容れ替わり

金平糖

1

地上12階まであるビルの屋上のフェンスにしがみついて、伊織は声を殺して泣いていた。

あの方法もこの方法も失敗以前の問題で、怖くて踏み切れなかった。

そしてこの飛び降りも今、やはり自分には無理なのだと悟った。

頼むから生から逃げる方法を教えてくれ。

これからの人生が薔薇色で幸せな物であってもいいから私はとにかくいのちを終わらせたかった。

自分より辛い人はいるかもしれない。でもそんなの言い出したらきりがない。

脳みその幸福物質の分泌量が人より少なく生まれた。

ただそれだけのことなのかもしれない。

だけど伊織は生まれて何年間も孤独で、それに悪い意味で慣れ腐り、幸せを感じることもない日々の繰り返しに嫌気がさしていた。

いちばん長い付き合いである自分の感情の起伏に配慮するため、ODや酒、タバコに逃げるのは慎んだ。その後倍の苦しみを味わうのは自分自身で、誰も助けてなどくれないからだ。

それから自分の毎日の行動を逐一記録し、どういった行動がいわゆる精神の安定を、揺るがすかも分析した。

大体がSNSからのネガティブな内容、入浴不足、空腹、…そんなところだった。

それでも予測不能の不安や絶望感に襲われる夜を何日もただ一人で耐えてきた。

現実が原因なのではない。私は不幸などではない。

脳内物質の違いただ一つなのだと言い訳する事で、何とか正気を保って1日1日を乗り切るのだ。

だけどもう、安西伊織という一つの個体の、感情に振り回されるのが疲れた。

魂は今すぐにでもこの肉体、脳を捨てて舞い上がりたがっていた。

そういう夢ばかり見ていた。


やがて伊織は死のうとすることすら諦めて、ゾンビのように毎日を眺めていた。

自分の人生なのに、まるで車窓からの景色のようだった。

それでも肉体をもつものの宿命として、自分という容れ物に食べ物を調達して与え、入浴等で体を清潔に保ち、部屋の掃除、仕事、コミュニケーション…それも、一度やったら終わる物ではない。

元気な時に数日分をまとめて終わらせ溜めておけるものでもない。

毎日毎日、捨てられない自分という名のペットの世話をしなければならないのだ。

無責任に途中で捨てるような人間がペットを飼うべきではない。

だから私は最初から飼うなんて選択肢は取らない。しかしこの容れ物は元々他人から押し付けられたもので、選んで飼ったわけではない。


何もかもを放棄したい気分だった。

生きることも死ぬこともできず、助けを求める相手もいない時、伊織は伊織に助けを求める事にした。

分裂して、苦しみを分け合えばいいのだ。

極力分量を抑えて飲んでいる睡眠薬を飲んだ時だけに現れるポジティブな伊織は伊織の憧れだった。

伊織は彼女を紗織と名付けて悩み相談をした。

紗織は伊織とは違い前向きで社交的で、伊織が落ち込んだ時はいつも解決策を提示してくれたし、ある時は伊織の気持ちに寄り添って頭を撫でてくれた。

しかしそれが妄想だという自覚はあり、伊織を完全に癒す事はなかった。


そんなある日、伊織はポートフォリオを作成するためだけにわざわざ購入したプリンターで、ふと手を押し付けてスキャンしてみた。

それが思いの外美しく絵になった。

栄養失調ぎみで悲壮感の漂う細い手はすらりと指が長く、唯一伊織の中でお気に入りのパーツだった。

それを気に入った伊織は、部屋に飾ってある絵と取り替えてみた。

伊織は恍惚とした表情でそれを眺めた。

美しい。

そっとその手を重ね合わせた。

この手を重ねる事で伊織は紗織と入れ替わる事ができる。

辛い時はこの手を重ねることにしよう。

伊織は少し微笑んで、改めてすうっとその表面を撫でた。


翌18時、伊織の精神が揺るぎ出した時、泣きながらその手に縋った。

重ね合わせた瞬間に伊織は壁に吸い込まれ、反対側へ行ってしまった。

吸い込まれた先は夜行列車だった。

タタン、タタンと揺れる箱の中、車窓からはさっきまでいた自分の部屋が見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

容れ替わり 金平糖 @konpe1tou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ