第二章 英雄たち(1)
鬱蒼とした巨大樹の森を、
赤髪を肩甲骨ほどまで伸ばした人間種、二十歳前後の女だ。額に張り付いた前髪から汗が滴り、やや目つきの悪い黒目をさらに眇める。黒のインナードレスに、羽織る緋色の外套はどこまでも暑苦しく、目の前に広がる緑色はどこまでも鬱陶しい。顔を拭う厚手の手袋も、木の根を踏み割る厚底のブーツも、汗を吸って纏わりつく。腰のベルトに吊った四つのポーチが、背負った登山用のバックパックが、やたらに重く圧し掛かる。
焼き払ってやろうかと切に思った。伐採など生温い。互いに寄り掛かり伸び上がる巨木を、真昼の陽光さえも完全に遮る枝葉を、絶えず響き渡るセミの鳴き声を、何かにつけて頬に引っかかるクソの茂みを、纏めて燃してやればどれほど心地良いことだろうか。例え火の手に巻かれようが、この湿気きった蒸し暑さより余程マシだ。黒煙が昇れば後に降るのは何の間違いもなく恵みの雨である。最高ではないか。
ならば躊躇などないと背負い物を落とし、右手袋を脱ぎ捨てる。拳を木の幹に叩きつければ、見目に反して随分と軽く乾いた音。やはり密度も栄養も水分も足りていないらしい。大災害が生んだ歪みに今だけは感謝しつつ、恨むならば世界を恨め、もはや獣にすら見放された憐れな大自然に救済を、幹に突いた手の平へありったけの魔力を込め、
「術式起――」
「やめなさい馬鹿」
後頭部に衝撃を受け鼻から大樹に突っ込んだ。顔を抑えて崩れ落ちゴロゴロと転がり回る向日葵へ、デコピンを叩き込んだ女、空野
長い青髪を頭の後ろで一本にまとめた、同じ年頃の人間種だ。毛先が背中の半ばで気怠く揺れ、人の好さそうな丸い黒目も今はうんざりと細められている。白のブラウスに黒のコルセットスカート、藍色の外套に空色のケープまで被せた装いは、向日葵以上に暑苦しい。指先から肘前を覆う白手袋は汗と土に汚れ、スニーカーは紐さえ土草や種子がへばりついている。両腰に吊った二つのポーチと、肩掛けにしたボストンバッグを緩め、少しでも涼しい風を取り込もうと身体を左右に揺らしていた。
ひとしきりのた打ち回り、木の根元に腰を据えて鼻をさする向日葵へ、白雪は右手を差し出す。素直に手を取る向日葵を立ち上がらせ、額一つ分低い頭を傾げた。
「落ち着いた?」
「大丈夫大丈夫。放火ダメ、絶対」
「全く。しっかりしなさいよね」
左手で鼻を抑え、右手で親指を立てる向日葵へ、白雪は腰に手を当てて息を吐く。
半目にした丸い瞳をさらに眇め、窘めるように眉を立て、
「――魔力だけじゃ非効率でしょ。燃やすならちゃんと油を撒いてから最小限で」
「おい待て白雪、やめろ
「離しなさい向日葵! これは熱量の塊よつまり実質魔力……!」
「人体経由しなきゃただの糖分だろうが!」
据わった目でフラフラと、バッグから取り出した大量の超高熱量ゼリー飲料をぶちまけようとする白雪を向日葵は羽交い絞めにする。しばしわちゃわちゃと、暑さに脳を破壊されたポンコツ二人は騒いだ後、息を荒げながら、少し開けた一角に並んで座り込む。
「落ち着いたか?」
「大丈夫大丈夫。放火ダメ、絶対」
「マジ頼むぞ。白雪が狂ったら本気で詰む。俺はともかく」
無言でヒラヒラと右手を振る白雪へ、向日葵は肩を落とす。見下ろした己の身体、インナーの胸元を引っ張り、多少は涼めやしないかと足掻いてみるが、ひたすら重く湿った空気が肌に纏わりつくだけで、気休めにもなりはしない。
「まさか、空冷機能まで止まるとはなあ」
「霊力……、この高霊圧の影響ね。ある意味、目的地は近いってことよ」
「コレもう全裸のがマシじゃね?」
「天然の鉄条網でズタボロになりたいならどうぞ。フード脱げただけマシでしょうが」
「棘刺さった頬が一瞬で腫れたのはビビったわあ。やっぱ燃やした方が良くないか」
「気化した毒に燻されてお陀仏よ。案外楽に死ねるかもね?」
露骨に顔を歪める向日葵を尻目に、白雪はボストンバッグからステンレス製の水筒を取り出す。蓋を開け二度三度と呷り、向日葵へ押し付けるように手渡した。ありがたく受け取り、少しずつ口に含んで喉を慣らしながら飲み込む。その傍ら、白雪の手元では方位磁石がグルグルと縦横無尽に踊っていらっしゃった。とても愉快な有様である。
「GPSは?」
「打ち上げれば、短時間なら使えると思う。でも、ねえ」
白雪が見上げる先、ぽっかりと奇跡的に口を開けた枝葉の隙間には、薄く尾を引く飛行雲が伸びていた。耳を澄ませば、遠く、空を切るような高音が響いている。
「あんまり、郵便屋を刺激したくないからねえ」
「クソ、名ばかりの空飛ぶ制空権共め。ロクに空輸もしないクセによ……」
「そりゃ航空制圧が主業務だもの。海路も死んでるから笑い止まらないでしょ」
「もしかしてこの世界、詰んでる?」
何を今さら、と白雪は方位磁石をバッグに突っ込み、代わりに『25MCAL』を取り出した。蓋を開けて口に咥え、ぐびぐびと飲み干していく様を、向日葵が微妙な目で見つめる。視線に気づいた白雪は、さらにもう一本バッグから取り出し、
「要る?」
「要ります」
差し出されたソレを向日葵は流れるように受け取り、飲み干す。成人五日分の熱量、一般的なエナドリとビールの、二倍のカフェインおよびアルコールの混合物。魔術世界が生んだ人類悪の結晶、通称甘ゲロを二人仲良く飲み干し、甘ったるい息を吐く。
「なんで、ちょっと暑いのもマシになるのかしらね」
「過剰糖分とカフェインとアルコールの混合効果について、論文が必要だな」
「そうね。この素晴らしき発明品をもっと称えるべきなのよ」
うんうんと頷きつつ、しれっと二本目に伸ばされた白雪の手を向日葵は掴んで止めた。
「まだ飲めるわ」
「ダメです。魔力の大量消費が無いなら一日一本までです」
「こんなに愛しているのに……?」
「愛が一方通行なのは悲しいな……。白雪酔ってる?」
「酔ってないわ」
酔っぱらいの常套句を吐きつつ、名残惜しい手を引っ込めた白雪は、一枚の仮想ディスプレイを展開する。表示されたのはこの一帯の地形を想定した地図であるが、
「郵便屋の空路封鎖もだけど、この木に阻まれてことごとく迂回させられてるのが一番厄介なのよね。そろそろ現在地の把握も危ういわ」
「跳ぶか? 郵便屋に撃ち落とされない程度に」
「目算、五十メートルは飛ばなきゃだけど、大丈夫?」
「うむ、気絶する自信しかねえな」
「アンタ、その変に繊細なのは何なのよ」
「高いところって、本能的にダメで……。白雪が抱っこしてくれたら何とか」
「よしソレ採用」
「えっ」
――――――――――
【AIイラスト】
・空野向日葵
https://kakuyomu.jp/users/hisekirei/news/16817330658959395583
・空野白雪
https://kakuyomu.jp/users/hisekirei/news/16817330658961356090
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