第一章 願い(5)

「皆、笑ってるものね。人も、魔獣も。他人を、傷つけて」


 少女の、言葉に。


 獣は、目を見開いた。


『気付いていたのか』

「分かる。分かるよ。魔獣になった人が、理性を失うなんて嘘。人を殺して傷つけて、自分はバケモノだからと言い訳して。今までの恨みを晴らすみたいに、吠えて、叫んで。

 凄く、楽しそうに、笑ってる」


 ケダモノめ。ある魔術師は、そう言って殺した。


 バケモノめ。ある工房師は、そう言って殺した。


 人も獣も、構うことなく、お互いに。


 当然のように。


「あなたは、隠そうとしてくれてたんだよね。魔獣になった人たちを、私の居ないところで殺してきて。私に、彼らの言葉を、聞かせないように」


 それは、あまりにも健気で、無意味な優しさ。


 何よりも確かな真実を、自ら示していたのだから。


「あなたは。こんな世界の中で、誰よりも『人』だったもの」


 少女は、笑っていた。


 涙を流しながら、笑っていた。


「こんな世界で目覚めて、何も覚えてなくて。それでもこの力は、誰かのためにあるんだって思いたかった。皆を幸せにするために、助けるためにあるんだって、思いたかった。誰一人救えなくたって、それでも。

 私は、バケモノじゃないって思いたかった」


 ただ、それだけのこと。全ては自分を守るために、縋りついただけの綺麗事。


 だけど。


「バケモノなんて、始めから、一人もいなかった」


 あるいは。


 始めから、誰もがバケモノで、ケダモノでしかなかった。


「きっと、外の世界も同じなんだよね」


 少女は後ろ手を組み、遠くを見つめる。


 この世界の、内と外とを隔てる、見えない壁の向こう側を。


「ここだけが地獄で、狂っているなら。とっくに誰か、助けに来てるもの」


 世界が壊れてから、三ヶ月。


 一度として破られていない、境界線を。


 汚いモノには蓋をするように、閉じられた白黒の景色を。


「ねえ。あなたはどう思う?」


 少女は獣へ振り返り、問いかける。


「『誰もが幸せでいられる世界』なんて。誰も、望んでないのかな。必要なかったから、壊したのかな。終わった方が、良かったのかな」


 血の滲む足で、止まない雪を、踏み締めて。


 胸の前で、傷だらけの両手を、握り締めて。


「こんな願いに、叶える価値なんて、無いのかな」


 獣は、答えない。


 答える意味すら、ない。


 それを確かめるように、言葉を作る。


『お前は、それでも』

「叶えるよ。叶えてみせる」


 そうだ。


「だって、私は救われたから」


 そうだとも。


「あなたのことを、救えたから」


 少女は、自分の胸に手を当て。


 あまりにも悲しい、歪な瞳で。


 ただ、泣きながら笑っていた。


 獣は牙を噛み締めた。自ら砕かんばかりに力を込め、されど欠けすらしない頑丈さが今はただ忌々しく、代わりとばかりに身体を起こし右前脚を地面へ叩きつけた。舗装面が砕け穢れた白粉が舞い上がり少女と獣に降りかかる。獣の奇行、突然の癇癪にうっかり巻き込まれればすぐにでも死ねるだろう脆弱な少女が、しかし少し驚いたという程度に目を丸くしているのさえ、腸が煮えくり返る。


 ああ、そうだ。コイツは止まらない。止まることなどできない。この身は誰かのためにあると、どうしようもないほどに決め込んでいる。己が己だと証明する術を、他に持っていない。少女が救われてしまったばかりに。獣を、救ってしまったばかりに。


『誰もが幸せでいられる世界』などという、クソ食らえな世迷言に囚われて。


 もうとっくに、救いようがないほどに、壊れ切っている。


『それでも』


 なんだ?


 俺は誰へ、問いかけようとしている。


 否。獣は頭を振る。ああそうだ、そうだとも。


『誰の答えも、誰の赦しも、要るものか』


 獣は地面を踏み締める。身体を回し、少女の下へと歩みを進める。未だにきょとんと首を傾げ、呆けたように見つめる少女を、見下ろし。


 その頭へ、丸ごとかぶりついた。


「え!? な、なに!? なんなの!?」

『動くな首ごと噛み千切るぞ』


 かつてない本気を滲ませた獣の声に、少女は即座に硬直する。腕を身体の横に揃え直立不動に、もごもごと口を舌を動かす獣にされるがまま。あ、なんだか温くて柔らかくて気持ちいいかもなどと、浮かぶ思考は現実逃避そのもので。


「痛っ!?」

『終わったぞ』


 髪を引っ張られる痛みに目を瞑り、視界が開けてみれば。


 少女の膝裏まであった長い髪が、背中の辺り、半ばほどで噛み千切られ。


 目の前、獣が、牧草を食むヤギか何かのように、むしゃむしゃと咀嚼していた。


「何してるの!?」

『食っている』

「見れば分かるけど!? え、あ、あなたそういう趣味……!?」

『お前は俺を何だと思っている』

「何考えてるのか分からない分からず屋!」

『否定はせんがな。鏡が要るか?』


 困惑しながらもぎゃあぎゃあと騒ぐ少女を気にも留めず、獣は白くボサついた髪束を細切れに噛み砕き、唾液に混ぜ込んで嚥下する。やや変なところに入り込んだ繊維にケホンと咳払いし、前脚で器用に口元を拭って、再び少女と向き合う。


『俺は、身体を半分食われた痛みで目を覚ました』


 言葉に、少女は口をつぐむ。


 静かになったことを認めて、獣は続ける。


『今となっては感謝している。奴は、あの獣は、それが普通だと教えてくれた。生きるためには殺せと。殺して食えと。身をもって教えてくれた。アイツを喰い殺したから、俺は今、こうして生きている』


 何も知らない獣に、ただ一つの、大切なことを教えてくれた。


 とっくに腹に収まって、もうどこに行ったのかも分からない、ケダモノ。


『俺は、殺した相手は残さず喰う。毛の一本とて残さず喰らい尽くす。骨は硬いし糞は不味いが必ずだ。俺なりの信条として、可能な限り綺麗に平らげる』


 何故か。少女が問いかけるよりも、前に。


 答えは、示された。


『――『術式起動』』


 地面を、雪を踏み締める獣の前脚。


 先端に突き出す爪が、薄く淡い、静かな光を宿す。


 少女が驚愕する間もなく、獣の脚が振るわれる。鋭く空を切り裂く音に遅れその先にあった地面と瓦礫とが速やかに割断された。それだけに留まらず、切断面から爆発が巻き起こり、爪痕さえ残さず粉々に砕け散る。


 すぐそこまで迫っていた黄色の点が、黒に変わった。


『喰って自分のものにするのは、俺の唯一の取り柄だ』


 呆けて固まる少女へ、獣は告げる。


『決めたぞ。俺はお前の願いを、壊す』


 己の、決意を。


『お前が救いたいもの、お前が救おうとするものを、全て殺す。殺し尽くす。

 もう二度と、その手を差し伸べられないように』


 己の、願いを。











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