パラオ #13

✳ 目白百々乃の苛苛


1961年 昭和三十六年 秋

『いったい何日が過ぎたんだろう…。同じ毎日の繰り返し…。』

あの選挙事務所の一件以来「土岐田」の「と」の字も聞くことがなくなった…。

進展のない日々が淡々と続くだけ…。

「土岐田」の情報の欠片を得たあの日からずっと毎日の様に鳩山を連れ立って渋谷の選挙事務所の道路清掃のボランティアを装った…。

でも、あの日以来「土岐田」の話題も名前すらも話す者は誰もいなかった。

あたしは進展のないことにイラついていた。あたしの中で『そんな話、本当に聞いたの…?』と、自分自身に疑問をもつまでになった。

あれは全てあたしの創り出した都合のいい妄想…。次の糸口が見つからない焦り…。

あたしの気持はぼろぼろに疲弊していた。

『イライラする…。冷たい水で手を洗いたい…。』


それでも一縷の望みから、渋谷の選挙事務所へは毎日の様に鳩山に連れて行ってもらった。

ただ、前ほど熱心になれない…。力が入らない…。

鳩山はそんなあたしの状態を見て「何をしたいのか分からないけど…根詰め過ぎだよ。少し気分転換でもどうだい?」と、言ってきた。

「こいつに心配されているようじゃ…。」と、ある面、冷静さを取り戻させてくれた鳩山に感謝した。

それで、あたしは鳩山の話しに乗ることにした。


次の日、看護学校から帰ったあたしを待ち伏せていたかの様に鳩山が声をかけてきた。

あたしは鳩山の言う通りに着換えをし、いつもの悪趣味な真っ赤な箱に乗り込んだ。

「どこに行くの?」と、尋ねると「新宿さ。」と、答えが返ってきた。

そして数十分後、鳩山は【新宿ゴールデン街】と看板の掲げられた下劣な街の入口に…。

とてもお似合いの下衆な車を停めた。


その街には街路灯は無く、代わりに色とりどりの小さな看板と提灯が街路灯の代わりを務めていた。

街のメインの通りは所狭しと物が置かれ、大人二人が並んで歩くのがやっとという幅しか残っていない。

そしてそこには酒と煙草と汚物の臭いが漂っていた。

鳩山はこの街に慣れている様で、対向する人々を避けながら、スタスタと軽快に歩を進める。あたしは鳩山に付いていくのがやっとだ…。

急に歩を止めた鳩山は目の前の真っ青な扉を勢い良く引っ張り開けた。瞬時、黄色く揺れる光が辺りを照らし、濃い煙草とアルコールの香りと五月蝿いほどの話し声を通りに放出した。

「今晩は。空いてますか?」

「いらっしゃい。一人かい?」

「二人です。」

「二人か…。一人は特別席だな。」と、笑いながら言われ入店許可が下りた。

鳩山があたしを先に店に入らせる。『狭い…。』店内はカウンターと脚の長い椅子だけ…。大人五~六人で精一杯という感じだ。

あたしは一脚だけ空いていた脚の長い椅子に腰かけた。鳩山は外からビールケースを店内に辛うじて持ち込み、それに腰かけた。

『特別席ねぇ…。』鳩山の野暮ったい優しさをほんの少し垣間見た。

店内には普段絶対にあたしが関わりを持つことのない類の男女数人の大人達が身振り手振りを加えて熱心に会話していた。

「今晩は文壇ナイトだな。」と、鳩山がポツリと言った。

聞いてみると、今晩、この店に集っていたのは、小説家や出版関係者のようだ。『だから…文壇ナイトね…。』

暫くして、夢中で会話していた大人達が場違いな「あたし」に気付いた。それからはあたしの「美しさ」の褒め合い合戦が始まった。

はじめは気恥ずかしくこそばゆい様な感覚だった。しかし褒められる事が段々と心地よくなり、後に快感へと変わっていった。気がつけば、あたしのイライラは消え去っていた。

それからは毎日の様に看護学校が終わると鳩山と待ち合わせ【新宿ゴールデン街】へ繰り出した。

そこに集まる小説家、評論家、出版関係者、映画人、演劇人…達はこぞってあたしの美しさを祭り上げた。

そんなあたしは、いつしか【ゴールデン街の女神】と、呼ばれるようになっていた。


しかし、そんな楽しい時間は長くは続かない。ゴールデン街に集まる大人達にとってあたしは「異物が混入」しただけのことであり、ブームは直ぐに過ぎ去った。

有頂天から転げ落ちたあたしは違う刺激を求めるようになっていた。

酒を覚え、煙草を吸い、訳の分からない薬を飲み…いつの間にかあたしは「快楽」を求めるだけの「雌」に成り下がっていた。

看護学校へは「体調不良」を言い訳にし、遅刻、早退を繰り返した。制服はヨレヨレ、長い黒髪は艶もなくなりぼさぼさ。本当に汚い…。そんな成りがあたしにはお似合いだ…。

そんな日々を送っているのに目白のウソ親は、あたしに何も言わない。夜遅くに帰宅しようが、見た目が乱れていようが…。何も言わない。

目白紗千は、もう何年もそんな感じだが、目白宗一郎までもがこの秋頃からあたしに関心を持たなくなった。

『当たり前だよね。実の子供じゃない、どこの馬の骨かも分からないあたしにいい加減関心が無くなったんでしょ…。』

それはそうだ…。無理矢理押し付けられた見ず知らずの少女の産んだ子供なんて…。

『何やってんだろあたし…。やっぱり…、ろくでもない出自の人間は、ろくでもない人間にしかなれないんだなぁ…。』と、今更ながらに実感した。

あたしはいったい、何をやろうとしてたんだろ…。中途半端…。何も達成出来ない…。こんなあたしが誰かに恨みを抱く価値があるの…。生きている意味があるの…。

こんな卑しい汚い雌に、生きている価値があるの…。

最近は太郎さんもあたしを悲しい目で見る。

『憐れんでいるんだろうなぁ…。痛ましく思っているんだろうなぁ…。』

太郎さんにそんな目で見られることが、あたしにはとてもお似合いだ。


『でも、出来るなら…、あの日に帰りたい。あの頃のあたしに戻って…、太郎さんに会いたいよ…。太郎さんの近くにいたいよ…。』


* 目白百々乃の幸運

1961年 昭和三十六年 冬

今年初めて雪が降りそうな冬の寒い朝。

前日の夜遊びの睡眠不足から、頭がボーっとした状態で看護学校へ行こうとしていた時、玄関掃除をしていたお隣の鈴木のおばちゃんに声を掛けられた。

「百々乃ちゃん。おはよう。ちょっと聞いた。」なぜか鈴木のおばちゃんは少し声を潜めていた。

「おはようございます。」あたしはけだるそうに挨拶を返した。

「百々乃ちゃんって、土岐田様のお嬢様と同学年じゃなかったっけ?」

『えっ!!!』驚いた。「はっ…。はい…。そうです。」睡眠不足の回らない頭で精一杯の愛想のいい知ったかぶりをした。

半年ぶりに「土岐田」の名前を聞いた。間違いなく聞いた。忘れていたものが洪水となってあたしの頭の中に押し寄せた。

そして、なぜこのおばちゃんが…なぜ「土岐田」を…。いったい、おばちゃんは何を言おうとしているの…。

「もう、ご懐妊なんだって。若い娘は早いわねぇ…。」鈴木のおばちゃんは少し小馬鹿に、少し卑下した言い方をした。

「えっと…。あの…。あの…。鉄鋼王の…。」半年前、何度も何度も反芻して覚えた言葉を膜のかかった脳みそから無理矢理絞り出す。

「そうそう。高梨グループの…。三十歳以上年の差があるのに…。お金持ちって…、凄いわねぇ…。」やはり鈴木のおばちゃんは小馬鹿にし、卑下している。

高梨…。高梨グループ…。戦後の日本三大金持ちの一人…。高校生のあたしでも知っている。

「何でも初産だからって、まだ全然早いのに今から病院で管理させてるみたいよ。お金持ちのやることは…、分からないわねぇ…。」鈴木のおばちゃんは完全に馬鹿にしている。

「そ…。その…。病院って?」何か疑われないか心配だったが、あたしは恐る恐る聞いてみた。

「お見舞い?あそこよ。協会がやってる雉川総合病院…。知ってるでしょ。」あっさりと教えてくれた。杞憂だった…。

「あ…。ありがとうございます。今度行ってみます。」雪が降りそうなほど寒い日なのに、あたしの背中を冷たい汗が一筋流れた。


『こんな身近に情報があったなんて…。』迂闊だった。思いもよらなかった。

お隣の鈴木のおばちゃんに深く頭を下げその場をあとにしたあたしは思わずほくそ笑んでいた。


先ず、あたしは雉川総合病院を電話帳で調べた。場所は練馬区にあるらしい。

看護学校ではそれとなく雉川総合病院と高梨グループの話を聞いて回った。大富豪と同年代女子の結婚、妊娠だ…尾鰭はひれはあるだろうが、噂好きの女子達が知らない訳がない。

それによると、雉川総合病院は戦後の荒廃の中、東京で一番最初に認可された病院らしい。

それに尽力した前医院長は、つい先日他界したという話だ。

現在は雉川夫人が理事長として座してはいるが、実質的な病院経営は協会が取り仕切っているらしい。

「土岐田」の娘、英子は、十六歳の誕生日を迎えると直ぐに高梨に嫁ぎ、直ぐに身籠ったようだ。

多分、強欲な協会は大金持ちの大富豪の幼な妻の初産を全面的に支援しようとしているのだろう。

大金持ちの大富豪に対して恩を売っておきたいのだろう…。高校生のあたしにでも分かる見え透いた了見だ。


それからのあたしの行動は鳩山をタクシー替わりに使って、何度か実際に雉川総合病院を訪れることだった。

実際の雉川総合病院では、産婦人科棟の位置を確認したり、高梨英子の病室を確認したりした。

ただ、残念ながら「土岐田」に直接繋がる様な情報は無かった。しかし、高梨英子の出産予定が来年の七月だということは分かった。

ここまで分かったところで、あたしは焦りからボロが出ないように、病院側に目を付けられないように、一旦来院することを暫く控えることにした。

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