第四章 神域(7)

「もう、やめてください」


 敵の声に、馬鹿正直に止まってしまったのは、それが泣き叫ぶような響きを持っていたからだろうか。目の前の黒も、奥の白も、全身に傷を揺らめかせながら立っている。戦意は欠片も緩むことなく向日葵を睨む。泣いてなど居なかった。


「もう、やめろよ。お前」


 けれども今にも泣きだしそうな、紅と蒼の瞳の中で。


 向日葵が、泣いていた。


 泣きながら、進んでいた。


「やめねえよ」


 みっともないと思ったから、笑った。


 涙を流し続けるまま、屈託なく。


「俺はまだ、何も救えてない」


 光を影を纏ったまま、剣を下ろし、空を仰ぐ。


 地獄の底に降り注ぐ雪。空を覆い尽くす黒い雲。天地を貫く神の柱。


「お前らさ。俺たちと一緒に馬鹿騒ぎしてた時の方が、よほど楽しそうに見えた」


 勝手な言い分だ。人は作り笑いで、笑顔で他人を傷つけられる。


 身をもって、知っているというのに。


 けれど。


「初めて、だったんじゃないかって思うんだ。他人と、下らない馬鹿共と、しょうもないことで大騒ぎして、遠慮ない言葉を、ぶつけ合えるのって」


 白と黒が、目を見開いた。息を呑む。


 だから、なんだ。


 その、つまり。


「知らないんだよ。俺もお前らも、何も。何が幸福で、何が不幸で」


 世界が、どうあればいいのか。


 つい五年前に生まれたバケモノと、地獄しか知らない少女たちには、分からない。


「不幸はいくらでも転がってる。今の俺には、不幸を喰い尽くすことしかできない」


 だから。


 ええと。


「――一緒に、世界救ってみないか」


 とりあえず、笑ってみた。


 涙は、止まっていた。


「俺、こんなんだからさ。性根が腐ってても、感情ひん曲がってても、本音がどうあれ、全ての幸福を願えるお前らのこと、めっちゃ好きなんだよ」


 はて。


 俺は一体、何を言っているのだろう。


「お前らが、必要なんだ」


 白と黒の顔が絶句する。


 なんか、ヤバいこと言っている気がするが。


 まあ、いいや。言った傍から消えて行くし、全部吐き出してしまおう。


「それでさ。もしも、この願いが、いつか。間違ってたって分かったなら」


 その時は。


「きっと、どっちかの願いが、正しかったって分かると思うんだ」


 全ての幸福を作るのか。


 全ての不幸を壊すのか。


「それを知れるのが、お前らで。一緒に居てくれたら、いいなって思う」


 ゆっくりと。手を差し伸べた。


 黒く染まり切った、穢れた手。殺し喰らい、奪うことしかできない手。


 救いたかったものを、何一つとして、救えなかった手は。


「嫌です」

「嫌だ」


 微塵の躊躇もなく叩き落とされた。


 崩れ落ちる。身体はとっくに折れていても心だけは折れるものかと、必死で繋ぎ止めていたナニカが折れる。受け身すらも取らずに、常に前のめりで居ようとした気持ちさえも裏目に出て、顔面から地面に激突した。


「な、何故」

「いや絶対自分で何言ってるのか分かってないですよね。文脈めちゃくちゃだし」

「普通に気持ち悪いぞお前。自覚あると思うが敢えて言うけど何様のつもりだよ」

「ごぼっ、ごぼぼぼぼぼぼ……っ!」


 口から出ちゃいけないナニカを吐き出しながら、身体を起こそうと足掻く。剣を突き立てる右手が震える。腰が膝がガクガクと揺れる。今にも死にそうな有り様にて、決して折れない剣に縋りつきながら立ち上がる。馬鹿には過ぎた立派な杖である。


 もはや不要な呼吸を荒げながら、前を、どうにか見据えれば。


 白と黒、二人の少女は、呆れた顔で苦笑していた。


「私は、あなたが嫌いです」


 白の少女は、己の胸に、右手を置く。


「苦しみも悲しみも抱え込んだまま、作り笑いを浮かべられる、あなたのような人が」


 何もかもを覆い尽くすような穏やかさで、


「どこかの誰かに似ていて、大嫌いです」


 微笑む。


 向日葵へと歩み寄る、その瞳に、映っているのは、誰なのか。


 黒の少女が、言葉を作る。


「誰もが救われたいと泣き叫んでた。自分で選んだ不幸のクセに下らねえ。でもな、作り物でも笑ってたんだよ。自分のためでも、他人を傷つけても」


 そんな笑顔が、大嫌いだった。


 だから。


「救いたいと思うのは、間違いですか?」


 向日葵の手を取り、悲しい笑顔を、白の少女は浮かべる。


(あなたが、誰かを、殺しても。何もかも、壊してるのを、見てもね)


 脳裏に響く、誰かの声。


 優しくて、暖かくて。


(あなたには、生きて欲しいって、思えたんだよ)


 下らない願いに殺された、愛しい少女の笑顔。


「ああ、やっと、思い出しました」


 白い少女は、ハッとしたように目を見開いて、くすりと笑う。


「私、昔あなたに、会ったことがあるんですよ」











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