第一章 願い(7)
驚愕と、激痛に男の顔が歪む。硬直はほんの一瞬にて立ち直り、振り払う右腕の大剣は獣の尾を浅く斬るに留まる。獣は久しい巨狼の身体にて地を踏み締め、咥えた男の左腕を数度噛み砕き、一息に飲み込んだ。
獣の縦に裂けた赤の瞳が、男の疲れたような黒目と交わる。左肩から噴き出す血液もそのままに、男は右腕一本で大剣を持ち上げ、切っ先を向ける。獣は両の目を細め、前傾姿勢に毛を逆立てる身体の内、ありったけの魔力を滾らせ、
『霊術起動』
唱えれば、獣の全身が血を噴き出し、弾けた。
崩れ落ちる。身体を内から、肉も骨も内臓もズタズタに引き裂いて噴出した力の奔流に、痛みさえ感じる間もなく地に沈む。嫌に生暖かくぬかるんだ雪の上、横たわる四肢には力も入らず、虚ろな視線を持ち上げれば、男は既に剣先を下ろしていた。
「干渉したか。そりゃそうだ、霊術二つ抱え込んで、身体が持つわけねえ」
そういう霊術でもなければな。そうこぼす男の言葉を、しかし獣は何一つ理解できない。ただ一つ、確信したのは、背後に迫る死の気配。熱を失う肉体、魂が抜けていくような精神。よく知っていた。少なくとも過去に二度、獣は死の淵に立っている。
それでも。
『これで』
ああ? と。
怪訝な声を上げる男へ、それでも。
『これで、いい』
獣は、笑っていた。
そうだ。これでいい。やっと、終わりにできる。何もかも壊して殺して、全て。思っていたよりも、間抜けな最期だっただけだ。後悔など、思い残すことなどありはしない。獣の瞳の裏、とっくに消え失せた地図の中に、それでも確かに、最後まで残っていた。
この地獄の底で、たった一つの。
青い光が、あるならば。
「よく、分からねえ奴だな」
呟く男が、片腕で剣を振り上げる。少しずつ霞んでいく視界に、獣は薄く瞼を落とす。
どこまでも無意味だった。救われる価値など、ありはしなかった。
そんな、ただの獣に。己にできることが、あるとすれば。
「まあ、中々良い根性してたぜ。お前」
せめて、彼女が。
最期に思い描く、悲しい笑顔が。
「――もう。人は殺しちゃダメだって、言ったでしょう?」
目の前にあった。
肉と骨を、容赦なく断ち割る音。人の命が、引き裂かれる音。力を失った身体が、地に沈む音。何度も聞いた、聞き飽きたはずの音が、どれ一つとして、現実味を帯びない。
『あぁ――』
己の声さえ、分からなかった。情けなく震える、初めて聞く声。あまりにも弱々しくかすれているのに、脳を強かに揺さぶって、思考の全てが霧散していく。
頭が役立たずと成り果てたから、代わりに身体が動いた。力無く伸び切った四肢を引きずり、生温かい液体の中を這っていく。自分とは違う、別の温度が交わる、その先へ。
「ごめん、ね」
血溜まりの中で、少女は変わらず笑っていた。ぎこちなく、全てを諦めたような歪んだ笑顔。暗い青の瞳は悲しみに沈んで、それでも、涙は浮かべていなかった。左肩から右脇腹まで、辛うじて両断されていないだけの身体には、もうそれだけの機能さえ、残っていないのかもしれない。
「私、全然、救えなかった。何も、できな、かった。誰もの、幸せなんて、叶わなくて。誰も、望んでなくて。私が、生きるだけの。ただの、言い訳でしか、なかったけど」
それでも。
「あなただけは、救えたんだよ。おかしい、かな。あなたが、誰かを、殺しても。何もかも、壊してるのを、見てもね」
それでもね。
「あなたには、生きて欲しいって、思えたんだよ」
『馬鹿野郎が……ッ!』
いつも通りの声が出ることに、獣は安堵する。
ゆえに続く言葉に、躊躇いなど無い。
『大馬鹿野郎が! なんで、お前は。俺は!』
「ふふっ。やっぱり、そっちの、話し方のほうが、可愛いよ?」
『何言ってんだお前は……ッ!』
少女の右手が、獣の頬に添えられる。
傷だらけの手の平が、愛おしむように撫でられ。
「だい、あ、ううん。コレは、ダメ。あい、は、もっとダメだ……」
うーん、と。場違いに、気の抜けた声音で。
何か思い悩むように、眉根を寄せて。
「幸せに、なってね?」
それだけを、笑顔と共に遺して。
手は、赤い血の中へと、沈んだ。
『ふざけんじゃねえぞ!』
獣は吠える。
牙を剥き出し、今にも噛み殺さんとする勢いで男を睨み上げる。
『オイ、テメエ、コイツを救え。できるだろ、できるんだろ、バケモノめ』
「馬鹿。無茶言ってんじゃねえよ。こちとらお前のために残りカスまで絞り尽くしたんだ。今生きてるのだって奇跡みてえなもんだ、もう煙も出ねえよ。そのガキと大差ねえ」
『なら俺を使え。魔力は命だろ、今ならまだ』
「今にも死にそうな顔で何言ってんだお前」
獣は奥歯を噛む。噛み砕かんばかりに力を込め、
『クソ。クソがふざけんな。何なんだよ、何なんだよこの世界は』
喉を、息を震わせ、叫ぶ。
『たった一人だ。たった一人だぞ。こんなクソみたいな地獄の底で、コイツだけだ。コイツだけが誰かを救おうとした。誰一人傷つけなかった、誰でも救おうとした。それなのになんで、コイツが救われない』
叶わない理想を抱いたからか。
叶わないと分かって、求め続けたからか。
『所詮は、自分が生きるだけの、救われたいだけの、言い訳で』
偽物だから、救われてはいけないのか。
偽物だから、救えないのか。
差し伸べることさえできない、己の手。黒く染まり切った、穢れた手。殺し喰らい、奪うことしかできない手を、獣は握り締め。
「なら、願ってみるか?」
男の声に、顔を上げた。
「本気で救いたいなら、願うといい。お前の内を通して、世界へ。お前がお前を救うために、他人を喰い殺して生き延びるために、その『力』を得たように」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます