パラオ #01
パラオ 古都流ミラ
* 茶木紗千という女
1944年 昭和十九年 正月 パラオ コロール
いつものように天板の木目を目でなぞっていた。
「うっ…うっ…ん…うぅぅぅ…ぶはぁ…。」
やっと果てたか…。
「ふぅーふぅ…ふぅ…ふぅ…。なあ紗千…。」
「…。」重たい…。早くどいて…。
「ふぅ…ふぅ…ふぅ…。お前、見合いせいや。」
「えっ…!」何を言ってるの?こいつは…。
「わし、年内にでも移動になるんや。日本へや。」
「…。」
「そないなったら、お前とのこの関係もご破算やん。」
「…。」そう…良かった。やっとこいつとの縁が切れる…。
「そんなんお前も嫌やろ。」
「…。」
「せやさかい、わしの下で働いとる目白と一緒なれや。」
「…。」何で?
「奴も数年後には日本へ戻れるやろうし…ほしたら、また逢えるやろ…。」
「…。」
「なっ。ほないせい。また抱いたるさかい…。」
また、こいつの身勝手が始まった。
日本に奥さんがいるくせして、転地先で女に手を出す。
典型的なクズ男。利己的で欲深い。
権力だけで女を囲っている。
禿げ上がった頭、脂ぎって肉の垂れ下がった顔、異様な前歯の金歯、肥った体臭のきつい体…「醜い」とはこういうことを指すのだろう。
私は何事も信用できなくなり、ここに死地を求めてやって来た。
全てを断ち切るためにやって来た。全てを終わらせるためにやって来た。
十九年前、信州の片田舎の小作農家の六人兄姉の年の離れた恥かっき子として生を受けた。
私は、色黒で、身体も小さく、瘦せぽっちだった。そのせいか、年の離れた兄姉からは可愛がられる事もなかった。
私が尋常小学校に上がる頃には、兄姉達は「自分達の食い扶持を減らす疫病神。」と、私を虐めた。彼らは、私を自分達の不満を解消するための玩具の様に扱った。そしてそれは次第に、暴力へと変化していった。
小突くぐらいから殴るまで、日常的な兄姉からの暴力は、私から生きる気力を奪い取っていった。
普段、兄姉達は私のことなど気にもかけない。ただ、少しでも嫌なことがあると豹変し、陰で暴力を振るう。幼い私には、この様な兄姉達を信用出来なくなった。
そして、私は、成長とともに兄姉達のことを恨んでいった。私の陰鬱な精神は兄姉達を『殺してやりたい…。』と、まで思い始めた。
私は『ここに居てはいけない。ここ居たら何をしでかすか判らない…。』と、思い悩み、そして、何としてもこの地を出る事を決心した。
日本を含め、世界中がキナ臭くなっていた十五歳の夏、私は「お国のために役立ちたい。」と、父に大風呂敷を広げ「看護学校に行かせて欲しい。」と、懇願した。
母は大反対だったが、父は「お国のために…か。」と、許してくれた。
時代も私に味方してくれたのか、勅令で修業年限の短縮から二年六ヶ月で看護学校を卒業し看護婦となった。
一日でも早くこの地を出たい私は取り急ぎ救護員・看護婦の募集があったパラオへの勤務を希望した。そして、翌年早々に赴任することとなった。
母親はやはり大反対だったが、父親と周りの人達が「お国のために…。」と、諸手を上げて賛成した。おかげですんなりとこの地を出れた。
私にとっては、この地から出れさえすれば何処でもよかったのだ。
「分かったわ。目白さんという方と見合いする。」
どうでもよかった。
この醜男、土岐田との関係もどうでもよかった。
私がパラオで看護婦として働き始めた矢先、官庁街の移民局局長の『土岐田次郎』が挨拶にきた。
その男は、身長は六尺(約180センチ)を超え、体重も三十貫(約120キロ)はあろうかと思われる大男だった。
土岐田が「茶木はんの歓迎会をせんとな…。」と、うっすらと笑った表情で部下に命ずると、その晩に会はもたれた。
日本人街の小さな料亭で数人の歓迎会だった。
食事や歓談をしばらくしていると、私は極度の眠気に襲われた。
看護婦という仕事柄「何かもられた…。」と、思ったが、それもどうでもよかった。
気がつき目を覚ますと、私の横で巨漢の土岐田が鼾をかいて寝ていた。
私は服を脱がされ、女というにはみすぼらしい裸体を晒していた。
そんな貧相な身体の股間に痛みを感じた。「少女愛か…こいつ…。」
それでもどうでもよかった。
あの夜以降、私が全く何も言わない事を勘違いしてか、その後も土岐田は図々しく誘ってきた。
「夜這い」の様な行為は、故郷では日常的に起きる。いちいち気にしていられない。
土岐田は私を都合のいい女だと勘違いし性癖のはけ口として使った。金のかからない娼婦として…。
いわれのない暴力から逃れるために、何日も暗い船倉に押し込められる航海にも耐えた。
信ずるものも無く死地を求めきた私には、土岐田がどうであろうと、どうでもよかった。暴力さえ振るわれなければ…どうでもよかった。
このお互いの意志のズレがズルズルと虚しい関係を続ける結果となった。
「ほうか。そりゃあ何よりや。これでお前と切れんですんだわ。」
金歯を見せ破顔した土岐田の脂ぎった醜い顔が、喜びで赤くなっていた。
* 茶木紗千の結婚
1944年 昭和十九年 三月 コロール パラオ
私は土岐田に言われるがままに見合いした。そして、目白宗一郎という男と結婚した。私は「目白紗千」となった。
目白宗一郎は、私より五つ年上だった。七三に分けた長めの髪、青白い細面に黒縁メガネ。身長は六尺(約180センチ)程あるのに、体重は十五貫(約56キログラム)もない。
「文学青年」と、言う言葉がこれほどまでに似あう人はいない様に思えた。実際、目白宗一郎は読書家だった。
私は、目白宗一郎との結婚を境に勤めていた病院を辞めた。
それが土岐田からの命令だったからだ。
目白宗一郎は、真面目で無口で物静かな男だった。
新婚だというのに、目白宗一郎は、私の相手をするよりも読書を好む様な男だった。
目白宗一郎にとって私は、身の回りの世話をする家政婦が出来た様なものかもしれない。
ある面、私にとっても都合がいい結婚であった。
信ずるものも無く死地を求めているだけの私にとって、暴力さえ無ければ、どうでもいい男の世話など、患者の看護から比べれば他愛もない事だった。
土岐田はあえて、目白宗一郎を時間のかかる島回りに任命していた。
目白宗一郎の留守中に、私を抱いて己の性欲を満たした。
私にとっては、そんな不埒な結婚生活すらも、どうでもよかった。
1944年 昭和十九年 九月 コロール パラオ
土岐田の帰還の辞令が下り、その準備のために日本から妻が来ていた。
その間は、波も風も無く、目白宗一郎との日々は淡々と過ぎていた。
しかし、本当の荒波と大嵐が近づいていることを、誰もが分かっていなかった。
1944年9月、日本が始めた戦争が、パラオ諸島まで巻き込むこととなった。
パラオ諸島南西に位置する、ペリリュー島とアンガウル島が戦場となった。
コロールにいる日本の民間人も、命の危険を感じ始めていた。
私は、この戦闘が、忌まわしい私と私の過去を灰に帰して、この地を死地にしてくれることを願った。
しかし、残念ながら、私の願いは叶わなかった。
* 目白紗千の放心
1946年 昭和二十一年 一月 コロール パラオ
日本が戦争に負け全面降伏をしてから五ヶ月が過ぎた。
パラオ諸島コロールにいる大勢の日本人移民にも引き揚げの命令が下りた。
目白宗一郎と私は、引き揚げに備えて身の回りの品を最小限の荷物にまとめていた。その最中、移民局の使いが私達二人に「官庁へ来る様に」と、伝令を持って来た。
「日本への引き揚げ日時の告示か。」と、目白宗一郎と共に官庁庁舎へ出向くと、帰国受付所ではなく、立派な応接室へ通された。
応接間のソファーに腰掛け暫く待っていると、土岐田が醜い顔に汗を浮かせながら巨体を重そうに入ってきた。
その巨大な肉塊の後ろから真っ白なワンピースを着た華奢な背の高い現地人の少女が恐る恐る入ってきた。
少女の細く長い両腕には、小さな赤ん坊が大切そうに抱きかかえられていた。
土岐田は重い体をソファーに沈めた瞬間に話し始めた。
「悪いねぇ…こないに忙しい最中に、目白君、奥さん。まぁ…お茶でも飲んで…。」
私は、土岐田の金歯をひけらかす様な醜い愛想笑いに、心底気分が悪くなった。
「いえ。局長様こそ、ご多忙にもかかわらず、私どもに、どの様なご用件でしょうか?」と、目白宗一郎が返す。
「いやぁ…今日はねぇ…お二人にお願いがあってねぇ…。」と、土岐田の柄にもない平身低頭な姿勢に、私は嫌な予感がした。
『この態度は信用ならない…。こいつは性懲りもなくまた…どうでもいい様な願いに違いない…。』と、私は心の中で土岐田を罵った。
「どのようなご内容のご依頼なのでしょうか?」と、目白宗一郎は事務的な口調で聞き返しす。
「君らふたりももうじき引き揚げでっしゃろ…。」
「はい。左様でございます。」
「そこでひとつ、頼まれて欲しいんやけど…なぁ…。」私には、土岐田の含みのある言い方に話が全く見えなかった。
「はい。どの様な…?」目白宗一郎にも、土岐田の話はよく見えてないようだ。
土岐田は、落ち着かぬ様子で隣に座っている白いワンピースの少女の方に醜い顔を向けた。
「目白君、この娘、知っとるやろ?」土岐田は少女に顔を向けたまま、目白宗一郎に聞いてきた。
「はい。官庁内の雑務を引き受けている現地の娘さん…だったと思います。」
「そうそう。名前、クークーっうんや。」
本当に土岐田の言いたいことが全く分からない。
「はい…。それで…。」
「この娘な、やや子抱いとるやろ。三ヶ月程前にこれ産みよってなぁ…。」
「はい…。」
「ほんでもって、わしんとこも五月に、かいらしやや子産まれたやろ。」
全然、話が見えてこない…。
「はい…。おめでとうございます。」
「おおきに。おおきに。」
「…。」目白宗一郎も話が見えないのだろう、失言している。
「それでなぁ…クークーのやや子、父親無し子なんやわ。」
「はぁ…。」あまりの不明さに、目白宗一郎も相槌しか打てない。
「可哀想や思わん?」
「はぁ…。」
「クークーは日本の官庁でよう頑張ってくれたさかい、わしがやや子の面倒みてやろうと思たん…やけどな…。今さっきの話や…。」
「…えっ?」私の頭の中にも、目白宗一郎と同じ言葉が浮かんだ。
「わしんとこも、こないだ産まれたやろ。」土岐田の口調が少しきつくなった。
「はぁ…。」
「ほんで、目白君とこ…一緒なって二年なるけど…子供おらんやろ。」
「ええ…。」
「奥さん、お子さん出来にくいんかもしれんしなぁ…。」…何を言ってるんだ、こいつは。
「…。」目白宗一郎は無言を貫いている。
こいつにとっては思い出すことも無い出来事なのかもしれないが、私にとって生きている間、忘れることはない苦痛…。
…私は嘗て、こいつの子供を堕ろしている。
こいつとの関係が続けば続く程、私は避妊には細心の注意を払ってきた。
新しい生命など…死地を求めて来た私には絶対的に必要としないものだから…。
しかし、私は失敗した。こいつとの間に子供を妊娠してしまったのだ。
私は「一存では決められない。」と、思い土岐田に相談した。その時、こいつは「ええ医者紹介するよって…。」と、サラッと抜かしやがった。
私はこいつに相談した事を心底後悔した。
土岐田が紹介した現地人の医者はどう見ても信用ならなかった。しかし、日本人街で中絶などしようものなら噂はその日のうちに広まるだろう。
衆人環視に晒され、奇異の目で蔑まれ、暴力を伴ういじめに合うのはもうこりごりだった。
意を決してこの医者に託すしか私には道がなかった。
私は下腹部の激痛によって麻酔から目覚めた。そこはシミだらけのシーツが敷かれた硬いベッドの上だった。その激痛は膣からの出血を伴いながら三日三晩続いた。
その間、ずっと私は泣いていた。声を上げて泣いていた。激痛からの涙ではない。今思えば、何か言い知れぬ大切なものを失った事からの涙だったと思う。
その苦痛が過ぎ去った後、私に生理が訪れることは二度となかった…。
「どや!是非貰たってもらえんか?」
「…えっ?何を仰っているのでしょうか?」
「君らふたりの子供として、育てるっうことやがな。」
「…。」目白宗一郎の口からは何一つの言葉も出なかった。
こいつはまた、とんでもない事を言い出した。見ず知らずの少女が産んだ子供を養子にしろ…と。
こいつの子供を堕胎し生理の無くなった私に「他人の子供を育てろ。」なんて…鬼畜の所業としか言いようがない。
そんな馬鹿げた話があるものか…。投げやりに今迄の人生を送って来た私でさえ、流石に呆れ果てた。
「まぁ…急には答え出せんやろうけど…。」土岐田は前歯の金歯を見せながら、薄ら笑いを浮かべて続けた。「目白君…ええ返事待っとるで…。」と…。
「…承知しました。」目白宗一郎は力無く席を立った。
二日後、目白宗一郎は養子の話を承諾した。
私には、目白宗一郎が何を考えているのか分からない。
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