パラオ #05
* 目白紗千の不安心
1948年 年末 早稲田
宗一郎さんの考えた商売は、着眼点の的確さ、発想の面白さから大繫盛した。
そのお陰で、戦後の復興途中の東京では考えられない程の多額の貯えも出来た。
人並み以上の収入は三歳になった百々乃にひもじい思いをさせずにすんだ。
脱脂粉乳や、さつま芋や、すいとんではなく牛乳や白米飯を与えられた。
近隣の同年代の子供たちから比べれば百々乃は一回り以上、すくすくと成長している様に見える。
ただ、今年に入ってから、宗一郎さんは何やら落ち着かない様子…。
つい先日も「見ず知らずの人間が訪ねてこなかったか?」と、何時になく強い口調で聞かれた。
それに、常日頃から「ここの住人の名前を尋ねられたら、叔母の姓を答えるように。」と、頑なな迄に言われている。
そのせいか、早稲田のこの家に住み始めても、家の表札は義叔父の姓の表札のままだ。
私には分からない何かが起こってるという事は感じる。ただ、昔のように単純に宗一郎さんを不信に思う気持ちはない。
何故なら、宗一郎さんの行動、言動の全ては、私達家族の為のものだから。
* 目白宗一郎の予期
「近々、日本政府が共産党員及びその支持者の排除に動き出す。」という情報を、仕入れで通う池袋の闇市で得た。
通称「赤狩り」だ。
戦時中、僕が東京帝国大学の学生の時、学友の誘いから、知らずに「反戦」を謳う共産主義運動に加担していた時期があった。
その後、日本政府は「国家総動員法」の施行に邪魔になる共産主義思想の排斥運動、共産主義者の弾圧を開始した。
その時の混乱に乗じて僕は素性を隠すために誰も知る者のいないパラオへ逃げた。
しかし…そこで出会った土岐田は、何故か僕の過去を知っていた。
日本の敗戦という結果で戦争が終わり、それとともに、僕は土岐田に無理矢理あてがわれた新しい家族と共にパラオから日本へ戻る。
だがしかし、パラオから戻った今現在でも、都内中を走り回りGHQや日本政府の共産主義者に対する政策情報を事細かに探らざる得ない。
何故なら、僕が記憶を失くし過去を忘れていたとしても、僕という人間には「共産主義者」のレッテルが国家から貼られているだろう。
パラオで土岐田に強引にさせられた結婚と養子縁組。僕の稚拙な考えから家族となってしまった紗千と百々乃…。
今の僕の状況は、ひとりよがりで逃げ回っていた頃の僕とはもう違う。
守るべき人がいる。育むべき娘がいる。だからこそ、僕の「共産主義者」のレッテルが冤罪であっても、絶対に捕まるわけにはいかない。
戦火により焦土と化した日本。全てを失うことで生き残った国民達。この様な状況下では、富を平等に分配するという共産主義の思想に傾倒する者は少なからず現れる。
若い大学生の中にも「赤狩り」を恐れ、共産主義の実践運動には加わらないが、地下に潜って彼らの活動を支援する「シンパ」と呼ばれる支持者になる者も増えていると聞いた。
そして、ここ早稲田の学生達の間でも同様の動きがあるようだ。
しかし、資本主義思想の代表格であるアメリカ合衆国の占領下にある日本では、共産主義思想の拡大は絶対に許されざる行為である。必ず、間違いなく、共産主義者への弾圧は行われる。
紗千の頑張りで学生相手の商売は軌道に乗ったが「君子、危うきに近寄らず…。」
この言葉通り、ここを離れる必要がありそうだ。
早稲田での商売では、かなりの金額の貯えも出来た。
「この資金を元手に違う場所で違う商売を始めることにしよう…。」と、考えを巡らせていた矢先、大きな情報が耳に入った。
【1948年 12月 23日 巣鴨プリズン A級戦犯 処刑執行】
「時代が大きく変わる…。」と、僕は直感した。
* 目白紗千の胸中
宗一郎さんが年明け早々に早稲田から引っ越すと言い出した。
本当に相変わらず何を考えているのか分からない人だ。
私の故郷からここに移り住んで一年半程の期間だったけど、何処で暮らしている時よりも充実した時間を過ごせた。
逃げること、消え去ること、だけを考え生きてきた私のこれまでの人生には無かったこと。
それもこれも全ては宗一郎さんが与えてくれたこと。
だから、ただ今は、ついて行くだけ…。
* 目白宗一郎の考察
巣鴨プリズンでの歴史的な一件の後、ここ数日、僕は池袋の東口前の「マーケット」と、呼ばれている闇市に通い詰めている。
年末の「マーケット」は、物と人でごった返していた。
都内のあちこちに自然発生的に出現したこういった闇市には、有象無象の輩が集まり、有象無象の情報が集まる。
1948年からの朝鮮半島の内戦は、キナ臭さを増しているようで、闇市の店主達は「書き入れ時だ。」と、浮足立っていた。
闇市の輩の間では「日本もアメ公の手先として参戦するだろう…。」と、言うのが大方の予測らしい。
こういう時にこそ、反戦主義者・共産主義者・宗教家等の活動が活発になる。反面、国家としは、政策に反対する反乱分子の排除は絶対的に欠かせない。
国家は活動家達に対して、世の中の暴力分子・破壊者として烙印を押す。そして彼らを徹底的に弾圧する。
これらの政策は、民衆に強く知らしめる事で「恐怖」と「ガス抜き」という相反する感情を同時に与えることが出来る。
資本主義者が打ち上げた「赤狩り」こそが現代の「魔女狩り」であり、従順な国民を作り上げるための政治トリックなのだ。
歴史的にも「魔女狩り」は、疑いをかけられないようにする「自己抑制」と衆人環視による「恐怖」で教会が民衆を操作出来る様にした。
そして「魔女裁判」は、大衆の張りつめた緊張を解きほぐし欲求を満たすため「見世物」であり、そして「見世物」は、どんどん激化し、多くの「冤罪」を生み出すことになる。
それは現代でも変わらない。僕の様に怯えながら生きている人間を作り上げている。いつになれば、何を言っても、何に傾倒しても罰せられない時代になるのだろうか…。
『年明け早々には僕たち家族が平穏に安住できる場所を探し出さなければ…。』
何時までも、紗千と百々乃に逃げ続ける様な生き方はさせられない。
* 目白紗千の新生活
1949年 昭和二十四年 三月 巣鴨
朝日で目が覚めた。
昨日、やっと引越しの荷物が片付いた。今回の引っ越しは「巣鴨」という所。
やはりここもご多分に漏れず、戦災で町の大半は焼け野原だったようだ。しかし、この数年で、駅周辺や旧街道沿いは少しばかり復興が進んだよう。
駅周辺には、無線機器や無線パーツを扱う掘っ立て小屋が所狭しと建ち並び、寺町の旧街道沿いには嘗ての商店も戻り始めてる。
その旧街道沿いにある私達の住まいは、私達が早稲田で商売をしていた時の取引先の店主から買い受けたと宗一郎さんから聞いた。
この家は立派な門を持ってはいるけど早稲田の家程の広さはない。しかし、この家もこの辺りの家も鉄筋コンクリート造で頑丈だったから戦火を免れたのかもしれない。
私にとってはまた未知なる土地だけど、日本に帰国してからもう三度目の引越し。ある面、不安要素にも慣れてきた。
今日は、故郷から送ってもらった蕎麦粉を打って蕎麦にして、向こう三軒両隣に配る予定。
百々乃は七五三祝を済ませ、歯もしっかりしてきた。この頃は、私が調理している姿を真似ているのか、台所に立ち、ひっきりなしに手を洗う。その姿がとても微笑ましい。
夕飯は家族みんなで打った蕎麦を食べよう。
隣でまだ寝ている宗一郎さんは「今日は早稲田の家に行く。」と、言っていた。
そろそろ起こさないと…。戻りは何時かしら…。
* 目白宗一郎の予感
悩んで悩んで考え抜いて、その上で早稲田から巣鴨に移ることを決めた。
巣鴨も早稲田同様、どこもかしこも焦げ臭い焼け野原だ。一向に復興は進んでいない。
ここ巣鴨でも、戦災で全てを無くした者、徐々にしか進まぬ復興に業を煮やした者、そんなの中からは、この地を去る者は少なくはない。
僕達の巣鴨の家は「池袋のマーケットを畳んで田舎に帰る…。」と、言う取引先の店主から、ただ同然の値段で買い取った。店主も去る者たちのひとりだった。
巣鴨は僕が東京帝国大学の学生時代を過ごした場所であり、僕にとってはパラオに移る前に日本で最後に住んでいた場所となる。故に、土地勘も少なからずある。
それ以上に、この地は、僕を過去の呪縛から解放してくれる様に思えた。この地は僕達に逃げ隠れする必要を失くしてくれる様に思えた。
西巣鴨には「巣鴨プリズン」と呼ばれている刑務所がある。
敗戦後「巣鴨プリズン」にはA級戦犯が収監されていた。しかし、先日の「刑」の執行で、今は、「B・C級戦犯」「思想犯」「宗教家」等が収監されている。
この様なこともあって、この「巣鴨」という町には「思想犯のシンパ」「宗教信者」「反戦主義者」等々が数多く集り、行政の状況を伺いながらひっそりと暮らしている。
僕は当初、転居先の候補として「巣鴨」は危険だと考えてた。しかし、熟考してみると「監視対象が多いということは…裏を返せば…全てを監視しきれない…。」と、いう考えに至り、移り住む事にした。
ある面、賭けだ。しかし「木を隠すなら森に…。」の、例えを実践することにした。
私のように紛い物の「共産主義者」など、ここでは箸にも棒にもかからない程度の存在でしかないはずである。
考えた通りであれば、ここ「巣鴨」は、僕が素性を晒して商売を始めたとしても、さして目立つ事はないはず…である。
そして、それが出来れば…紗千と百々乃に安住できる場所を与えてあげることが出来る。
今日はその第一歩のために、僕は早稲田の叔母の家に来た。
* 目白紗千の観察
宗一郎さんは早稲田から帰ってからというもの、ずっと百々乃の相手をしている。
いつになくとても上機嫌。
何かいい事があったんだろうか…。
私も宗一郎さんに釣られて不思議と気分がよくなる…。
宗一郎さんは、何を考えているのかよく分からない人だけど…感情は分かりやすい人。
さあ。みんなで、蕎麦を頂こう。
* 目白宗一郎の見込み
思った通りだった。
ずっと情報収集を行ってきた池袋の「マーケット」が、今年に入り少しづつ姿を消していっていた。
この一年で物の価格は二倍になった。という事は、商品の仕入れ価格も二倍になったという事である。
資金の乏しい「マーケット」の店舗は、仕入価格の高騰から商品が集められず、自ずと閉めざるを得ない状況となった。僕に巣鴨の家を売った「マーケット」の店主もこれが原因で店舗を閉めた。
この状況は、徐々にではあるが戦後の復興が進み、人々が「物」を欲し始めたことが招いた結果だ。
その兆候が「住宅」という商品にも表れ始めている。
焼け野原になった東京の土地には、全く住宅が足りていない。
住宅を建てるにも物資がない。新たに家を建てる事はとても難しい。
その上、この時期に日本政府は、地租を七倍、家屋税を五倍に跳ね上げた。
この政策は、貸家業を営んでいる大家には、全くたまったもんじゃない。
終戦後に発布された「家賃を勝手に上げてはならない。」という法律がある。その上にこの莫大な増税。
大家の「家賃収入」は変わらないのに、「税」だけは莫大に徴収される…。収入が残ればまだ良いが、数棟程度の貸家であれば大家の赤字は免れない。
この莫大な増税は、貸家業を営めば営む程、「損」をするという構図を生み出した。大家達に対してとても嫌な印象を植え付けた。
だから、僕に巣鴨の家を売った「マーケット」の店主は、僕に対し「借家契約」とせずに「売買契約」としたのだ。
余裕を持ち出した人々は住処が欲しい。しかし、資材不足から新しい家は建てられない。貸家業を営む大家は政府の莫大な増税のせいで赤字を生み出す手持ちの貸家を手放したい。
僕はここに利害の一致をみた。
私達家族が住まわせてもらっていた叔母の家も、この度の増税で「維持出来ない。」と、僕に話していた。
それで僕は早稲田での商売で蓄えた金で早稲田の叔母の家を安く買わせてもらった。
叔母は「金額の大小よりも損を出さない事の方が優先よ。」と、言って喜んで僕に家を譲ってくれた。
そして僕は、叔母から買った家を住処を求める人間に高値で売った。
物不足は「欲しい」という欲求の大きさによって価値を勝手に高騰させる。
僕はこの儲けた金でまた違う家を買った。
* 目白紗千の苦汁
「今日は掃除をしましょう…。」
引越しの片付けは終わったが、とにかく埃っぽい。
特に畳は埃っぽい。百々乃のためにも清潔にしておかないと…。
そう言えば、先日、蕎麦を持って引越しの挨拶行った折、お隣りの奥さんが「私達が作っている新聞なの…。」と、言ってガリ版新聞をくれたっけ…。
あれを千切って濡らして畳を掃き掃除しよう…。
「えっ…!!!」私は驚愕した。そして、凍りついた。
何の気なしに手に取ったガリ版新聞に胸糞悪い名前が載っていた。
「土…岐…田…。」
頭に血が昇るのが分かる。顔が熱を持つのが分かる。
その晩は全く眠れなかった。
あのガリ版新聞のあいつの名前を見てからずっと気持ちがざわついてる。
私の頭の中に、あいつの脂ぎった顔、金歯の前歯、醜い体、下品な喋り声、…、あいつのどこもかしこもが誇張された記憶となって甦る。気分が悪い。
「許せない…。許せない…。」あいつを責め立てる気持ちが溢れ出る。
しかし今は…、あいつから百々乃を守らないと…。宗一郎さんに合わせない様にしないと…。それが何よりも先決だ。
百々乃の本当の母であるパラオの名も知らぬ少女との約束…。忘れることはない。
「百々乃はちゃんと育てる…。育てるから…安心して…。」と、あの少女がここにいるわけないのに、約束を再確認する様に自分自身に言い聞かせていた…。
『絶対に、あいつに邪魔はさせない。私達家族に近づかせない…。』
ただ、町内新聞の様なものに名前が載っていたからといって、あいつとは限らない。同姓同名の他人である可能性もある。
この土岐田はパラオの土岐田なのか…。パラオの土岐田だったらどうする…。私の心に鬱憤が溜まる。
『隣りの奥さんにガリ版新聞の記事の事を聞いてみようか…。どうやって近づけばいい…。どう聞けばいい…。』焦りから思考が迷走する。
『否。変に聞くとあいつとの関係を勘ぐられるかもしれない…。』無暗に行動する危険性を推察する。
『いったいどうすればいい…。』
色々な思いが私の頭の中をごちゃごちゃにする…。
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