パラオ #09

* 天路信子の本音


「天路くん、S会員の獲得は進んどるかね?」

『また、室長のお小言が始まるのかしら…。』

今年の春に二代目協会会長がお亡くなりになった。

次の協会会長の座を目指して、可能性のある者は目の色を変えて成果を上げようとしている。

うちの室長も協会会長候補のひとり…。

とにかく「優良協会会員を増やして、協会の収益を上げよう。」と、言うのが室長の戦略。

その為には「多額の寄附金が見込めるSやAの優良協会会員を一人でも多く獲得する事…。」が、必須条件だとか…。

だから、協会の会員勧誘の責任者である私には、S会員の勧誘強化の命が下った。

戦争が終わって十三年という月日は経ったけど、まだまだ本格的な復興は遅々として進んでいない。

そんなご時世に【多額の寄附金】を、ポンっと出せる余裕乃ある人なんてそうはいない。

室長も、本当に無理難題を押し付けてくる。

各地区のまとめ役には「羽振りの良さそうな人がいたら教えて…。」って、お願いしてるけど…現実は難しいでしょうね。

そう言えば…巣鴨地区の鈴木が「目白紗千の旦那が私に会いたがってる…。」とかなんとか言ってたわね。

目白紗千か…本当、嫌な名前ね…。

『確か…彼女の旦那って…。巣鴨で事業やってたはず…。寄付してくれないかなぁ…。駄目で元々、会ってみるか…。』


* 目白宗一郎の情緒


「叔父さん…宗一郎叔父さん…。」

「…えっ。」

「聞いてますか?宗一郎叔父さん。」

「悪い悪い…、聞き洩らした。」

「なんか…三か月程前に美人さんに合ってから変じゃないですか?叔父さん、なんかあったんですか?」

「何も無い。何も無い…。」

「しっかりして下さいよ。社長!」

また、太郎にからかわれた。

太郎の指摘通り、仕事に身が入ってないのは確かだ。原因は彼女に会った事であることは間違いない。ただ、理由については分からない…。

僕の身が入ってなくとも、不動産事業は順調だ。

数年前までの家屋売買の好況は収束していったが、東京の復興事業目当ての出稼ぎ労働者への賃貸借契約は爆発的に増加した。

めじろ不動産では、賃貸借契約部門は太郎が一手に引き受けてくれている。

家屋の売買部門の仕事を中心としている僕は、今日では所謂「開店休業」である。

日々、会社には出てくるが、やることも然程ない。

ぼんやりする事が多くなったのも事実である。

彼女との出会いは、確かに、鮮烈で強烈なものだった。しかし、それを引き摺っているわけではない…と、思う。

ただ…今は何事にも身が入らない。


* 天路信子の懐古


1958年 昭和三十三年 師走

今年も残すところあとひと月…。室長からのS会員獲得ノルマは、残り少ない時間では到底届かない。

最年少幹部って呼ばれてるのに…。

「天路様」って呼ばれているのに…。

信頼失墜ね…。

これじゃあ目白紗千が台頭してきた時と同じじゃない。「結局、見てくれだけで実力が伴っていない…。」「幹部交代か…。」って、陰口叩かれた。本当、毎日が苦しかった。

でも、あの時はラッキーな事に、目白紗千の方から居なくなってくれた。

今回はそうはいかない。自分で成果を上げなければ…。しんどいなぁ…。

でも、弱音は吐けない…。協会の恩に報いなければ…。それが私の生きる意味なんだから…。最後までやり遂げないと…。

「年末に出来上がるって言う芝公園の【日本電波塔】…見に行きたいなぁ…。」

年内いっぱい協会本部での缶詰めを覚悟したとたん、思わず口から願望がこぼれ出た。

そう言えば、ここ数か月…楽しい事、全然ないなぁ…。

いったい、いつ楽しかったんだっけ…。我ながら、虚しい回顧に思えた…。

しかしその瞬間、思い出した。

『あの人…、面白かったなぁ…。』

『年上なのに、ずっとおどおどしてて…。』

『あの日…、本当に楽しかったなぁ…。』


* 目白宗一郎の意想外


1958年もあと五日となった歳の瀬、僕は大掃除のためにめじろ不動産へやってきた。

自宅の大掃除の方は、紗千と百々乃に任せた。

太郎も「会社の大掃除に来る。」と、言ってくれたが、「実家の手伝いをしなさい。」と、伝え今日から正月三が日まで休暇をやった。

めじろ不動産を興して三年、太郎と二人三脚でこれといった休みも取らず、脇目も振らずに働いてきた。

思い返してみると、パラオから新しい家族と共に引き揚げてから今日まで一心不乱にやってきた。

「この年末年始は、帰還して初めてゆっくり出来そうだ…。」と、思えた。刹那…。

どんどんどん…どんどんどん…。「誰かいませんか?」

「は…はいはい…。おります、おります…。」こんな時期に誰だ?いったい…。

「天路です。」

ガチャ。僕は慌てて扉を開けた。そこには真っ青な顔色でカラフルなツイードのコートを着た彼女が立っていた。


「どうしたんです。寒いから…中に入って入って…。」

「…。」彼女は何も言わず入ってきた。その様子は、先日会った彼女とは同じ人物とは微塵も思えなかった。

「さぁ…座って座って。今ストーブつけますね。お茶でも入れてきますね。」

「…。」

お茶を持っていくと、彼女は涙を流し始めた。一頻り泣いて落ち着いた頃合いを見計らって「何があったんですか?」と、尋ねてみた。

彼女は長い逡巡の後、重い口を開き、ゆっくりと話し始めた。

それは、僕に近づいてきた理由から現在の彼女の境遇までを包み隠さず話してくれた。


* 天路信子の吐露


私の中の溜まったものが堰を切ったように溢れ出た。

洗い浚い、包み隠さず吐き出した。

『この男に私の醜い部分を全てさらけ出してしまった…。』…なのにこの男は「大丈夫。僕に任せて。」と、言った。

私は号泣した。なりふり構わず号泣した。この男の優しい言葉が私から虚栄を取り除いていく…。この男といると、私はどうなってしまうのだろう…。この男は私をどうしようとしているのだろう…。

それなのに男は「一月三日の午前九時にここに来て下さい。」と、私の心持ちを見透かした様に言った。


* 目白百々乃の好奇心


お母さんは人が変わってしまった…。

どっか具合でも悪いのかな…。

三年前のあの日までは、快活で外向的で明るい人だった…。

でも今は、外出することもなく、黙々と家事をこなすだけの人になっちゃった…。

三年前のあの日、あの会場で、お母さんはあたしを凄く怒った…。

お母さんが怒った原因は、私が知らないおじさんと話したから…。

あの時のこの事がお母さんを変えたの?

今でも全然、理由が分からない…。


クリスマス明けの12月26日、お父さんは「めじろ不動産の大掃除をしに行く。」と、言って会社へ出かけた。

お母さんは「私達も家の大掃除をしましょう。」と、物静かに淡々と家中を掃除していく…。これがここ三年のうちの年末…。


「はたきどこにあるの?」と、お母さんに尋ねると「さっき使てたから、私の部屋じゃないかしら…。」と、言われ、お母さんの部屋に入った。

お母さんは持ち物が少ない。四畳半の部屋には、小さな箪笥と三面鏡ぐらいしかない。

その小さな箪笥の上にはたきはあった。

お母さんの小さな箪笥の一番上の引き出しが少し開いてて、中身が垣間見えた。単なる好奇心で引き出しの中を覗いて見ると、そこには、何の変哲もない鉛筆と小さなノートがあった。

『家計簿…?それともお母さんの日記…?』と、好き勝手に思い込み、悪いとは思いながらも珍しいもの見たさからか小さなノートの表紙を捲ってしまった。

開いたそのページには「土岐田を死んでも許さない。」と、荒い筆跡で書きなぐられてていた。

『…えっ。』慌ててノートを閉じた。『…土岐田って…誰?』と、考えた瞬間、あたしの心臓は大きく鼓動を打ち始め、息が荒くなり、目の前が暗くなった。

頭の血は一瞬にして下がり、眩暈と共にあたしは膝から畳に崩れ落ちた。

「なに…?なんなの…。いったい…。」手が汗ばむ…。

「手を洗いたい…。手を洗いたい…。」

…数分で体調は戻った。すごく疲れてた。「…洗いたい。」あたしはおもむろに体を起こし、素知らぬふりで掃除を続けた。


あれからお母さんのノートが気になって仕方がない。

あたしは心の中にもやもやした割り切れない気持ちを抱えたまま日常の日々を送っていた。

『お母さんはいったい何を恨んでいるのだろう…。「土岐田」って誰なんだろう…。』

「土岐田」…「土岐田」…不思議と何故か引っかかるところがある。でも、いくら考えても思い当たる節がない。

あたしは「これ以上悩んでいても埒が明かない。」と、割り切った。そして、両親が家を空ける時を狙ってノートを盗み読むことを決意した。


1959年の元旦。両親は大久保の大叔母さんの所へ新年の挨拶へ行くと言う。

大叔母さんのところには、太郎お兄ちゃんもいる。

あたしも行きたかった。けど「熱っぽい。」と、噓をつき家に残ることにした。

両親が家を出て三十分程経った頃にお母さんの部屋に忍び込み、お母さんのノートを盗み見た。


あたしはあたしの幼稚な好奇心を心底恨んだ。

己の安易な行動に呆れ果てた。

『知らなければ良かった…。でも、知ってしまった…。時間は戻らない…。後戻りも出来ない…。』

あたしはこの日、あたしという汚物を処理する決意をした。


* 太郎の落胆


百々乃ちゃんは新年の挨拶には来なかった。

今年は元旦からとてもがっかりした。

叔父さん、叔母さんは「調子を崩して家で休んでいる。」と、言っていた。

会えるのを楽しみにしていた。初詣に一緒に行きたかった。

正月三が日が過ぎれば会社も始まる。

「あと三日もすればまた会える。」と、自分に言い聞かせた。


* 目白百々乃の憎悪


『あぁ…。余計な事をしなきゃよかった…。』あたしは心の底から後悔していた。

何も知らないまま無邪気に生活してればよかった。

『あたしはこんなにもおぞましい乱れた関係から産まれてきたなんて…。』

誰にも祝福されない。誰にも望まれていない。あたしの生い立ち…。

あたしは、あたしを望まないのに引き取った「目白」の両親が許せない。

あたしを産んだパラオの名の知らぬ「少女」が許せない。

そして、あたしの本当の父であろう「土岐田」という男を絶対に許せない。

あたしの体の中には、見ず知らずの男の気持ち悪い血が流れてるんだ…。いくら体を洗っても拭い切ることの出来ない血が…。

あたしは「土岐田」という男を知らない。でも、あのノートの「土岐田」の殴り書きを見た瞬間、気分が悪くなったのは、あたしに「土岐田」の血が流れているからに違いない。

知らず知らずのうちに、あたしの潜在意識は「土岐田」を認知していたから、あんな反応が出たのだと思う。『血脈って怖い…。』


『こいつらのせいで、あたしも将来、汚く、醜い、淫らな雌に成り下がるんだろなぁ…。』それがあたしの血統であり、あたしの本性なんだ。

そう思った瞬間の鏡に映ったあたしの顔には、冷めた笑みが浮かんでいた。

『太郎お兄ちゃん…。太郎お兄ちゃん…。』

そう思い浮かべた瞬間の鏡に映ったあたしの顔は、冷めた笑みを浮かべながら涙を流していた。

『太郎お兄ちゃん…。許して…。許して…。』そう思えば思う程、涙が止まらない。拭いても拭いても止まらない。

あたしは太郎お兄ちゃんが好き。大好き。太郎お兄ちゃんとずっと一緒にいたかった。だけど、こんな汚れた体の雌は、太郎お兄ちゃんにはそぐわない。

『太郎お兄ちゃんのお嫁さんになりたかったなぁ…。』そんな秘めた夢も、もう叶わない。

『太郎お兄ちゃんのために、きれいなあたしでいたかったなぁ…。』

『太郎お兄ちゃん。あたし、洗っても…、洗っても…、もうきれいになんないよ…。』

お風呂入りたい。お風呂入りたい。石鹼でゴシゴシ洗いたい。体の外も中も、石鹼でゴシゴシ洗いたい。きれいに成れるなら…。

太郎お兄ちゃんのためにきれいに成れるなら…。洗いたい。洗いたい。きれいなあたしをあげたい…。でも…出来ない。もう、きれいにはなれない…。

流れ落ちる止めどない涙と入れ替わる様に、あたしの中にはドロドロとしたどす黒い嫌悪の塊が成長していく…。

あたしは、あたしの長い髪を指先で一本つまみ、引き抜いた。また、一本つまみ引き抜いた。…引き抜いた。…引き抜いた。無意識のうちに引き抜いた。

畳の上には引き抜いた髪が一本…一本…落ちていく。その上を意味なく歩き回りながら、あたしはブツブツと言葉を吐いていた。

「なんで?なんで?なんで?」

「太郎お兄ちゃんを諦めないといけないの?」

「あたしがいったい、何をしたの?」

「あたしのどこがいけないの?」

「あたしが汚いから?」

「あたしが混血だから?」

「あたしが気持ち悪い淫らな関係から生まれてきたから?」

「知らなきゃ良かったの…。見なきゃ良かったの…。」

「なんであんなもの書き残したの…?」

「あたしへの当てつけ…?」

「あたしを心底嫌っているから…?」

「あたしから太郎お兄ちゃんを奪ったあいつらを絶対に許さない…。」

「下劣で不潔なあいつらをあたしは絶対に許さない…。」

あたしの中は、どす黒い塊でいっぱいになった。

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