パラオ

明日出木琴堂

2021年 夏                 001   

『…息苦しい。』

その凶暴な程に真っ白な部屋に入った瞬間、私の頭の中に浮かんだ第一声である。

真っ白な部屋には、耳障りな規則正しいリズムを刻む精密機器と威圧的な純白の装束をまとった人間達が配置されていた。

ギラギラした金色の陽光も、けたたましい電子音の様な蝉の鳴き声も、この部屋には届かない。

この部屋だけが全てを拒絶しているかの様に特別な冷たい時間が流れていく。

部屋の中央には小さなベットが置かれている。そこに瘦せ細った高身長の鏡子の身体が窮屈そうに収められていた。

鏡子の身体には、いたるところにチューブや電極が取付けられており、その姿はさながら、蜘蛛の巣に囚われた蜻蛉の様に見えた。

その様が、この部屋をより一層、おどろおどろしいものに思わせる。

ここに入ってから私の眼球は落ち着くことなく、部屋のあちこちに焦点を動かしている。でも、決して鏡子に焦点を持っていくことはない。


『私はいつも通りだ…。』と、頭の中でつぶやく。私の頭はどんどん冷めていく。

私は耐え難いことに出くわすと、全てをシャットアウトし殻に閉じこもる。幼少期からの癖だ。

30年以上の時間を共にしてきた鏡子が今、この世を去ろうとしているこの場においても、わたしの癖はなんら変わらなかった。

鏡子の死という現実を目の当たりにしても変わることがなかった私に、他人事の様に傍観している私に、私自身、心底嫌気がさした。


「ピィー」と、真っ白な部屋に弱弱しいがそこにいる全ての者に解らせるには充分な音が響いた。

その瞬間、私の眼球は、無意識のうちに真っ白な部屋の染みひとつない真っ白な天井を虚ろに見ていた。体に意味のない緊張が走る…。


(見てられないね…。) 私の頭の中の【声】が憐れんだ。


嘉葎雄が色黒の顔を近づけ、持ち前の二重の大きな眼を更に大きく見開いて私に何か言っている。

「…小鳥遊…。」「小鳥遊…。」「小鳥遊…。」

「…あっ…ああ…。」言葉が出ない。血が下がる。

私は意味のない緊張の解放からか、ひょろ長い脚を折り、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。

今の今まで、私の眼下にあったものたちに見降ろされるという情けない姿をさらすことになってしまった。

「大丈夫か?小鳥遊。鏡子さん、残念だけど…たった今、天に召されたよ…。お悔やみ申し上げます…。」と、嘉葎雄は私のだらりと棒の様に下げた腕を取り、引き起こしながら言った。

「…ああ。…うん。」私は、何を返せば…。

全然、違うことばかり考えている…。

私は、強引に鏡子の事を考えてみた。…何も思い浮かばない。何の感情も湧かない。

涙の一粒も出ない。鏡子の死に際しても私の頭の中は、私の意志とは関係なく全く違うことを考えようとする。

私の幼少期の経験が、人間に関心を持ってない歪な性格を育んだ。でも、この歪な性格が私を守ってくれるのだと自分自身に戒めてきた。

だが、こんな私に関心を持たせた数少ない人間の一人である鏡子、その彼女のこの期に及んでも、悲しむ感情すら持ち合わせない自分を流石に、不気味に、気味悪く思ってしまう。

帰らぬ人となった鏡子のことよりも、自分の欠陥ばかりに思いをめぐらし、そして、それに酔っている自己中の自分自身に反吐が出る思いがした。


(君はいつも通りじゃないか…心配ないよ。) 私の頭の中の【声】が慰めようとする。

『そうだね、私は、いつも通り…これが私だ。心配ない。』と、無意識に私の頭の中の【声】に答えていた。

私の頭の中には、昔のアニメーションにあった様な《天使と悪魔》みたいなものが存在している。

彼らは、私の幼少期から今日までずっと一緒だ。

私の周りの人間がこんな話を聞いたら「還暦にもなるいい大人が馬鹿げてる。」と、思うだろう。しかし、彼ら無しでは、私は生きてこれなかっただろう。


(早く大人の対応をしなよ。) 私の頭の中の【声】が私を急かす。

『そうだね…。しっかりとしないとね…。嘉葎雄に返す言葉が見当たらない…。頭の中が混線している…。何処か隙間…隙間…気持ち悪い…。吐きそうだ…。』と、私は私の頭の中の【声】に弱音を漏らした。

「…。嘉葎雄…ありがとう…。最期までありがとう…。」と、鏡子の主治医である嘉葎雄にどうにか形だけの礼を伝え、私は足早に真っ白な部屋を出た。


醜態をさらしたあの日から2週間後の夕刻、私は嘉葎雄の勤める病院にお礼を兼ねて再訪した。

敷地内の来客用駐車場に車を着けてもらう。「都留丘さん。長くなるようなら連絡します。」と、ここまで運転してくれた秘書室室長に告げ病院に入った。


「どうぞ。入ってもらってくれ。」と、内線のスピーカーから嘉葎雄の声が響く。

受付にいた看護師の一人が、私を嘉葎雄の部屋へと案内してくれた。

新型コロナウイルスの影響からか院内の扉は全て自動的に開くようにリノベーションされていた。

嘉葎雄の部屋の扉さえも自動的に開き、壁も調度品も真っ白な部屋へ通された。

彼はまだこの時間でも仕事中のようで、折り目のついたシミひとつない白衣のまま私を迎えた。

長身で色黒の肌におろしたての白衣がよく似合っている。

「少しは落ち着いたかい?小鳥遊。」

「ありがとう。だいぶ落ち着いたよ。先日は情けない姿をさらしてしまい申し訳なかったね。」

「最愛の人を亡くしているんだ、誰だっておかしくなるもんさ。それに、長い付き合いの俺達じゃないか、今更そんなこと気にするなよ。」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ。ありがとう。」

「鏡子さんの葬儀、済ませたのか?」

「ああ。コロナの件があるから、私と社員数人で済ませたよ。連絡もせずに悪かったね。鏡子には最後の最後まで何もしてやれなかったよ。」

「この状況じゃしょうがないさ。鏡子さんもそう思っているよ。気にするな。」

同い年で唯一の幼馴染との何気ない会話は、私のここ数日の何とも言えない重々しい気分を軽くしてくれた。


「ところで小鳥遊…。」

「ん…何だい?」

「鏡子さんの祖父母に当たる人に海外の方はいるかい?」

「えっ?鏡子の…聞いたことがないなぁ…。何故だい?」私は嘉葎雄の突拍子のない質問に言葉を詰まらせた。

「そうか…。鏡子さんの病理検査の結果に外国人特有の結果があったんだよ。」

「えっ?そうなのかい。」嘉葎雄の話に私は純粋に驚いた。

「その結果からだと…二世代前に海外の血縁者がいたと推測できるんだよなぁ…。」

「ん…。確か…鏡子の父方の祖父母は地方で農業…。母方の祖父母は都内で不動産業…。どちらも外国人とは聞いたことないな…。」と、私はほぼ無いに等しい鏡子の家系の記憶を無理矢理に思い起こしてみた。


「それって…その検査ってミスる事はないのかい?」

「その可能性は考えにくいんだよなぁ…。」

嘉葎雄との会話は、時間の経過とともに興味となって私の好奇心をくすぐり始めた。

私は、冷え切った私の心の中に沸き立つ感情を覚えた。


私は父とも母とも似ていない。成長すればするほどそれは顕著になった。そのせいか両親から愛された記憶がない。

父方の祖父は一代で財を成し、父はそれを受け継ぎ、持ち前の辣腕で繫栄させた。

戦後の混乱から自社の繫栄に尽力した父、小鳥遊士郎はそのせいでか晩婚であった。

大企業を率いる父には、婚姻も事業計画の一つに過ぎなかったのだろう。

私の母となる、小鳥遊栄子は、かつて、父の腹心の部下の一人娘であった。

父は、裏切る心配がないかつての腹心の部下の30歳以上も年下の少女を躊躇無く嫁とった。

そのかいもあってか、母は嫁ぐと直ぐに身ごもり跡取り息子となる私を産んだ。

父の他界後、まだ若い母は、女の細腕手で父の遺した大企業を更に巨大にした。

母の奮闘中、私は色々の人の手によって、巨大企業を率いるに相応しい跡継ぎとなるためだけの教育を施されてきた。

そこには愛情のかけらなど無く、有るものといえば私を託された大人達の下心見え見えの欲望だけであった。

そんな環境下で育てられてきた幼少期の私の心は、周りの大人達の欲望や失望や期待や重圧から段々と青白く冷たく固く歪になっていった。

その結果私は、言葉少なく、感情に乏しく、人の気持の分からない、人間に関心を抱かない子供となっていった。

この時点で、私の成長に夢描いていた大人達は、私が大企業を率いる事の出来る器を持ち合わせていないということに気づいたはずだ。

期待外れの対象となった私に対し、欲で近づいた大人達は蜘蛛の子を散らすように消え失せていった。私の周りは急に静かになった。

期待外れの子供など、誰も助けてくれることも無く、守ってくれることも無い。ただ、私には孤独だが何ものにも代えがたい平穏が訪れた。

こうして私の歪んだ心根は、期待外れの子供であることを演じ続けてさえいれば、周りの大人達に干渉されることが無いことに気が付いた。そして、私はこれを貫くことに決めた。

しかし、私が置かれている立場は、その程度の事では期待外れの子供に甘んじることも、誰かに甘えることも、私を甘やかすことも許しはしなかった。

貫くといってもまだまだ子供…。自分自身で決めた方法によって壊れそうになる私の幼い心…。

その為か、いつしか私は、演じることだけではなく、逃げ隠れすることも覚えていた。

幸運な事に私の住まう屋鋪は広く、子供が身を隠すには最適だった。

特に、屋敷内にあるライブラリを拠り所として入り浸ることが多かった。

初めは何の気なしにひんやりと薄暗いこの部屋にじっとしているだけだった。古い革表紙の匂いが好きだった。古い乾いた紙の匂いが好きだった。

その空間で深呼吸すると不思議と落ち着けた。それから、私は徐々に本を手にするようになった。そして、ライブラリにある子供でも読める本を読むようになった。

不思議なことに、様々な本に夢中になっている間だけは、自身の歪んだ心も、醜い大人達の欲望も直視しなくてすむ楽しい時間となっていた。私はどんどん本の世界に逃げ込んでいった。

そんな日々を送る中、私は、私の頭の中で好き勝手に色々な本について話している【声】に気付いた。

私の頭の中の【声】は、年齢も、性別も、容姿も、人数さえも明確ではなかったが、私にとってそんなことはどうでもよかった。

私はその会話に聞き入った。そして、ある時は賛同し、ある時は反対し…そんなことを繰り返しているうちに私は聞き手からその輪の中心になっていた。

いつの間にか、私は、私の頭の中の【声】とだけ心許す自閉した子供になっていた。

それからは、家庭教師に怒られている時であろうと、面倒みてくれるお手伝いさんといる時であろうと、学校で授業を受けている時であろうと…私は私の頭の中の【声】たちと全く関係ないことを語らっていた。

興味のあることにだけしか心開かぬ、心動かさぬ少年になっていた。


そんな秘められた私の心の奥底に仕舞い込んでいた幼少期の心情を嘉葎雄の話は激しく揺り動かし目覚めさせた。

60歳の私の心は、自分の世界だけで過ごしてきた幼少期の心に戻っていた。

(彼女の祖先に外国人がいた…。2世代前に…。彼女はクオーター…。本当に…?) 私の頭の中の【声】が勝手に問答を始めている。

(なんか面白いことが隠れてそうだね。) 私の頭の中の【声】が興奮気味に囃し立てる。

私も居ても立っても居られなくなり、嘉葎雄からの食事の誘いも断り、足早に大きな車の黒い革のシートに長い体を転がり込ませた。

そして「取り急ぎ屋敷に戻って下さい。」と、都留丘秘書室室長に告げ車を出させた。

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