2021年 夏                 002   

車のヘッドライトが、真鍮の飾り金具があしらわれた無垢材の縦格子の門を浮かび上がらせた。その門を通り車寄せに車を停めてもらう。

練馬にある嘉葎雄の病院からは30分程で武蔵野台地に建つ屋敷へと戻れた。

この安山岩が野面積みされた青灰色の屋敷は、1945年からの財閥解体で売りに出されていたものを小鳥遊の祖父が買い取ったものである。


「会長、おかえりなさいませ。お食事になさいますか?」

ありがたい事に、鏡子が亡くなってからニュータカナシ本社秘書室の者達が交代で私の日々の面倒をみてくれている。

「ありがとう。食事は後にします。少し調べたいことがありますから。食事はダイニングホールに置いておいて下さい。」と、私は本日の屋敷担当の秘書にとても早口で返答していた。

「はい。承りました。」

「もう遅いので、それが終わったら君たちも上がって下さい。」

まるで邪魔者を排除するかの様に、秘書達にそう告げると、私はそそくさと薄いグレーを基調とした屋敷のエントランスホールに入った。

「先ずは、ライブラリへ…。」私は、帰りの車中で考えぬいた通りの行動を素早くとる。

ブルーグレーのカーペットの敷かれた中央階段を二階に上がり、右手一番奥の部屋。そこに先祖から受け継いだライブラリがある。

そこにあるオフホワイトの欅の扉を開けると、大量の乾いた紙と革表紙の匂いが吸い込む息に否応なしに混じる。

「さてと。遺伝…遺伝子…DNA…日本人と外国人の違い…。」私は嘉葎雄の話を思い出しつつ検索ワードを無意識に口に出していた。

(彼女に外国人の血…?) 私の頭の中の【声】が興味深々の不信感を表す。

(そんな馬鹿げた話、本当にあるの?) 私の頭の中の違う【声】が楽しげに疑問を放つ。

艶のある茶褐色のウォルナットの造り付けの書棚には、あらゆる分野あらゆる年代の書籍が適切な環境の元、丁寧に収められている。

私は書棚の医学書を手当たり次第に取り出し、赤褐色のマホガニーの椅子に腰掛け検索ワードを斜め読みしていった。

成長しいい大人になっても私の自閉は少しも変わらなかった。人と会話するぐらいならば本を読む事を好む。

調べ事ひとつ取っても、識者に聞くよりも、インターネットを使っての検索よりも、書籍を使って調べる方が楽しめた。

こんな私を生前の鏡子はよく

「伊知郎さんはわたしのお祖父ちゃんに似ているかも…。新婚当時から、お祖母ちゃんと話すより本ばかり読んでたんだって。お祖母ちゃんがよくこぼしてた。」と、話していたのを不意に思い出した。

言われる通り私も空いた時間があれば読書…何処に行っても読書…自分が楽になるために…鏡子をろくすっぽ構わなかった。

『そんな会話もしたなぁ…。』私は無意識に椅子と尻の間に手を差し込んだ。そして、尻に体重をかけていく、次第に先程までの興味津々な興奮状態の頭が冷めていく。

子供の頃、家庭教師に長時間怒られ、頭の中が暴走し思いの丈を洗いざらいぶちまけそうになった時、偶然、座らされていたソファーの隙間に手を差し込んだ事があった。

その時、手が何かの間に挟まっていると気持ちが落ち着くことに気付いた。興奮がおさまっていく。頭に昇った血が下がっていく。

それから頭の中で処理しきれない事が起きると何かの隙間に手を差し込む癖がついた。

その子供の頃に発見した癖が久しぶりに出た。とても久しぶりに興奮している自分を自覚した。

「遺伝子検査…。」「がんゲノム医療…。」「遺伝子疾患…生活習慣病…祖先などの民族的ルーツ…。」

あれこれと引っ張り出した医学書の一冊に探していた内容が該当した。

(これだ‼) 私の頭の中の【声】が明るく叫ぶ。私も叫びそうになる。

医学書にはこう書かれていた。「現代の遺伝子検査では、その人間の遺伝子から祖先の人種的ルーツまでつまびらかにできる。」と、いう事が…。

「今の日本人に純血の日本人を探し出すことは困難。多くの日本人が少なからず違う民族の遺伝子を受け継いでいる。」と…。

嘉葎雄から聞いた鏡子の件もその類の話しだと私は勝手に得心し、安堵し、がっかりし、そして、深くため息をついた。

(彼女の話も今じゃ、よくある話なのか…。) 私の頭の中の【声】がつまらなそうにこぼす。

(もっとミステリアスな展開を期待していたんだけどなぁ…。) 私の頭の中の違う【声】が残念そうに漏らす。

(早合点だね。) 私の頭の中の意地悪な【声】が私を諌めた。

確かに、出会った頃の鏡子は、目を見張る程に美しく、長い濡れ羽黒の髪、目鼻立ちがしっかりした小さな顔、色黒だが引き締まったスリムな体,高身長で手足も長く日本人離れしたプロポーションの持ち主だった。

鏡子が40歳を越えた頃には、少し肉付きが良くなり「グラマー」という表現がピッタリとなった。

性格は「明るい」の一言で言い表せた。

体格も性格も日本人離れしていると言えば日本人離れしていたのは確かである。

その日本人らしからぬ魅力は、何事にも無関心な私にさえ関心を抱かせた。

(やっぱり…少なからず、外国人の遺伝子が混じっていたせいなのかなぁ…) 私の頭の中の【声】が私の記憶を覗き見て勝手な想像を巡らす。

(しかし…彼女自身はそのことを知ってたのかなぁ…?) 私の頭の中の違う【声】が言い出す。

(君はなぜ知らなかったの?彼女に興味がなかったの?) 私の頭の中の【声】が私に問いかける。

(君は彼女の事を知ろうとしなかったの?) 私の頭の中の【声】が私に投げかける。

(君はなぜもっと彼女と話さなかったの?なぜもっと話を聞かなかったの?なぜもっと…?なぜ…?なぜ…?) 私の頭の中の【声】が矢継ぎ早に問う。

私の頭の中の【声】たちが私を責め立てる。

(彼女が亡くなってから、彼女の事を知ってもねぇ…。) 私の頭の中の【声】が私に駄目押しの駄目出しする。

この【声】の言葉は、鉛色した大きな重い後悔となって私を押しつぶした。

(今更、こんなところで君は何をしているの…?) 私の頭の中の【声】が呆れたように私に言った。

この【声】の言葉で、私は自分が何をしたいのか分からなくなった。

私はもはや【声】たちの言葉を冷静に受け止められなくなっていた。

緊張と後悔の汗で冷たくなった手を意識して椅子と尻の間に差し込んだ。手にかかる重さが重い気持ちを少しづつ軽くしていく。

少し冷めた頭で回顧する。

鏡子との結婚生活は優に30年を超えていた。だが、私は鏡子の事を何も知らない。知ろうとしなかった。

30年以上にも及ぶ私のその姿勢は、幼少期からの癖のせいではなく、単なる私の怠惰だという思いに苛まれた。

何時しか、私がこのライブラリで導き出した結論は「鏡子のルーツ…。」という調査の帰結ではなく「私は怠惰だ。」という自己嫌悪に変換されていた。


ライブラリで自己嫌悪に押しつぶされている最中「グゥ」と腹が鳴り我に戻った。

(情けない…空腹で懺悔もできないのか…君という人間は…。) 私の頭の中の【声】が私を蔑んだ。

私はそろりと赤褐色のマホガニーの椅子から立ち上がり、のろのろとした歩みでライブラリを去った。

一階に降り、緋色の絨毯が引き詰められたダイニングホールで秘書達が用意してくれた冷めて色彩を失った食事をそのまま流し込み空腹のみを誤魔化した。

空腹を満たしても自己嫌悪は治まらず、私は朦朧としたまま建坪400坪以上ある屋敷内を徘徊していた。

そのあげくの果にたどり着いたのは二階のファミリーエリアにある鏡子の部屋の扉の前だった。

屋敷内のどの部屋も共通のオフホワイトの欅の重厚な扉。その磨き上げられた黄金色に輝く真鍮製のノブに手をかける。

真鍮製のノブは軽く回り音もなくオフホワイトの欅の扉は開いていく。

すると、洋風な扉からは想像も出来ない異質な青々とした畳と鶯色の砂壁が目に飛び込んてくる。

そしてその部屋へ一歩踏み入ると、畳い草の独特な青い香りが部屋中に充満していた。

鏡子が亡くなってからはじめて入る鏡子の部屋。生前のままである。

何故だか鏡子は洋室を好まず、そのため結婚当初にファミリーエリアの一室を和風にリノベーションし鏡子に与えた。

私は軽い罪悪感を覚えつつ、主のない部屋へ進み入る。

ふた間続きの広い和室の隅っこに淡黄白色の木目の美しい栓の小さな文机が置かれている。その上には不似合いな時代遅れの真っ黒なノートパソコン…。

自分自身の死期を知っていたかの様に、部屋には物という物はそれ以外無かった。

私は歩を進め、部屋の奥にある押入れの黄はだ色の襖の引手に手をかける。

主の許可なく開けることに私は更なる罪悪感を覚えた。

黄はだ色の襖は音もなく滑るように開き押入れ全体をさらけ出す。

元々ウオークインクローゼットだった四間続きの押し入れにもほとんど物はなく鏡子の持ち物の少なさに今更ながらに驚かされる。

寝具、衣類、バッグ、シューズ、リネン類、化粧品と化粧道具一式…ざっと見てもそれぐらいしか見あたらない。

そしてそれらは並べ方、置き方に厳格なルールがあるかの様にきれいに整頓されていた。

(彼女らしいですね…。) 私の頭の中の【声】が感嘆する。

私との30年を越える結婚生活の間、鏡子はひとりでこの大きな屋敷の切り盛りをしていた。

炊事も洗濯も掃除も…決して家政婦を雇うことはなかった。

「徹底的に整理をして必要なものだけを整頓するの。」と、鏡子は笑顔で古ぼけた屋敷中を改革していった。

インテリアコーディネートのセンスも素晴らしく「温故知新」をモットーに古ぼけた内装をモダンインテリアに様変わりさせていった。

今日では、古く広大な屋敷のどの場所でも、清潔に心置きなくくつろぐ事が出来る。全ては、鏡子のお陰である。

(君はいったいここに何をしに来たの?) 私の頭の中の【声】が私に投げかける。

その投げかけに私は『鏡子のルーツを追いかけたいのか…鏡子との思い出を探したいのか…それとも…私はここで何をしようとしているのだろう…。』と、混乱することしか出来なかった。

そんな混乱状態の私は意味もなく鏡子の押入れの物を引っ張り出していた。元々持ち物が少なかったので全てを引っ張り出すのにもたいして時間は掛からなかった。

どれをとっても別段、鏡子のルーツにも思い出にも深く繋がる様な物は見あたらなかった。

ただ、ふと気になったのは、押入れの一番奥にきれいに積み上げられていた十数枚の写真立てであった。

知り合った頃から、鏡子は写真嫌いで、カメラを向けると逃げ惑うほどだった。

私自身、鏡子と一緒に写真を撮った記憶がない。結婚写真すら…だからこそ、写真立てを持っていることに少しばかりの驚きを隠せなかった。

それらの写真立ては、木製、プラスチック製、真鍮製、…と、鏡子にしては珍しく統一感が無かった。その点も気になった。

幾枚かの写真立てには鏡子の母方の実家が営んでいた不動産会社の写真が収められている。

焼けて色彩が薄くなった写真には、不動産会社の建物、不動産会社の近隣の町並み、不動産会社の従業員…等が、写っていた。

違う何枚かの写真立てには、鏡子の母親、鏡子の…たぶん、母方の祖父母と思われる…が写っている。祖父母と断定できないのは、実際に会ったことがないからである。

鏡子の父方の親族のことは、鏡子から詳しく聞いた覚えがない。母方の親族も私達が知り合った頃には、祖父は既に他界しており、あとは、入院中の祖母と療養中の母親と…叔父…がいたぐらいだったと記憶する。

その頃の家族写真は鏡子から見せられた覚えがある。

何故か『余り似てないなぁ…。』と、いう印象だけが今も残っている。

よくよく思い返すと、長らく鏡子との結婚生活を送ってきたが、今日まで、鏡子の親類縁者には会う機会に恵まれなかった。

その理由は、私達の結婚は残念なことに、私の母の猛反対から駆落ちを余儀なくされた。

その後、母の許しを得て結ばれはしたが、式を挙げることもなく、ただ籍を入れるだけのものとなった。

このような経緯から、互いの親族とも会う事もなく現在に至ってしまっている。

元来、人付き合い、親戚付き合いが苦手な私には、不幸中の幸いな結果ではあったが、今となっては後悔となる。

鏡子の祖父母と思われる…が写っている写真はセピア色の彼らが20代ぐらいのものであった。

不思議なことに、祖父母が一緒に写っている写真は一つもなかった。各々が写っている写真の背景も見覚えのある様なものではなかった。

(不思議だねぇ…。気になるねぇ…。) 私の頭の中の【声】が急に話し出した。

(なんか不自然じゃない…。) 私の頭の中の【声】が後押しする。

『私も確かに気になる…。』と、頭の中の彼らに応える。

その中でも特に、祖母と思われる写真が入っている見るからに古そうな木製の写真立てが気になった。

写真立ての中の写真は、セピア色の部屋の中で白だと思われる看護服を身に着けた小さな若い女性が写っている。

よくよく写真を見てみると、写っているセピア色の部屋は日本的な印象のしない内装だった。

木製の写真立ても大量生産の工業製品という感じではなく、手作りの工芸品ぽい物だった。

そして、写真立て木の材質は判明できない程に黒ずんでいる。

所々に虫食いの跡があり、所々に焼け焦げた様な跡もある。

写真立てをくまなく見て見ると、裏蓋を留めている釘が腐蝕して隙間が開いていた。

私は考えも無く隙間に指を差し込み、裏蓋を力まかせに引き剥がした。

するとハラリと畳の上に一枚の写真が落ちた。

少し緊張しつつ、私は落ちたその写真を拾い上げてみた。

そのセピアの写真には、立った国民服の小さな若い女性と椅子に座った白だと思われるワンピースを着た若い女性が写っていた。

国民服の女性は、鏡子の祖母と思われる女性であった。

ワンピースの女性は、肌の色が濃く、そして、長い黒髪に目鼻立ちのはっきりした顔をしている…。

…瞬間、私と私の頭の中の【声】たちは何かを感じ取った。


そして、写真の裏の片隅には色褪せた青いインクで《コロール 1944》と、書かれていた。

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