることの出来る最後の機会…。当初の計画とは変わってしまうが、強引にでも絶対に実行してやる。


そう決めた日から、町外れにある空き地に鳩山をあの車で待たせている。本当はもっと近くで待たせたい…。けど、あの目立つ車では直ぐに足がついてしまう。

鳩山はあたしの計画を全く知らない。帰りの遅くなるあたしを待っていると思い込んでいる。奴には悪いが誘拐の片棒を担いでもらう。共犯者になってもらう。

あとは、高梨英子が子供を産むのをひたすらに待つだけだ。


そして二日後、あたしにとっての待望の時が来た。

日勤研修中、産婦人科の看護婦達の動きが慌しくなった。分娩室へ入っていく。『出産が始まる…。』あたしは様子を伺った…。

数時間後【保育器】に乗せられた赤ん坊が静かに治療室へ向かった。

『2500グラム無かったんだ…。今日、無理矢理やる必死は無い…。焦ることは無くなった…。』あたしは、ふぅーと、息を吐いた。

と、同時に一気に緊張が解れ、目の前が真っ暗になった。

『すごく疲れた…。あたしが出産した訳じゃないのに…。』

出産前後は母体や赤ん坊の命にかかわる突発的な事態が起こりやすい期間。

『まして、未熟児であれば…、なおさら…。』赤ん坊の容態が落ち着くまでは退院することはなくなった。ほんの少しだけだけど時間的にも精神的にも余裕が出来た…。


数日後、夜勤研修の巡回中に嬰児治療室を覗きに行った。

そこには、十数台の保育器が規則性を持って置かれていた。

保育器の中を覗くと、うち二台の保育器に赤ん坊が入っていた。『二人いる…。』

刹那、あたしは、乗り気ではなかった誘拐よりも「土岐田」を痛めつける良い方法を思いついてしまった。

『あたしと同じ思いを味わえばいい…。』自身が下した悪魔的な発想にあたし自身の冷酷さを垣間見た。

『どこの馬の骨かも分からない子供を実の子だと思って育てればいい…。いい気味…。』あたしは笑みを浮かべて身震いしていた。

薄暗い嬰児治療室に誰もいないことを確認したあたしは、保育器の中の赤ん坊に付けられた器具をそっと外した。そして、抱きかかえた。

赤ん坊は泣くこともなくあたしの腕の中で安心しっきて眠っている。「柔らかい…。」赤ん坊の体温が抱きかかえた腕を通してあたしに伝わる。

あたしの冷え切った血液を赤ん坊の体温が温めていく。あたしの決心が揺らぐ…。

「…ごめんね。…ごめんね。」あたしは知らず知らずのうちに言葉も分からない赤ん坊に向かって小声で謝っていた。

薄く見開いて赤ん坊を見つめる両目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。赤ん坊の顔が歪む。

「なぜ、あたしは泣いてるの…?なぜ、あたしは謝ってるの…?あたしが悪いんじゃない。あいつらが悪いんだ。だから…、だから…、許して…。だから…、あたしは何で謝るの…。」

泣き顔なのにこめかみに青筋が立っている…。瞳からは温かい涙を流しているのに…額からは冷たい汗が吹き出している…。あたしの心と体はぐちゃぐちゃだった。

「お前の爺さんのせいで…、あたしは…、あたしは太郎さんを諦めた…。太郎さんを…、太郎さんを返して…。あたしに返して…。」

「あなたは悪くないのよ…。あなたは悪くないのよ…。」

「お前は…、お前は…、お前の爺さんを恨め…。土岐田の孫に生まれたことを恨め…。いい気味だよ…。」

「小さいね…。柔らかいね…。温かいね…。」あたしは気が狂った様に訳の分からない事を呟き続けていた。

それからどれだけの時間が経っただろう…。数分…、数十分…、数時間…、はっきりしない…。

無意識のうちにあたしは身なりを直し、素知らぬ顔で嬰児治療室を出た。そして女子トイレに逃げ込んだ。

『あたし…、やったぁ…。やったよね…?やったんだ…。やったの…?どうなの…?』個室に入ったあたしは心の中で意味不明の雄叫びと問答を繰り返していた。

それから、あたしの思考は停止し、体は火照り、手足は震え、深い呼吸を繰り返し、全身から力が抜け落ちた。

しばらくその状態は続いたが、頭が冷め始めると『なんてだいそれた事をしたの…。』と、分かり、全身から一気に血の気が引いた。

冷静になればなる程、恐怖心に囚われ、震えながら、洋式便器の上で膝を抱えてうずくまっていた。

「これでいい…。これでいい…。」あたしはあたし自身を無理矢理言い聞かせようとしていた。「やられた事をやり返しただけ…。やられた事をやり返しただけ…。」

「誰にも見られてない…。大丈夫…。勘付かれないようにしてれば…。何も問題無い…。」恐怖心と猜疑心が荒波の様に押し寄せてくる。どんどん体温が下がる。

「いつも通りに…。普段通りに…。」

洋式便器の上で膝を抱えたまま、どれくらいそうしていただろ。あたしは高熱を出し、気を失い、個室内に倒れ込んでしまった。


次に気がついた時には、早朝の病院の仮眠室のベッドで横になっていた。

目を覚ましたとたん、そこで朝食を取っていた先輩看護婦に「風邪ね。患者さんにうつすとまずいから、今日はさっさと帰って。」と、言われ、あたしはその言葉に素直に従った。

「トイレから引きずり出すの大変だったんだから…。仕事増やさないでよ…。」と、嫌味を言われている後ろであたしは着替えを済ませ、ふらふらしたおぼつかない足どりで病院を出た。

ただ、頭の中だけは氷のように冷たく冷え切っていた。

『明日から普通に…。普段通りに…。明日から…。』

その言葉だけが、冷え切った空っぽな頭の中で反響していた。

どうにかこうにか家に戻ったあたしは、その後三日間寝込んだ。眠っている間、自分が犯したであろう罪の重大さに心が押し潰される夢ばかりを見た。

大きな金槌で叩き潰されるあたし…。潰されたあたしからは黒くドロドロとした液体が流れ出す…。その液体はとても臭く、息することもままならない…。

『汚い…。汚い…。汚い…。汚い…。汚い…。』夢の中のあたしはその言葉を繰り返すだけだった。


しかし、四日目に目を覚ました時のあたしの深層心理は「これでいいんだ…。これでいいんだ…。あいつらが悪いんだ…。」と、自分自身の正当を主張し、あたしの人としての理性に抗っていた。

その後、七十二時間、寝ずに布団の中で「解」のない自問自答を繰り返した。

思考の最中、ヒバの天井板の木目が歪み、赤ん坊の形になっては消えていく。時間の感覚が無くなり、音も聞こえない。ただ、重たい頭だけが枕に飲み込まれていく。

四肢の皮膚は内側から針で刺される様な痛みを覚え、胴体からは粘り気のある汗を搔いていた。徐々に思考も停止していった。

そんな繰り返しの結果「時間は戻らないから…。」と、あたしの中の冷たい心はあっさりと開き直った。

後は速かった。翌日からあたしは、残りの研修に参加し、家に帰る…。を、只々繰り返すことに努めた。

あたしはいつも以上に、いつも通り、普段通りに徹していた。

我ながら「大胆で図太い。」と、自分自身に感心した。


一週間休んだ後の雉川総合病院での研修期間を無事にやり過ごして九月から始まる二学期より看護学校へ戻った。

雉川総合病院での残りの研修期間は心を殺し感情を持たない様努力した。その甲斐あって、小さな波風すらも立てることなく研修を終えることが出来た。

研修期間中の知らぬ間に、高梨英子とその子供とされた者は退院していた。こちらも別段変わった様子はなかったようだ。

看護学校へ戻って暫くは普段通りの姿勢を貫き、なんともなかった…。しかし、あたしの精神バランスは徐々に崩れ始め、正常を保てなくなっていた。

何度も何度も寝込んだ時と同じ悪夢を見て、何度も何度も断罪する声があたしの心を切り裂いていった。その裂け目から無理矢理どす黒い何かが出て来ようとする…。

また…、あたしは壊れ出した。

その葛藤があたしの中のどす黒いモノを成長させ、あたしの理性をどんどん崩壊させていった。


それからは、昼間は徹底して普通の看護学生を演じた。

夜間は家を抜け出し、鳩山と夜な夜な奔放に遊び回る。こんな二重生活が続いた。

安酒に浸り、紙煙草の苦い煙に燻され、訳の分からない錠剤をかじっている間だけが何も考えずに済んだ。

しかし、こんな二重生活は長くは続かない。看護学校へ行く振りをして、夜の張が下りるまで鳩山のアパートに籠もる様になっていた。「体調不良」を理由に、また看護学校を休む様になっていた。

そして、あたしは看護学校へ全く行かなくなった。

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