パラオ #07

* 目白宗一郎の始動


1954年 昭和二十九年 九月

あれからずっと紗千は熱心に新聞の勧誘をやっている。

昭和二十七年、二十八年の二年間、紗千は新聞購読会員獲得件数が一番多かったらしく協会からの表彰状を持って帰ってきていた。

紗千が家を空けている間は、従甥の太郎が百々乃の面倒をみてくれている。

高校生になった太郎は、西巣鴨にある高校が終わると我が家へ来て自分の勉強をしながら、僕の商売の手伝いの電話番をしてくれている。その上、紗千が留守中は百々乃の相手までしてくれている。

僕にとっては安心して頼れる少年に成長してくれた。

その太郎のお陰で、僕も心置きなく家を空ける事が出来た。そして、その有意義に使える時間から、この数年で「赤狩り」がかなり鎮静化しているという情報を得ることも出来た。

この状況を知り、僕は今までの個人での家屋売買ではなく、自分の名前で登記した不動産会社を興しての事業に移行する決意がやっと出来た。

逃げ回る生活はもう終わりだ。やっとこれで僕も家族も安寧を得られる。


* 目白百々乃の初恋


太郎お兄ちゃんは学校が終わると、うちに来る。お父さんが帰って来るまで勉強をしながらお父さんのお仕事のお手伝いをしてる。

お父さんは夕方の六時頃には帰って来る。帰ってくるとオートバイで太郎お兄ちゃんをお家まで送っていく。

日曜日は太郎お兄ちゃんは来ない。だから寂しい。

太郎お兄ちゃんの学校は隣町の西巣鴨にあるんだって。

だから、学校に行く日に学校が終わったらうちに来る。

この前、お父さんが早く帰ってきた。

お父さんは自転車を買って帰ってきた。

自転車は太郎お兄ちゃんへの「ボーナス」って、言ってた。「ボーナス」ってなんだろう…?

でも、それから、太郎お兄ちゃんは日曜日もうちに来るようになった。とても嬉しい。

ちょっと前に、太郎お兄ちゃんが、あたしを自転車の後ろに乗せてくれた。

初めはちょっとこわかった。

でも、すごく速かった。すごく楽しかった。すごく風が気持ち良かった。

お家に戻ったら直ぐにちゃんと手洗いしたよ。

太郎お兄ちゃん、背中が大きかったな。格好良かったな。お父さんとは違ういい匂いしたな。

また、乗せてもらいたいな。


* 太郎の心情


ある日、宗一郎叔父さんが自転車を買って帰ってきた。そして「ボーナスだ。」と、言ってその自転車をぼくにくれた。

「学校でも仕事でも好きに使いなさい。」と、宗一郎叔父さんは言ってくれた。

先日の留守番中にぼくは百々乃ちゃんを後ろに乗せて自転車を走らせてみた。

自転車に乗るのが初めての百々乃ちゃんは、力一杯にぼくの体にしがみついていた。

ぼくは百々乃ちゃんが気になり後ろを向いた。風になびく百々乃ちゃんの長い緑の黒髪は、陽の光でキラキラと輝いていた。

『きれいだ…。』

ぼくはひとりっ子だ。もし、ぼくに妹がいたらこんな感じなのだろうか…?

自転車を降りた時に「楽しいね。また乗せてね。」と、目を輝かせた百々乃ちゃんに言われた。

ぼくは何故だが誇らしくとても嬉しい気分だった。


* 目白紗千の上進


1955年 昭和三十年 三月某日

「おはようございます、紗千さん。鈴木でございます。」お隣の鈴木が迎えに来たようだ。

「百々乃、用意出来た?鈴木のおばちゃんが迎えに来てくれたから…。急いでね。」

「お手て洗ったら行くから…。」

今日は、私の三度目の協会新聞の購読会員獲得件数一位の表彰式の日だ。

昭和二十六年の第一回目だけは、かの天路女史に負けたけど、二十七年、二十八年、二十九年と、三年連続で獲得件数一位を取ってきた。

二年連続で一位を取った後に、協会本部は私を巣鴨地区の婦人部会のまとめ役に任命した。

私の任された巣鴨地区の婦人部会も今回の購読会員獲得では最優秀な成績を上げた。

この巣鴨地区の婦人部会での私の片腕でもあるお隣の鈴木も今回の表彰式では鼻高々だろう。

ここまでやれば協会本部もいい加減、私を認めざるを得ないだろう。


* 目白百々乃の動揺


ここはどこなんだろう?

今日は、太郎お兄ちゃんがうちに来れないみたいだからお母さんについて来たけど…。

すっごく大きなお部屋…。学校の教室より大きい…。

ジュースもらった。お菓子たくさんもらった。

お母さんはたくさんの人に囲まれている。たくさんの人と喋ってる。

えっ…。肥ったでっかいおじさんがこっちに来る…。こわいよぉ…。

お手洗いどこ…。


* 土岐田の出現


「よっこらしょ…と。こ・ん・に・ち・は。」しゃがんだら膝が痛いわ。年やなぁ…。

「…こ。…こんにちは。」

「お嬢ちゃん、お年は?」うちの娘と同じ位かねぇ…。

「…九…歳。」

「ほうかほうか。お名…。」

「土岐田様。土岐田様。こちらでございます。お時間が…。」

「ほないか…。よっこらせッ…と。お嬢ちゃん、ほな、また。」せかすなや、あほが。膝が痛いちゅうねん。

「…。」


* 目白紗千の親愛


「昭和二十九年度、最優秀個人賞の目白紗千様のお話でした。ありがとうございました。」

はぁ…。やっと終わった…。

「紗千さん。」

「ん?」お隣の鈴木だ。

「百々乃ちゃん、疲れたみたいで、会場で座り込んでたから、控室で休んでもらってるわよ。」

「そうなの、ごめんね。迷惑かけちゃって。」

私は急いで控室に向かった。そこには、長椅子で寝ている百々乃がいた。頬に涙の跡があった。

「長丁場だったからねぇ…。大人の私でもくたくただもの…。ごめんね、百々乃。」寂しい思いをさせてしまった。

小さく丸くなって寝ている娘が愛おしく、赤みがかった柔らかな頬に指を這わせていると、百々乃が目を覚ました。


* 目白百々乃の口述


…うん。…まぶしい。…お母さんは?「…お母さん。…お母さん。」

「百々乃。ここにいるよ。」

「お母さん…。お母さん…。こわかったよ。」

「怖い夢でも見たの?大丈夫。怖くないから。」

「ちがうの…。ちがうの…。こわいおじさんが来たの…。」

「怖いおじさん…?ここにはいないから、大丈夫よ。」

「ちがうの。さっき…。さっき…。肥った…。おっきな…。こわいおじさんが来たの…。」

「大丈夫よ百々乃。大丈夫。落ち着いて。」

「お母さんがいない時に…来たの。金色の歯の…。肥った…。おっきいおじさんが…。」

「えっ…。」


* 目白紗千の憤怒

「…肥った。…大きい。…金色の…歯。」どういうこと…?忘れようにも忘れられない「あいつ」の容姿…。

体中の血液が沸騰する…体中の全ての血液が私の頭に集まり、私の頭を爆発させてしまう程の圧迫感を感じる。

それとは反対に、体には鳥肌が立ち氷のように冷えていく。歯がカタカタと鳴る。

私は、とても重要な「事」を忘れていたことを今一度、怒濤の如く思い出した。

「と…と…と…と…きぃ…たぁぁぁぁぁ…。」私は無自覚に、喘ぎとも声とも嘆き声とも叫び声とも言えぬ怒声を放っていた。

『あいつだ。あいつが居たんだ…ここに…。間違いない…。』

「百々乃、百々乃、そいつは何か言っていたか?そいつに何言われた?」

「…ひっ。…何歳って。」

「他には。他には何か言っていたか?」私は、知らず知らずのうちにいたいけな少女を大声で尋問をしていた。

「…ひっ。…ひっ。…それだけ。…それだけ。」

「…。」

「…ごめんなさい。…ごめんなさい。…知らない人とお話して。…ごめんなさい。…ごめんなさい。…ごめんなさい。」

大声で泣きじゃくり一心不乱に謝る年端のいかない少女を見て私は我に返った。

頭に上っていた血液はバケツの水をひっくり返したかの様に一気に下がり、一瞬で体に体温が戻ってきた様な感覚を覚えた。

私は、自身を取り巻く環境が良くなり、周りからもちやほやされることで、当初の目的をすっかり忘れてしまっていた。

「家族を守る。家族を危険にさらさせない。」そのためにこんな訳も分からぬものに入会し、家族を脅かす「あいつ」を遠ざけるという当初の目的を…。

「今日は、紙一重のところで全てを失わずに済んだだけ…。運が良かっただけ…。」

百々乃か…、私か…、それとも二人共が…、今日、あいつに見つかっていたら…と、思うとゾッとする。

見つけたあいつは狂喜し、また私達にすり寄って来ただろう。想像しただけでもおぞましい。

そしてあいつは、パラオの時の様に私達家族を無茶苦茶にしただろう…。

冷や汗が背中を滑る。体中の毛穴から冷や汗が噴き出している様な錯覚に陥る。

『何をやっているんだ…私は…。』

一番大事な「事」を忘れ、浮かれていた自分自身に狂う程の腹立たしさを覚えた。自分自身のとってきた愚かな行為をすこぶる悔いた。そして、私は唇を血が出る程に嚙み締めた。

『もう…何もしちゃ駄目…。近づいちゃ駄目…。何もしちゃ駄目…。近づいちゃ駄目…。』私は同じ言葉を心の中で念仏の様に繰り返し繰り返し唱えていた。


己の過ちから悟った私は、泣き疲れ放心状態の百々乃を強く抱きしめ、耳元で何度も何度も「ごめんね。ごめんね。」と、繰り返していた。


* 目白百々乃の安堵


あたしが目を覚ますとお母さんに負んぶされてた。

こわくて泣いて寝ちゃったみたい。

あたしが知らないこわいおじさんと喋っちゃったから…。お母さんは凄く怒った。こわかった。

『あっ…。お家だ…。お手て洗わないと…。』

負ぶられたままお家に着くと太郎お兄ちゃんが「何かあったの?」と、心配して聞いてきた。

「ごめんね、大丈夫よ。私がこの子を大声で怒っちゃったもんだから…。泣き疲れちゃったみたい…。」

「そうだったんだ…。」

「太郎ちゃん。何も無いから、大丈夫…。」

あたしは太郎お兄ちゃんの声を聞いて、なんだか安心しちゃて、また寝ちゃった。

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