パラオ #04
* 目白宗一郎の幸運
僕は幼い頃、家族と共に高田馬場に住んでいた。早稲田には父方の叔母夫婦の家があった。
義叔父は、戦火に巻き込まれ終戦前に他界してしまった。それを機に、叔母は大久保にある息子夫婦の住まいに身を寄せている。
信州をたつ前に僕は叔母へ「借家願い」の電報を送っておいた。直ぐに、叔母からは「早稲田の家は好きに使えばいい。」との返信をもらった。
長時間の汽車移動でどうにかこうにか辿り着いた高田馬場を僕達は一旦離れ、大久保の従兄弟の家へ歩いて向かった。道中には、まだ焼け焦げた臭いが充満している。
大久保の従兄弟夫婦の家では、叔母と従兄弟夫婦に挨拶をし、信州の土産を渡し、家族を紹介した。
叔母は僕が妻と子供を連れて来たことに面喰っていた。そして、叔母の兄にあたる僕の父にも合わせたかったと涙を流した。
僕の両親は、僕がパラオにいる間に米国が行った東京の大空襲の犠牲になっていた。叔母の言葉に、迷惑しかかけられなかった親不孝な自分を再度認識させられた。
従兄弟宅で少し休ませてもらった後、借家となる家の鍵を預かり、僕達は早稲田ヘ向かった。
大久保から早稲田ヘ向かう道中も、焼け焦げた臭いと、焼け野原に所狭しと建てられた掘っ立て小屋といった変わらぬ無惨な風景が続く。
そんな中、場違いに思える程にほぼ無傷で建っている叔母の家が現れた。空襲の戦火で周りの家はことごとく焼失しているのに、叔母の家は奇跡的に残っていた。
鍵を開け居室や台所を見回ってみた。叔母夫婦が住んでいた当時のまま、ただ埃を被っているだけの様に見えた。
生活に必要な物は全て揃っている。
紗千に、とりあえず今夜寝るための部屋の掃除をお願いし、僕は、納屋の方を見回ることにした。
庭にある納屋を覗いて見ると、大きな鼠色の布の掛けられた大きな異様な物が目に入った。鼠色の布を勢い良く剥いでみるとそれはオートバイであった。目黒製作所のメグロ号Z97であった。
近くにあった車両の登記書類を確認すると、義叔父が所有していた物だと判明した。
義叔父は、高価で貴重なメグロ号を手に入れたはいいが、直後に日本は戦争に突入し、メグロ号を動かす機会を失った…。
戦況の悪化に伴う鉄製品の供出を免れる為、義叔父は、メグロ号を納屋の奥にひっそりと隠す様に仕舞い込んでおいた…。
そしてその後、戦災で義叔父が亡くなり、家族にも忘れられたまま、メグロ号は新車同様の状態で今日まで納屋に収められていたのだろう…。
今の焼け野原の東京では、汽車も車もままならない。移動手段があることは、最大の強みである。
『こいつが動けば…商売が出来る。』僕は無意識に握り拳を握っていた。
* 目白紗千の困惑
早稲田に移り住んで二週間程になるけど、目白宗一郎は仕事を探すのでもなく、百々乃の世話をすることなく、引っ越し以来、納屋に閉じ籠っている。
ここでは、信州の実家とは違い誰も助けてくれないというのに…。いったいここに何をしにきたのか?何を考えているのか?全く分からない。
私が、そんな不安と不満を抱いた日々を送っていたある日、目白宗一郎が納屋から真っ黒な大きな鉄の塊を引っ張り出してきた。
目白宗一郎は、見るからに重そうな鉄の塊の横に立ち、塊から突き出ている棒の様な物を何回か足で踏み込んだ。すると鉄の塊は、突然、鼓膜をつんざく爆発音を発し、真っ黒な煙を吹き出した。
不意なことで、私は腰が引け「ヒィ」と、声を上げてしまった。負ぶってた百々乃も大声で泣き出した。
目白宗一郎は、満面の笑顔で白い歯を見せながら「義叔父さんのオートバイさ。これで商売を始めよう。」と、私達に向かって大声で言った。
そして、オートバイのけたたましい轟音を止めると「紗千、実家に電報を打ってくれないかい。関東近郊に知り合いの農家がないか聞いてほしいんだ。」と、言ってきた。
本当に目白宗一郎という人間の考えている事は分からない…。
* 目白宗一郎の空想
紗千の実家から返信が来た。「奥多摩」という場所の農家に叔母さんが嫁いでいるらしい。
「奥多摩」を調べる為、先日買った地図を広げる。今年、東京では35区から23区へ整理統合が行われ、地図も一新された。
「奥多摩…ここから…片道…約100キロ。メグロ号なら一日一往復は出来そうだ。思ったよりも遠くない。」
未知の場所への不安、見知らぬ人への不安、メグロ号の耐久性への不安、道中への不安…様々な不安材料が頭をよぎる…が、それらよりも期待に胸が膨らむ。
「早速、明日、メグロ号の試運転も兼ね、奥多摩の叔母さんに挨拶しに行ってみよう。」
「上手く事が進めば…商売を始められる。」
僕は自身を鼓舞する様に無意識に小声で呟いていた。
* 目白紗千の変心
唐突に目白宗一郎が「明朝、奥多摩に向かう。」と、言うので、陽の上がる前に百々乃を起こさぬ様に起き、握り飯を用意してやった。
と、言っても、ただの塩にぎりだ。物資不足の今の東京では、米があること事態が贅沢なこと。貴重な米を持たせてくれた実家に感謝した。
おかずは野沢菜漬け。水筒には緑茶を入れて持たせた。どれも、実家に感謝せねば…。
目白宗一郎は「帰りは夕方になるだろう。」と、言っていた。
私には奥多摩がどれほど遠くの場所なのか見当もつかない。
ましてや、奥多摩の農家に行って何の商売になるのだろう?
相変わらず目白宗一郎の考えは分からない。分からない…。分からない…けど…。
ただ…無事に…。無事にさえ帰って来てくれれば…。それだけでいい…。
* 目白宗一郎の小旅行
朝の六時に早稲田を出た。晴天だ。風を切ってメグロ号が走る。
23区内はどれだけ走っても一面、焼け野原だった。顔に当たる風は焦げ臭かった。変わり果てた東京のありように知らず涙が流れた。
東京の惨状は頭では理解しているつもりでいたが、現実は想像をはるかに超えていた。「これが…地獄なんだ…。」思わず言葉が零れた。
「僕は、こんな所に百々乃と紗千を連れてきてしまったのか…。」と、自身の浅はかな決断に顔を歪めるしか出来なかった。
ハンドルを握って二時間余りが過ぎた頃には、徐々に風景は変わり、九時過ぎには多摩地区に入れた。ここには、まだ辛うじて、嘗ての生活が残っていた。僕は少し安堵した。
『道筋に慣れれば、ここまでは一時間半程で来れるようになるな…。』僕は、路肩にメグロ号を止めた。
ずっと風に晒されていた身体は夏だというのに冷えきり、思わず地面に座り込んでしまった。
『目的の農家を訪れる前に少し休もう…。』僕は座り込んでしまった場所で紗千が握ってくれた飯を頬張った。
「…。美味い。」塩加減が絶妙だった。
『あれ…なんだ…?』握り飯を頬張っているだけなのに、僕の目からは涙が零れていた。
何故涙が出るのか自分自身でも分からない。でも、何故かその涙は暖かく、僕に安心と、ある種の達成感を与えるものだった。
紗千が持たせてくれた水筒の茶をすすった。茶はとうの昔に冷めていた。
なのに、温かい毛布にくるまれた時の様に、体が温まる。糸が切れた人形の様に、体中の力が抜ける。
「うん…美味いよ…。この飯は…このお茶は…。」暗いうちから握り飯を作る紗千の姿が目に浮かんだ。紗千に背負われた百々乃の寝顔が目に浮かんだ。
「僕は…僕は…何のために…誰のために…。」意味不明な言葉が口から漏れる。
握り飯を頬張りながら…茶をすすりながら…大の大人が地面に座り込んで声を上げて泣いていた。
殻を被って怯えながらひとりで生き延びてきた、これまでの僕の道程が、走馬灯の様に頭の中に浮かんでは消えていった。
「百々乃…紗千…。僕の偽物の家族。偽物かもしれないが…唯一、僕を頼りにしてくれる…。」
「唯一、僕を助けてくれる…。唯一、僕を信じてくれる…。唯一、僕を心配してくれる…。そして、唯一、僕に安らぎをくれる…。」
「僕は…もう、ひとりじゃない…。」僕は初めて自分の家族の尊さを実感した。
「どんな手を使ってでも、生き抜いてやる。どんな卑怯な手を使ってでも、百々乃と…紗千と…生き抜いてやる。」
握り飯を頬張り泣きながら僕は「絶対に…。」「絶対に…。」と、繰り返していた。
* 目白紗千の軟化
夕餉の支度に身が入らない。今日一日、何も手につかない。
陽が沈みきる前に家の前の道で騒音がした。
…目白宗一郎が帰ってきた。
私は、台所もほったらかしで、百々乃を負ぶったまま玄関へかけ出た。
そこには、オートバイを止め、降りようとしている目白宗一郎の姿があった。オートバイの荷台には沢山の菜っ葉が積み上げられていた。
私は埃だらけの目白の顔を見た。
「ただいま。」と、目白宗一郎が白い歯を見せながら言う。
目白宗一郎の声を聞いたとたん、私は泣いていた。
大声で泣きながら目白宗一郎に抱きついた。
負ぶっていた百々乃も大声で泣き出した。
『私は何故泣いているのだろう…。』分からなかった。
私達三人はどれひとつとっても本当の家族ではない。
なのに、埃だらけで帰ってき目白宗一郎を愛おしく思った。
深く深く愛おしく思えた。
目白宗一郎は私の頭を撫でながら「大丈夫。大丈夫。」と、繰り返し言っていた。そして「これからさ。これからさ。」と、空を見上げながら言った。
* 目白宗一郎の変心
その夜、僕は初めて紗千を抱いた。
パラオで結婚して子供まで得ているのに紗千を抱いたのは今夜が初めてだった。
理由は分からない。否、本当は分かっている。これまでは、紗千や百々乃を見る度、不意にあの土岐田の影がチラつく事があった。
しかし今は、紗千と百々乃の寝顔を見ている事を幸福に思えた。
* 目白紗千の理解
奥多摩へ行った翌日、宗一郎さんは朝からオートバイで出て行った。そして、二時間程で戻ってきた。
オートバイの荷台には、今度は大きな紙袋が積まれていた。中身は小麦粉だった。
「GHQの払い下げ品を買ってきた。」と、宗一郎さんは言った。
そして、宗一郎さんは「昨日持って帰ってきた高菜とこの小麦粉でおやきを作って欲しい。」と、言う。
「おやき…?私の故郷の…?」私は不思議に思った。
「そうだよ。美味しいおやきを作るのに、まだ何か足りない物はあるかい?」と、宗一郎さんが言うので「胡桃やごま油が有ればより美味しくなる。」と、伝えた。
宗一郎さんは「分かった。」と答え「出来る限り早く用意する。」と、笑顔で言った。
「おやきなんて…いったいどうするの?」と、私が尋ねると、宗一郎さんは「学生達に売る。」と、言った。
私は、宗一郎さんのここ数日の行動が、一気に脳の中でつながった感覚を得た。
そして私は「分かったわ。」と、力強く答えた。
* 目白宗一郎の商売
材料が全て揃ったので、紗千は夜が明ける前からおやきの仕込みを始めた。
午前十一時頃には、自宅軒先に作った仮設の屋台におやきを並べることが出来た。
僕達の家は早稲田大学にほど近い。家の前の通りは、いつも早稲田の貧乏学生達が行きかっている。
家の前を行きかう貧乏学生たちは、食う物も食わず、飲む物も飲まず、ひと箱三円の煙草をしきりに燻らせている。そんな今の風潮と今の物価を鑑みて、おやきは一個一円で売り出すことにした。
ただし、「学生」と、言えば二個で一円にする。と、謳った。別に「学生」を証明するものなど必要ない。自己申告でよい。
はなから、二個一円で売っても利益が出るように計算している。「一個五十銭、二個一円。」では、あまりにも面白味がない。
「学生」と、宣言するだけで一個の価格で二個のおやきが手に入る…学生で無くとも…あくまで買い手の「得をした。」と、思う勘違いを利用させてもらう。
初日は試験的に百個を用意してみた。
紗千はおやきの調理を済ませた後は売り子になった。
決して愛想の良い方ではない紗千には売り子は荷が重いと思っていたが、百々乃の面倒をみながら、案外、器用にこなしていた。
最初の客が買うまでは時間がかかったが、売れ始めてしまうと次からは早かった。
「一個でも一円、二個でも一円。」と、いう面白さからか、初日の百個は昼過ぎには完売した。
それから少しずつ販売個数を増やしていった。
紗千の作るおやきは絶品の上、腹持ちも良かったので、早稲田の貧乏学生達の間では一気に口コミが広がった。
今では一日三百個が売れるようになった。一日当たり百五十円以上の売り上げである。
大卒公務員の初任給が五百円程の時代に、一日当たり百五十円以上の売り上げは大金である。
紗千は百々乃の面倒をみながら、日々、調理と販売を一人でこなしている。
おやきの販売が軌道に乗り出してからは、紗千は僕に材料の仕入の内容を指定する様になった。おやきの餡を変え客を飽きさせない工夫している。なかなかの商売上手だ。
しかしこれ以上、紗千に無理をさせるわけにはいかない。家族が体を壊す様な事があれば、本末転倒だ。
なので、おやきを販売するのは平日のみとした。
学生街の早稲田では流石に日曜日には学生はいない。
僕も三日間をおやきの材料の仕入に当て、残りの三日間を「共産主義者狩り」等の情報収集に当てた。メグロ号で23区内を走り回った。
そのかいあってか、不穏な話が耳に入った。
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