パラオ #08

* 目白紗千の心理


1958年 昭和三十三年 春初

私は、三年前のあの日からずっと同じ事を繰り返し考えている。

あの日、あの時、あの場所で土岐田と再会していたとして、私にいったい何が出来たのだろうかと…。

あの場で土岐田を刺し殺す。…そんな度胸も覚悟も持ち合わせていない。ましてや、あんな奴のために犯罪者になるつもりなど毛頭無い。

では、あいつの目の前で罵詈雑言を浴びせれば気が晴れたというのか…そんな事がしたいわけではない。

パラオから引き揚げるあの日からずっと、土岐田への漠然とした怨恨を秘めてきた。しかし、具体的に私に何が出来るというのだ。

土岐田らしき人物を知ろうと主旨不明の協会にまで入ったが、その数年間で掴めた事は何も無いに等しい。只々の無駄骨だった。

しかし、私のとったこの行動は、裏腹にも、土岐田らしき人物が私達の前に現れるという失態を導いてしまった。

あの時、まかり間違えれば、土岐田に、私達の素性がばれ、パラオに居た頃の様な無様な情けない生き方に逆戻りしていたかも知れないのだ。

それは絶対に出来ない。宗一郎さんにも、百々乃にも、二度と惨めな生活を送らせるわけにはいかない。

土岐田という人間は執念深く、意地汚く、欲望丸出しの人間の皮を被った悪魔のような男である。

他人を陥れ、他人の不幸を歓喜し、骨までしゃぶり尽くす死神のような人物である。

私はそれを失念していた…。


「家族のため。」と、思って、私はいったい何をやってきたのだろうか…。

結局のところ、何もやってない。それどころか大切な家族を地獄へと導くところだった。

恐ろしくなった。怖くなった。私のとった軽率な行動が元で「全てを失っていたかもしれない。」と、思うと…。


「君子危うきに近寄らず。」…その通りだ。

もう、何もしない。もう、踏み込まない。「触らぬ神に祟りなし。」だ。


でも…どうしても、どうしても、土岐田だけは、土岐田がやったことは、死んでも許せない。この気持ちを二度と忘れたくない。

だから、土岐田から受けた苦痛、屈辱、暴虐の数々を全て書き綴る。私が二度と忘れないためにも。私が再び愚かなことをしないためにも。


* 太郎の赤面


この春で百々乃ちゃんは中学生になった。

まだ十三歳なのに、この前まで小学生だったのに、とても大人びて見える。

背が伸びたのは勿論だが、顔が小さく、目鼻立ちはすっきり、手足は細くて長い。

「女優さん」って、言っても通るぐらい目を引く存在に成長した。何故かそんな百々代ちゃんがぼくにはとても誇らしかった。

先日、百々乃ちゃんを連れて浅草に粟善哉を食べに行った。その帰り道、昔の学友達にも偶然出会う。久しぶりの再会だったが、昔話をすることも無く、彼らの興味は百々乃ちゃんだけだった。

ぼくは百々乃ちゃんを彼女だと勘違いされ、彼らにしこたまからかわれた。

成人の彼らから見ても、百々乃ちゃんはそれほど大人っぽいのだ。

あの時の百々乃ちゃんは、顔を赤らめて黙っていた。多分、ぼくも赤面していたに違いない。

あの場面で、ぼくはしきりに「姪だ…。姪だ…。」と、彼らに言い訳していたことをよく覚えている。

年の離れたぼくなんかの彼女に間違われ、百々乃ちゃんはとても迷惑だったに違いない。

でも、ぼくは、昔の学友に勘違いされ嫌ほどからかわれたけど、何故か誇らしかった。


* 目白百々乃の夢


この前、浅草で太郎お兄ちゃんの高校生時代のお友達に出会った。

太郎お兄ちゃんと同じように大学生の人もいれば、会社勤めの人もいた。

二年前まではみんな同じ教室で、同じ制服を着て、同じように学んできたのに…離れると、段々とバラバラになちゃうんだね。

あたしは太郎お兄ちゃんと離れたくない。絶対に離れたくない。

お友達の一人が「この娘、太郎の彼女か?」って、聞いてきた。

その時は、恥ずかしい気持ちよりも『あたし、太郎お兄ちゃんの彼女に見えるんだ…。』って、嬉しくって顔が熱くなった。

真っ赤になった顔、太郎お兄ちゃんに見られたかなぁ…。

「太郎お兄ちゃんのお嫁さんになりたい…。」それがあたしの子供の頃からの夢。

いつも優しい太郎お兄ちゃん。勉強の出来る太郎お兄ちゃん。しっかり者の太郎お兄ちゃん。

そんな太郎お兄ちゃんに相応しい女性になりたい。


* 目白宗一郎の危惧


1958年 昭和三十三年 夏

この二~三年、紗千の外出がめっきりと減った。と、言うよりも、必要時以外は全く出歩かなくなった。

数年前までは、言葉多く、明るく、東京に馴染んだ様に思えたが、今ではパラオの頃の「牛蒡」に戻ってしまったみたいだ。

家庭の事は手を抜く様な事はないが、糸の切れた風船の様に「心ここにあらず。」と、いった感じである。

起業した「めじろ不動産」の方は、今年で二十歳になる太郎にある程度任せられる。

なので僕は、紗千の現状の原因を探る事に可能な限りの時間を割こうと決めた。

手始めに、数年前まで毎日のように通っていたお隣の鈴木さんに話を聞きくことにした。

先日、めじろ不動産で管理をさせてもらっているアパートの大家さんから缶入りのビールを頂いた。そいつを使って「お裾分け」という口実で奥さんとの会話の糸口を掴もう。

「鈴木さん。鈴木さん。ご在宅ですか?隣の目白です。」

「はぁ~い。ちょっとお待ちを…あら。」

「こんにちは。お忙しいところお呼び立てして、すみません。」

「お隣の旦那さん。どうかなさったの?」

「缶入りのビールを頂いたんですけど、私、あまり飲めないもので…。」右手で飲むジェスチャーをした。「御主人、お飲みになるかなって思いまして…。」

「あら、そうでしたの。うちのは飲む方なので喜びますわ。」本当に飲む人のようだ。奥さんがこんなに喜ぶなんて…。

「いえいえ、こちらこそ妻の紗千がいつもお世話になっていて、ありがとうございます。」深く頭を下げてみた。

「そう言えば、紗千さんお元気?この頃全然婦人部会でお見掛けしないから…。」

いいぞ。向こうから紗千の話をしだした。缶入りのビールの効果かね…。

「体は何とも無いのですが、心ここにあらず…というような感じでして…。」

「新聞…頑張りすぎちゃったのかしら…本当に熱心だったから…。」

「あの頃は、紗千が家に居ることの方が不思議でしたよ。今では考えられない。何かあったんですかね?」少し突っ込んでみた。

「三年連続の最優秀賞の表彰の後、天路様に「まとめ役を代わって欲しい。」って、お願いしてたのよ…。あれはびっくりしたわ。」

「それはどういうことなのですか?」

「だってね。三年連続で最優秀賞の表彰を受けたのよ。どう考えても「次はまとめ役から協会幹部…。」ってのが協会会員皆の思う王道じゃない。」なるほど…紗千は、自身でつかみ取った昇進を蹴ったという事か…。

「それは変わったことなんですか?」

「あの協会で【幹部】って、言ったらそれこそ【貴族様】ですわ。私達、平の協会会員とは天と地ほどの違いがありますのよ。」

「では、では、紗千のやっていたまとめ役は今は天路様というお方が引き継いでくれているんですか?」

「暫くは紗千さんの代わりをやってられたけど…天路様は元々、協会の上級幹部の方なので、今は違う方だと思いますよ。」成程、だから天路様なのか…。

「あの…その…身勝手なお願いになるんですが…天路様にお会いすることは出来ませんかね…。紗千が御迷惑をおかけしたことを謝りたく思いまして…。」

「そうねぇ…。」と、言って鈴木さんの奥さんは考え込み始めたが、「何とかしてみるわ。」と、言ってくれた。

これも、缶入りのビールの効果かな。


三日後の午後、お隣の鈴木さんの奥さんが【お友達】という女性を連れてめじろ不動産を訪ねてきた。

「こんにちは。よく分かりましたね。」僕は急な会社への訪問で少々面食らった。

不動産会社の事は秘密にはしていないが、過去の「共産主義者」「赤狩り」等の事もあり、ご近所の方々に積極的に家庭のことを話したこともない。

「先日のご依頼の件、了承くださいましたわよ。」天路様の件か…。

「ありがとうございます。わざわざそれを伝えにここまで、申し訳ございません。」

「いえいえ。ただね。ひとつお願いというか条件というか…が、あるのよ。」

「な、なんでしょう。」

「協会の男子部会への入会なのよ。」

「ぼ、僕がですか。」面倒な話になってきた。

「そうなのよ。天路様がね「三年連続最優秀賞の紗千さんの旦那様だし、是非とも入って欲しい。」って…。」「で、あれば「いつでも時間を開ける。」って。」鈴木さんの【お友達】は黙って僕を見ている。

全く、横柄な話だな…。

「少々、お伺いしても…男子部会って、具体的には何をやるのですかね?僕、会社もあるので然程、参加出来ないと思うのですが…。」

「そうねぇ…。婦人部会もそうだけど…協会からの大きな【お命題】でもない限りは、時間のある会員達が集まってお喋りしてるぐらいかなぁ…。」鈴木さんの話に【お友達】も人形の様に頷く。

「そうですか、そうですか…僕からお願いした事ですが、少し考えさせてもらっていいですか?」とにかく、即答は避けた。何か、掴み処のない話である。

「急に変なお願いして、ごめんなさいね。良いお返事をお待ちしてますわ。」そう言うと、鈴木さんは【お友達】を連れて颯爽と去っていった。

『鈴木さん…先日会った時とは全く印象が違う…。』今日の鈴木さんといい…男子部会といい…何か得体の知れない感じを受けた…。


しかし「危ない枝に上がらねば、熟柿は食えぬ。」…の例えもある。

当って砕けろ…だな。

翌朝、鈴木さんの奥さんに「入会」を前向きに検討すると伝えた。


その日の午後、めじろ不動産の電話が鳴った。

「はい。もしもし。めじろ不動産でございます。」太郎が応対に当たる。

「ええ…はい…はい…少々お待ちください。」太郎が僕を見て手招きする。

僕は『何かどっかの物件で問題でも起きたのか…?』と、嫌々太郎に近づくと「宗一郎叔父さんに電話だ。」と、つっけんどんに言われた。

「はい。お電話代わりました。目白でございます。」

「はじめまして。突然のお電話、申し訳ございません。天路と申します。」

電話口の声は電話のスピーカー越しでも若く、美しい声だと分かる。

「あっ、あっ、は、は、はじめまして。目白です。」僕は突然のことで気が動転してしまった。

「この度は、私の不躾な願いをきいて頂きまして、誠にありがとうございます。」

「いえいえ。いえいえ。こちらこそ、失礼なお願いを致しまして…。」

「もしかしたら…鈴木さん達が私の事を大袈裟に言ったんじゃないですか。私こそ、役職上、あの紗千さんの旦那様への興味が尽きず、無理難題なお願いを言ってしまいました。」

なんとなく…鈴木さん達から聞いた話よりも気さくな方だな。

「役職上…と申しますと…。」

「あっ、すみません。私、協会の会員勧誘部門の責任者なものですから…。」

何故か若々しい屈託ない返答の声に少し安堵した。

「それで、本日、ご連絡差し上げたのは、お会いする日時を決めたくて…。」

「それはそれは、ありがとうございます。僕は、天路様に合わせますよ。」

「本当ですか。嬉しいです。では、明日の正午でもよろしいでしょうか?」

「明日…十二時…わかりました。どちらへ赴けばよろしいですか?」

「大丈夫ですか。ありがとうございます。では目白様の会社の方へ車を向かわせます。」

「そうですか。ありがとうございます。では、明日の正午に…。」

「はい。楽しみにしております。それでは、失礼いたします。」

電話を切ると、太郎が「鼻の下が伸びてる。」と、冷たい視線でからかってきた。


翌日の正午十分前、轟音とともに、めじろ不動産の前にすこぶる大きな車が止まった。

僕は慌てて外に飛び出した。その車はめじろ不動産の間口の二倍以上の長さはあろうかという代物だった。

艶のある真っ黒の車体に銀色に輝く装飾品がふんだんに使用されたアメリカ製の車だった。

「ガチャリ」と、大きく重厚な左側の運転席側のドアが開くと、黒のサングラスをかけたすらりと背の高い女性が降りてきた。

優しい風が、彼女の茶色の長い髪を滑る様に撫でていく。いい香りがそこら中に広がる。体にぴったりと張り付いている真っ白のワンピースがお世辞抜きで似合っている。

「こちらに目白宗一郎様はご在職でしょうか?」彼女は僕を見ると澄みきった声で尋ねてきた。

「ぼ、ぼ、僕が、目白宗一郎です。」緊張からか焦りからか直立不動で、しどろもどろになってしまった。

「はじめまして、天路でございます。」サングラスをゆっくりとたたみ、長身の若く美しい女性は柳の様にしなやかに腰を折った。

小さな顔に大きな二重の瞳。鼻筋の通った小さな鼻。真っ赤に塗られた口角の上がった形の良い唇。昨日の電話の声から思い描いていた印象をはるかに上回る女性だった。

「は、はじめまして、はじめまして。この様なむさくるしい所へわざわざ…。」と、挨拶の途中、彼女をチラリと見てみると、口に手を当てて微笑んでいた。

「お迎えに参りました。どうぞ車へ。お話は車の中で…。」

「ええ…はぁ…。」

狐につままれたように僕は真っ黒な大きな箱の中へと入っていった。


彼女が運転する真っ黒な車は、滑るように走り出した。

「天路様が直接、迎えに来てくれるとは思いもよらなかったです。」

「驚かせちゃってごめんなさい。」

言葉遣いが変わった。年齢的にもこっちの方が合ってる。それに僕もこの方が気が楽だ。

「鈴木さん達から聞いていた天路様の印象より、気さくな方だったので安心しました。」

「目白さん。」彼女はきつい口調になった。

「は…はい…。」また、どもってしまった。

「様は止めましょう。様は。」

「え…?」

「様は堅苦しいんです。止めてくださいね。」

「…え。…はい。…では、天路さんでよろしいでしょうか。」

「ん…私、フルネームが天路信子なんです。けど、友達からは【シンコ】って呼ばれてますの。だから目白さんも【シンコ】って呼んで下さい。」

えらくざっくばらんな人だな。「いくらなんでも僕は呼捨てにはできません…。【シンコさん】で良いですか…?」

「しょうがないか…。」と、言って、彼女は笑顔で運転を続けた。


彼女の運転する真っ黒な車は、中山道を三十分程走らせた後、日比谷公園近くにある帝国ホテルの車寄せに入った。

「目白さん。ここでお昼にしましょ。」

「ええ…。」僕は、目の前の高層の建物に圧倒された。

彼女は駐車係に車を預けると、何の躊躇もなくホテルへと入り、何の戸惑いもなくエレベーターに乗った。

彼女に付いていくだけの僕は、エレベーターの中で少し冷静さを取り戻した。そしてそれは、自分の【不相応】を認識させられる時間となった。

エレベーター内の同乗客も、彼女も、仕立ての良い洗練された洋服に身を包み、現代的で都会風である。

彼らを見ていると「十三年前、本当にここは焦土だったのか?」と、疑問すら抱いてしまう。

そう思い、僕自身を見返して見る。「…ヨレヨレのスーツ…十三年前のままだ。」と、情けなくなった。そして僕はこの場に萎縮した。

彼女はそんな僕の心情も知らず、高層階でエレベーターを降りた。そして、いっそう人の賑わうレストランへ入っていった。

「インペリアル…バイキング…。帝国の…海賊…。変わった名前のレストランだ…。」と、僕が【今の現実を直視しないために】意識して関係無いことを考えていると…。

「目白さん、このレストラン、どう?ここはね、勝手に好きなものを好きなだけ食べていいのよ。」と、彼女は、この変わった名前のレストランの決めごとを教えてくれた。

「へぇ…。」

「堅苦しい所だと思わないでね。お腹減っちゃった。とにかく、食べましょ。」

「ええ…。」彼女は野暮ったい僕に気遣っているのか?

中央にある長く大きなテーブルの上には、肉料理・魚料理・野菜・パン…と、様々な料理が所狭しと並べられている。

これを自身で好きなように取り分けて、自分達のテーブルへ運んで食するようだ。

彼女が言うには「少しずつ盛り付け、何度もテーブルを往復して、食べた皿の数が多ければ多いほどマナーが良い。」と、されるらしい。

僕は、この気兼ねない新しい風習に戸惑いながらも、この若く美しい女性との食事を心から楽しんでいた。

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