第四章 神域(6)
「私と弥生さんは、人間種です」
手の平を添えた獣耳が、光に解けて消えた。ローブを捲ってみせた尾も、同様に。
口を薄く開けたまま固まる向日葵へ、なおも京香は続ける。
「霊体になった時、勝手に生えたんですよ。ねえコレ、何だと思います?」
「魔獣化、か。お前ら、まさか」
「ええ、そうです。私たちは、魔獣化の先で、霊体になったんです」
ならば、二人の目的とは。
「工房師に、救ってやる価値なんてありません。皆、望んで不幸の底に居ますから。救われることなんて、誰も望んでいません。だったら私は、工房師も魔術師も、その他の全ても、まとめて救おうと思います」
向日葵は、吐き気を催す、奥歯を噛む。
「私たちは、全ての人類を。霊体へ、連れて行きます」
工房師、だけではない。
魔術師も、英雄も、魔獣も。
一切の分け隔てなく、全て。
「生きるだの死ぬだの、力が有るだの無いだの。そんな下らないことに囚われなくて済む。それこそが、魔力の、魔術の、霊力の、霊術の。目指した場所だと思いませんか」
人の身を超えた、領域へと。
それが、京香と弥生が、望む。
「『誰もが幸せでいられる世界』ですよ」
向日葵は静かに、唇を噛む。色々なモノが砕けて壊れた頭では、理解が及ばない。否、壊れていなくても同じだったかもしれない。判断基準が無さすぎる。喉の奥で胃液が荒れ狂う。生理的な嫌悪による反射か。もう大概まともな人の身体ではないクセに不思議なものだ。――そうだ。この身体こそが、二人の望む、全ての幸福の形。
ならば一つだけ、聞かなければならないことがあった。
「お前らは。救われたのか」
京香は、頷く。
「私は、弥生さんを救えましたから」
この地獄の底で、無力に虐げられるばかりだった妹を。
「……俺は、京香を救えた」
力を持ちながら、何一つ救えなかった姉を。
共に手を取り合い、何もかもを壊し尽くし。生も死も存在しない、人を超えた世界で、二人きり。やっと、全ての苦しみから、救うことができた。
「そうか。なら、良かった」
向日葵は、笑った。力無く、されど、どこか清々しい、屈託のない笑みを浮かべて立ち上がる。両の瞳を穏やかに細めて、京香と、弥生へ。
「なら、殺していいよな」
沈黙。硬直。
言葉を失った京香へ微塵の容赦もなく、刹那に千回は命を消し飛ばして余りある影が殺到し、ただ一人、反応できた弥生が割り込み相殺した。
「京香!」
「あ、えっと、え?」
何故が三つ。向日葵の笑顔。向日葵の言葉。予知めいて反応した弥生。
否。もう一つ。
「それは、これから願いを叶えようって奴のツラじゃねえよ」
険しい面持ちで、眉間にしわを寄せる。
京香と弥生の顔が映る、向日葵の、瞳。
右が蒼。左が紅。
「欠片も幸せに見えない。だから今度は容赦しない。全部、映し取る」
髪が伸びていく。弥生と同じ黒鉄色と長さだったソレが腰のあたりまで、緩くウェーブを作っていく。全体の半分ほどが、白銀色に染まり、混ざり合う。
「分かってるじゃねえか。この願いの先に、お前らの幸福は無いって」
光と、影が、足元から立ち昇り、混ざり合う。広がり揺らめく銀鉄の長髪、その頂点で、右の猫耳が歪んで、黒い先端を垂らした。白の、犬耳。
「いや、そうだな。こんな力使わないでも、俺じゃなくても、誰でも分かるか。馬鹿な人類が、こんなしょうもない力を得た結果が、どうなるかなんて」
崩天戦争。連盟共産英雄主義。
既に世界は、これ以上なく、馬鹿を見ている。
「だから読むべきはここじゃない。もっと深く。もっと、もっと」
心を覗き込まれる嫌悪に、身震いする京香と、牙を剥く弥生。二人など露ほども気に留めず、向日葵は潜り続ける。バキバキと音を立てて、自分が崩れていく恐怖に構わず。
「結局、人が人の域を超えた先で、世界が救われようが滅びようがどうでもいいと思ってる。あるいは、自分の成したことに絶望して、清々しく終わろうと思ってる」
笑みを深める。
なんだ。どこかで聞いた話だったな、と。
「世界が滅びるなら。この世全ての悪意を、自分たちで抱え込んで、死んでいく」
やっと手に入れた、今ある幸福さえ。
手放そうとしている。
「殺さなきゃな」
今度は遅れることなく、同時に身構える京香と弥生へ。
澄み渡る蒼穹と、燃え盛る深紅の、瞳を向ける。
「霊術起動。『剣聖』。『創天』。『破天』」
一歩を踏んだ。それだけで壊れた。肉体か精神かは定かでなく、ただ定めた己の在り様の前では些細な事。紅蓮の剣に創造の光と破壊の影を纏わせ突撃する。
「俺には、何も救えない」
敵が撃ち出す光の刃を剣戟にて斬り落とした己自身に驚いた。理由は分からない。一拍遅れて突き込まれる影の拳と脚と切り結ぶ。剣も身体も欠片とて欠けることなく、ただ愚直に斬り進む。合間合間に差し込む光芒も片手間に叩き落す。
「この世全ての幸福を作ることも。目の前の子供一人に、手を差し伸べることさえ」
呼吸を必要としていなかった。紙一重に死が嵐となり吹き荒ぶ極限の戦場において呑気な長セリフがつらつらと出てくる。出て行った傍から消えて行くようであった。
「俺にできるのは、殺すことだけだ」
目の前の、黒い方の敵の顔が歪んだ。優勢だろうか。このまま押し込む。
「もうこれ以上、苦しまなくて済むように。
壊して、殺して。全ての恨みを、抱えて行くことだけだ」
なあ。
「お前らは今、もう、救われてるんだよな」
奥の、白い敵が歯噛みする。苦痛を堪えるようだった。斬っても無いのに不思議。
「自分よりも大切な、たった一人を救って、救われたんだよな」
ようやく思い出した。そうだ。それは自分にできなかったこと。全てを殺して壊して喰い尽くして。なのに、たった一人、愛する者さえ救えなかった。
二人はもう、それを叶えている。
だったら。
これ以上、不幸になる前に。
「殺しても、構わねえよな……ッ!」
斬り続ける。斬り進み続ける。一刀一歩とて手は抜かない。向日葵は止まらない。止まることなどしない。己の全ては、ただ『誰もが幸せでいられる世界』を作るために。
誰しもの幸福を作るのではなく。
誰しもの不幸を壊すために。
「安心しろよ。お前らが、どんなバケモノだろうが」
それ以上のバケモノが、ここに居る。
「俺が、助けてやる」
バケモノだから、できることがある。
「俺が、殺してやる」
微塵の容赦も躊躇もなく。
ただありったけの慈悲をもって。
目の前にある不幸を、喰らい尽くす。
「もう、やめてください!」
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