第三章 共和国(2)

『オイ。マジで何も覚えてないのか、お前』

「綺麗さっぱり消えてて逆に楽しいな、コレ。頭が軽い」

『お前実は余裕あるな?』


 テヘペロ、と頭をコツンする赤の女に、黒の獣はギリィッと牙を剥き出す。後に、全てを諦めたような、あるいはどうでもよくなったような特大の溜め息をついて、


『ああ、クソ。こんな馬鹿相手に、俺は何してんだ』


 告げたその身体が、萎んだ。


 女が目を見開く前で、獣の揺らめく影が縮小していく。頭が縮み、四肢が細り、あれだけ巨大だった身体が、解けるように消え去って。


「お前――」


 最後に、人が残った。


 黒鉄くろがね色の髪を、肩甲骨ほどまで伸ばした少女だ。人間なら十代半ばほどに見える。クセっ気の強い前髪に、燃える深紅の瞳。吊り上がった目尻が、女へ向けて不機嫌に細められる。白のノースリーブインナーに、羽織った黒の外套を肩出しに着崩している。左手を腰に当てれば、雑に締められた長い白帯が足元で揺れた。


 尻尾のようだ、と思えなかったのは、尻尾があったからだ。先端だけが白い、影を纏うような細い黒の曲線が、腰から伸びている。頭の上では、同じく先端が白い三角形の獣耳を、女へ向けて鋭く尖らせていた。


「猫、獣人か?」

「そう見えるよな」


 ハッ、と毒づく少女は、一応礼儀だとばかりに女を睨む。


弥生やよい・フィーネ・アルカディアーナだ。弥生でいい。姉がいる」

「ああ、俺は、ええっとお……」

「『馬鹿』でいいだろ」

「ああ、それでいいぞ!」

「一瞬でも躊躇えよ……!」


 黒い少女、弥生へ、赤の女、改め馬鹿は笑顔に親指立てて快諾する。何故だろう呼ばれ慣れている気がしたのだ。妙に親近感がある。もしかしたら記憶を取り戻すきっかけになるかもしれないと、馬鹿は目を眇める弥生の姿に、ふと思い立つ。


「そもそも弥生、俺と知り合いなんだろ? なんか知らないん?」

「知り合いとすら思われたくねえな……。ああ、そういや確か」


 名前、名乗ってたなと。


 弥生は腕を組んで、思い出すべく空を仰ぎ。


「……今をときめく、二十歳の乙女」

「ええ? なんだって?」

「そこしか覚えてねえんだよふざけんな馬鹿!」

「それはさすがに逆切れじゃねえか!?」

「正当な抗議だこんのクソ馬鹿があああああ!」


 馬鹿の襟首を掴み上げガクガクと揺さぶる弥生の脳裏に蘇ったのは、やたらに良い笑顔とすげえ体幹と研ぎ澄まされた無駄な動きで死ぬほどムカつくキメポーズを完璧にキメる馬鹿の姿ばかりだった。思い出すだけで脳の血管が引き千切れそうであった。


「――今をときめく、二十歳の乙女ですっ!?」

「てめえ実は記憶残ってんだろおおおおッ!?」

「違う、違うんだよ身体が勝手に! 俺コレで身を立ててたと思うんだ! 多分アイドルか何か、きっとたくさんのファンが俺の帰りを待って」

「待ってねえから今すぐそのポーズ止めやがれえええッ!」


 ひとしきりぎゃあぎゃあと騒ぎ、二人は腰を折ってゼヒゼヒと、肩で息してようやく止まる。ちなみにさらに五回ほど同じポーズを試したが何も思い出さなかった。間違いなく、この世で最も無駄な時間だった。


「なあ、もうコレ、お互いに馬鹿だったってことで、引き分けにしないか」

「何の勝負か知らねえが同感だ。こんな馬鹿に付き合った俺が馬鹿だった……」


 死闘は痛み分けにて終焉を告げ、後には傷跡ばかりが残る。


 自らのために戦い続けた、悲しき末路であった。


「ところで何の話だっけ?」

「だから……ああ、クソ。何の話だった……?」

「俺、なんか仲間が増えたみたいで心強いよ」

「一緒にすんじゃねえよ殺すぞ! だから話が進まねえんだよ!」


 本当に何も進んでなかった。一歩たりともだ。


「そもそもお前、魔術師だろ。WODは起動しねえのか」

「ああ、さっき試したんだけどロック掛かっててな。開けられん……」

「使えねえ……」


 顔を抑える弥生に、馬鹿は己の胸元に光る魔力結晶を見下ろしながら、とても申し訳ない気持ちになる。まあそれはそれと気持ちを切り替え、弥生には切り替えの速さを睨まれつつ、辺りを見渡す。往来のド真ん中、二人で大声上げて騒いでもなお、振り返るどころか視線すら向けない人の波。異常は明白であり、しかし打開策など持っていない。


 唯一、あるとすれば。


「お前だけが頼りだ。頼むぞ、弥生」

「お前が一番邪魔してくれてんだがな……!」


 ギッ、と睨み上げる弥生へ、まあまあと手を振る。


「それでここは、工房、って言ったか?」

「ああ。二つの意味で、な」


 ふむ。頷き脳裏に、工房、という言葉を転がす。


「魔術主義における劣等者。魔力を出力できない工房師の保護施設にして、救済を目的とした研究施設。もとい、隔離施設。イジメ部屋。悪意の吹き溜まり」

「言葉選べよ馬鹿」


 そういう弥生に、否定の言葉は無い。知識は正しく吐き出せていると、勝手に納得する。次に思い浮かべるのは、先の弥生の言葉だ。


「ここは工房。二つの意味で。工房は五年前、崩天霊災の爆心地として吹き飛んだ。今は廃墟の神域だ。人がいるどころか、そもそも街があることすらおかしいわな」


 街であったのは違いない。工房は、設計思想の根底に魔術師と工房師の共存を置く。試行事例に過ぎないとはいえ、それ一つが魔力技術による独立都市として機能するようにできている。しかし、今ここに存在していることは、在り得ない。


 だが弥生は、確かに工房といった。二つの意味で、と。


 すなわち。


「実座標は、神域。だが今見ているのは、霊界が生んだ過去の幻影か」

「馬鹿のクセに、冴えてるじゃねえか」


 フン、と鼻を鳴らす弥生へ、苦笑する。


「馬鹿だからじゃないか? 相当馬鹿げた話だろ、コレ」

「ああ、そうかもな」


 かつての工房を見渡す弥生に倣って、街並みを眺める。整備の行き届いた道路。行き交う人々の笑顔。だが、何故だろうか。全てが作り物めいていると、そう思えた。


「お前と、剣聖を止める時に、霊災を起こした」











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