第四章 神域(8)
「私、昔あなたに、会ったことがあるんですよ」
背後に一歩を踏んで、いたずらっぽく、口元に指を立てて。
「
ああ、それでいいんだって、気付けたんです」
そっか、そうだったんですね、と。
呟く白い少女は、もはや、怨嗟に苛まれる様子はなく。
「弥生さん、やけにこの人のこと買ってるなと思ったら、同じだったんですね?」
うぐ、とそっぽを向く黒い少女、弥生に、向日葵は困惑するばかり。
そんなことが、あるものかと。
「あーあ、ズルいなあ。もっと早く、私もやっておけばよかったのかな」
「そんなことしなくても、俺はずっと、京香のこと信頼してるよ」
「ふふっ。ありがとうございます、弥生さん」
白い少女、京香は心底嬉しそうに。
「向日葵さん。あなたはもう、二人は救ったんですよ?」
そんなことを、言って。
「あなたが壊してくれたから。私たちは、救うことを選べるんです」
笑って。
「だからこれは、恩返しです。あなたが、あなたの大切に想う人と。
白雪さんと、せめて幸せでいられる未来を、願わせてください」
全ての人々の幸福ではなく。
ただ一人と共に在れる、幸福を。
彼女たちにとって、これ以上無い、祝福の言葉だった。
そうだ。二人は止まらない。止まることなどできない。何よりも救いたかったものを、救ってしまったから。もうどうしようもないほどに、救われている。
「どうか、お幸せに。
誰かの願いを、代わりに叶えようとする、優しい『
向日葵の手で、救われた。
その幸福を、世界へ返すために。
二人の浮かべる、悲しい笑顔に、向日葵ができることは、もう無い。
だから。
「工房師を救いたい、って言ったよな。それ、一人だけで妥協できないか」
別の理由が必要だ。
向日葵が、京香と弥生の願いを壊せる、理由が。
何を、と。問いかける二人に構わず、向日葵は続ける。
「白雪は工房師だ」
目を見開く二人に、苦笑する。
そうだよな。驚きだよな、と。
「崩天霊災で、魔力が使えるようになったんだ。白雪は、お前たちが救ったんだよ。アイツに、魔術を与えてくれた。魔獣化も霊体化もさせることなく、人のままで」
京香と弥生は固まったまま。
信じられない。そんなことがあるはずが無いと、首を振る。
「だから、お相子だ。俺はお前らを救ったのかもしれないけど、お前らは俺の大切な人を救ってくれた。ならさ、俺がお前らの願いを壊したって、いいよな」
「やめ――」
止めなかった。
「霊術起動、『
京香と弥生の身体が折れる。膝から崩れ落ちる。地に手を突いて項垂れる。
「おま、え」
「やっぱり認めない。お前らが望む世界に、お前らの幸福が無い。目の前に不幸が転がるなら俺が壊す。その一点で、今は、お前らの願いを受け入れるわけにはいかない」
動いた。まだ残っていた。久しく忘れていた他者から奪うという感覚。やっぱり嫌いだ、こんな願いなら壊れてしまえと思うが、今は都合よく利用させてもらう。
二人は動かない。もはや声すら上げることができないほどに引っこ抜いた。このままでは死ぬだろう。けれど、何故だろう。そうしない方法を、知っている気がした。
だから。
「また、馬鹿騒ぎしながらさ。色んなこと、話してみようぜ」
二人を包み込んでいく、何か、見覚えのある光の中で。
「皆が幸せになれる方法、とかさ」
再会を、約束した。
光が収まり。男、白黒の獣耳は、嘆息する。
二人の姿は、既にそこには無かった。残っているのは、巨大な魔術陣が一つだけ。ただ知識として、共和国の代表官邸地下に送られたのだと理解した。納得はしない。
「お前は一体、何がしたかったんだ」
崩天霊災の元凶。アメノミハシラの核。神域に広がる霊界。悪意の中枢。
『
「アイツらは、確かに、世界を救おうとしてたっつーのに」
あるいは、今からでも間に合うかもしれない。二つの鍵は今、己の内にあり、ゆえに頭上高くそびえる光の柱は健在。この膨大な霊力の塊を使えば。
「いや、下らねえな」
鼻を鳴らして口元を歪める。こんなもの、早く折ってしまえばいい。誰かの真摯な願いを、都合良く歪めて利用するクソの柱なぞ、さっさと。
さて、ではどうやったら壊せるのかしらと、頭に手を当てたら正気に戻った。
オレは、何をしているんだろう。
身体を抱き締める。得も言われぬ悪寒に腰を折る。背中から丸ごと闇に呑まれたような恐怖に全力で抗う。オレ、オレは、消えていく。否、すでに消えている。どこにもない。あるのは自分ではない自分だけ。混濁する。オレは誰だ、どれだ、どれがオレの。
違う。そうじゃない。
白雪。名前を呼んだ。この世の何よりも、誰よりも愛しい人の名前を。呼ぶ。
それでも、それでも。
喉奥からぶちまけた吐瀉の中に、幾本かの、青い髪を見つけて。
「お前は、白雪だ。――俺は、向日葵だ」
思い出せた。まだ残っていた。白雪の名前も、顔も声も全て覚えている。だから大丈夫だ。白雪を忘れないでいる限り、それだけで、向日葵は、向日葵で居られる。
休んでいる場合ではないと立ち上がった。まだ、やるべきことが、あったはずだ。振り返り歩き出す。降り続ける雪モドキの中を、全てを終わらせる場所へ。
その瞬間。
向日葵の背を、飛来した赤の剣が貫いた。
衝撃に、向日葵はぼんやりと自分の身体を見下ろした。胸のど真ん中から紅蓮の刃が生えている。もろに心臓を貫いている。文句無し即死の致命傷。喉の奥から込み上げてきた血反吐を雪原にぶちまける。胸から迸る血は瞬く間に致死量を超えた。
さて、こんな酷い事をするのは誰だろう。――シュバルツ・ミルフィオーレ。答えは勝手に流れ込んできた。向日葵は浮かぶままの思考を垂れ流しつつ、背中の柄を握り込む。一思いに剣を抜き取り、鮮血を惜しむことなく撒き散らし、刃を地面へと突き立てる。
胸の穴はすぐに埋まった。後には血の一滴も流れない。赤く染まった雪からは光が浮かび上がり、漂白されて元に戻る。どうでもいいと顔を上げ、振り向く。
「今ので死んでたら話にならねえが、それはそれとしてドン引きだなア」
赤の剣を担いだシュバルツが、呆れた顔をしている。
それは向日葵も同様のこと。
「こっちのセリフだよ。不意打ちとか、英雄様がやることかねソレ」
殺されようが死にはしない、英雄と魔獣はただ二人。
「「バケモノめ」」
互いに剣を振りかざしたことにも、それ以上の言葉は必要無かった。
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