第2話 錯綜
小鳩は夜遅くの仕事帰り、コンビニによって栄養ドリンクを一本買い、その場で飲み干した。平日にしては珍しく、シフト時間の全てを予約客が埋めた金曜日。身心共に疲弊しきった身体で駅に向かう。
お店から駅に向かうまでの十五分が何より嫌いだった。一人、二人、視界に入るのはマスクを鼻筋まで掛け、前髪を下ろして目元を隠す同業者。小鳩の後ろから一人の女が通り過ぎる。マスク越しにも解る、ここらのドラッグストアでまとめ買いすると安価になる、無臭と呼ぶには薬品臭が鼻につくボディソープ。私はこの人種と同類なんだと自覚させられる。せり上がる吐き気を飲み込んで、無駄だと言い聞かせた。
ジャカジャカジャカジャカ、ジャッジャッ、ジャカジャカジャカジャカ。
やけに耳に響く歌詞だった。
「ねえ、いつまでそうやっているの」
小鳩は足を止め、気が付けば彼女の前に立ち、口を開いていた。彼女の手が止まると同時に小鳩をねめつける。片目が隠れるほど長い黒髪が、首を傾げたことによりあらわになる。碧く、深い黒色だった。
ジャカジャカジャカジャカ、ジャッジャッ、ジャカジャカジャカジャカ。
振り上げた拳をそのまま振り下ろし、アンプから演奏の始まりを告げる轟音が響く。小鳩は一瞬驚いたように身体を震わせ、頭に血が上った。
「ちょっと、止めてって!」
握られていたピックを奪った。しかし彼女は止まらない。その細い指で、先ほどまでと変わらない音を奏でていく。小鳩は思わず右腕を掴みにかかった。ようやく演奏が止まる。
「何、あんた誰。」
「誰だっていいでしょ。そんなことより答えて、あなたはいつまでそうしているつもり。」
「…二、三曲やったら帰るつもり」
「そういう意味じゃない、いつまでそうして遊んで、ふらついて、好きなことしているつもりかって聞いてんの」
彼女は心底意味が分からないといった表情でこちらを見上げた。そのどこか見透かすような瞳が気に入らなかった。自然、握りしめる拳に力が入る。父に握りしめられた時の記憶が脳裏をよぎる。途端、手が震えだした。
彼女が手を払うと、いとも簡単に振りほどけた。そして小鳩の胸ぐらを掴んで引き寄せた。目と鼻の距離にまで近づくと、比例して鼓動も早くなった。本当に触れてしまうのでは、と本能で目を閉じ、逃げた。
「あんた、そこの風俗嬢だろ。あいつらから臭う、鼻をつっつく不快な臭いがする。」
心臓が跳ねた。首筋から正面に向き直ると、再びねめつける視線が小鳩を襲う。小鳩は必死に身体を抱いて震えを堪えた。
「だから、なに、あなたに関係があるの。」
「ないよ、関係ない。あなたがどこで、どんな仕事をしていようが興味ない。あなたが私の演奏を聞くのも問題ない。あなたが誰を嫌悪しようが私にどうこうする権利はない。ただ」
彼女は小鳩からピックをぶんどり、小鳩の心臓に押し当てた。
「私の音を止めるなら、殺す。」
ピックの角が深く沈み込む。もしこれがナイフなら、彼女は寸でのところで止めただろうか。考えただけで恐ろしかった。それほどまでに、蒼黒く光る瞳からは闇夜を纏った殺意が込められている。小鳩は立ち上がり、身を抱くように上着を握りしめ、距離を取った。
「なんだよ、なんなんだよ…。どうして、そんな、意味わかんない。」
その日、彼女は本当に残り三曲を歌いきってからその場を後にした。小鳩が立ち尽くす間、ただひたすらに、その音を掻き鳴らして。
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