第一章 願い(6)
火の粉が散り逝く桜のように舞い上がり、炎が燃え盛る。
かつて工房と呼ばれたもの、降り積もる雪を焼き尽くし、黒い柱となった煙が幾本も、明けることのない空を覆い尽くす。
それは、狩りですらない。追手と獲物の駆け引きなど、微塵も介在する余地が無い。
ただ一方的で、圧倒的な、虐殺だった。
「クソッ! 逃げろ! 逃げろ逃げろ!」
「どこへ逃げろってんだ! どこもかしこも、とっくに炎に巻かれて」
「いやだ死にたくない、死にたくない……ッ!」
叫び逃げ惑う人。あるいは獣。
それらへ一切の躊躇もなく、叩きつけられる大樹の如き尾。
地面のシミと化した赤の色を、念入りに擦り潰す、巨大に過ぎる獣。
否。もはやソレは、神話の蛇とも呼ぶべき威容だった。二十階建てのビルに迫る頭角。鎌首をもたげる龍に酷似した顎。そのやや下方から伸びる二本の腕。鱗に覆われうねる身体を、僅かに覆う黒い体毛だけが、かつての面影を感じさせる。
獣が、蛇がわずかに身じろぎすれば、長大な尾が地表を薙ぎ払い全てを更地へと変えていく。人も獣も炎に包まれる瓦礫もただ等しく、平らにしていく。
実に効率的だった。結局のところ、これが一番簡単だったと蛇は確信する。牙を爪を振るう必要もなければ二本の脚で立つ意味さえない。力を抜いて身を横たえ、気ままに転がるだけで何もかもが潰れていく。塵へと砕けて消えて無くなっていく。
それでも遠く、頭も尾も届かない場所に居る者。蛇の、六つとなった瞳の裏に、投影される地図上にはいくつかの黄と赤の点が蠢いている。この暴威から逃れようと、共食いしながら逃げていくバケモノとケダモノの群れ。事ここに至っては憐れにすら思えない、どこまでも醜いだけの畜生の群れへ、蛇は目を凝らし、
(術式起動)
脳裏にて唱えれば、廃墟の一角が爆散した。火炎と衝撃と轟音が暴れ狂い、人も獣も廃墟もまとめて吹き飛ばす。砕けた後に残る黄と赤は、そこまで這って行って擦り潰す。
実に、実に効率的だった。工夫を凝らす必要もなく、発火の術式へ蓄えに蓄えた埒外の魔力を流し込み叩きつけてやれば大抵のものは弾け飛ぶ。他にもやり様などいくらでもあるが、蛇はただ己の趣味嗜好として炎を行使した。気分が良いではないか。全てを焼き尽くして消えていく。後には何も残らない。それに、見飽きた白と黒ばかりの世界を、鮮やかに照らし出す赤の色はとても美しく思えた。
あの日から、三ヶ月。蛇は壊しに壊し尽くした。殺しに殺し尽くした。腹が裂けるほどに喰い散らかした。この世界を、本当の地獄に染め上げて。命を喰らい命を削り、何もかもを焼き尽くして。遠く、僅かに残っていた黄も赤も、炎に巻かれて消えていく。二度と動くことのない、黒へと変わっていく。
それで、最後だった。
蛇の瞳が映す全てに、動くものは残っていない。
この地獄にあった、何もかもが。
一つ残らず。
「――おうい」
真下。
明らかに、己へ向けられた声に、蛇は視線を下げる。
人の形をした何かが手を振っていたので、すぐさま拳で叩き潰した。
落差五十メートルに迫る一撃。巨大な半身を全て載せた重量に地表は砕け岩盤までもが爆散し、威力が熱と変換され赤く溶け落ちる破壊の中では、血の一滴も残らない。
はずだった。
「あー。まあさすがに、言葉なんか通じんわなあ」
眼前。
身一つにて宙を舞う男。
黒髪に白髪混じりの、冴えない老年手前の中年。側頭から背後へ伸びる二角を持つ偉丈夫は、薄手の白い半袖シャツに黒のカーゴパンツを履く。まるで似合わない黒コートの肩には、無骨に過ぎる大剣を両腕で担ぎ上げて、
「いよっと」
ただ一閃にて、蛇の半顔を斬り裂いた。
刹那に奪われた左半分の視界には構わず、蛇は男へ尻尾を叩きつける。迫る超重をしかし男は片足で軽く蹴り上げ、威力に逆らうことなく後方へ吹き飛び逃れる。中空にて身体を回し姿勢を制御、両足に膝をつき雪原を滑って制動すれば、傷の一つさえない。
蛇は見た。男の背後、嗅ぎ慣れない空気を運ぶ風を。
内と外とを隔てる、不可視の壁に開けられた、亀裂と大穴を。
『――オオオ』
吠える。
この地獄の全てを震わせ。
外に広がる世界の裏側まで轟くように。
「お宅、もしかして笑ってる?」
耳を抑える左顔をしかめ、もう半分の右で苦笑するという器用な表情を作る男へ、蛇はかっぴらいた大口から渾身のブレスをぶちまけた。余波を受けただけの、触れてすらいない地表すらハツる威力。星の裏側まで貫かんとする極死の光に、男は眉根を寄せ、
「避けたら、マズい奴」
背後を見たのは一瞬。
腰を落とし、両腕で大剣を、脱力したように足元へ下げ。
「――『
構えられた刃に、黒天さえも貫く極光が走り。
カチ上げられた刀身がブレスを斬り散らし、その先の蛇の腹まで割り裂いた。
蛇の大顎から、逆流した血反吐が滝の如く流れ落ちる。斬撃は背中まで貫通し、赤の飛沫を上げる。されど蛇は構わず尾を振り抜きそれさえも斬り飛ばされた。宙を舞う己の一部だったものが二転三転しその先の廃墟を砕いて転がる。続いて叩きつけた左拳も同様に、手先から肩までを分かたれ地に落ちた。苦し紛れに食らいつかせる顎も、首元を断ち割られ無様に地を滑る。背後で、残された胴が崩れ落ち、瓦礫の中で炎に巻かれる。
巨大蛇のぶつ切りおよび丸焼きが三等分ほどに仕上がり、男は大剣を担ぎ上げ荒い息を吐いた。汗の滴る額には疲労の色が濃く、剣は輝きを失い、元の鈍色に戻っている。
「ったく、滅茶苦茶しやがるなコイツ」
力無く横たわる蛇の頭へと歩み寄る。弛緩した顎、だらしなく伸ばされた舌に、滂沱の血あぶくが濁流となって流れる。黒く黒い赤は、この世の呪いを煮詰めたようで。
その、喉奥から。
吐き出されるように飛び出した黒い獣が、男の左腕を喰い千切った。
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