第一章 願い(4)
「じっとしててね」
暗がりの中、少女に言われるまでもなく獣は丸く寝そべっていた。全身を脱力し、牙を剥いて大きく欠伸をする。傍ら、獣の足元に跪く少女は、分厚い装丁の古びた本を抱えていた。獣の深い体毛の中へ、小さな右手を差し込んで、
「――『術式起動』」
唱えれば、手先に小さな光が灯る。次いで左手に抱いた本を開き、パラパラと捲っていく。様々な単語や数字が、ある一定の法則をもって綴られる、数式に酷似した文字列。その一項を選んで手を止め、続ける。
「患部投影。組成解析――完了。薬剤生成、欠損補完」
一つ唱えるたびに本の文字が淡く光り、少女の周囲に半透明の仮想ディスプレイが展開する。それら一つ一つには獣の身体や傷跡、その状態が映し出される。続いて薬、血、肉が生み出され、獣の全身に刻まれた傷を埋め。
「縫合開始」
最後に紡がれた糸が傷口を這っていき、瞬く間に縫い合わせた。
『見事なものだな』
獣は鼻先で傷跡を撫で、身体を震わせる。やや突っ張る感触はあるものの、出血どころか痛みすらない。明日には違和感すら消えているのではないかと思える処置。
それをたった数分で、たった一人で完遂した少女は、宙に浮くディスプレイを一枚一枚消してゆき、最後に本を閉じて、擦り切れた表紙を柔らかに撫でた。
「魔力はね。人の、命から生まれるんだよ」
とつとつと、落としていく言葉は、懐かしむような響きを含んで。
「身体の中で作られる生体熱量を、取り出して燃料にする、魔力技術。魔術。世界は、皆の命で支えられるから。人はお互いに、命を大事にし合う。当たり前のように、皆が幸せであることを望む。傷つけ合うことを、止めたの。
倫理や道徳じゃない。ただ世界の損失だからって、それだけの、足し算引き算で」
ちょっと、残酷だけどね。
そう語る笑顔には、憧れのような想いを込めて。
「『誰もが幸せでいられる世界』が、あったんだよ」
少女の願い。
少女が作ろうとする、少女が求める、かつて存在した理想の形。
『なるほどな。連中、やたらに戦うのがヘタクソなわけだ』
「魔術は、人を助けるためにあるんだもの。傷つけるためじゃ、ない」
だが。
『覚えてもないくせに、よく言うものだ』
獣は変わらず、鼻で笑う。
「教えてもらったんだよ。私を助けてくれた人たちに」
『お前を、『バケモノ』と呼んで捨てて、死んだ連中だろう』
少女は口を開き、しかし、何も返せない。
獣はしばし待ち、答えがないことを確認して、続ける。
『あのクソ共も言っていたな。「魔力の使えないクズ」、「バケモノになる前に」だったか。どういう意味だ?』
問いに、少女は俯く。
答えはぽつぽつと、途切れ途切れに。
「ここは、『工房』って呼ばれてた。魔力を使えない、魔術師になれない人たち。工房師を助けるための場所」
『そいつらが、獣になったか』
「だけじゃ、ないよ。魔獣には、人でも動物でも、魔術師でもなるから。でも、世界がこうなって。工房師だった人たちが、魔力を使えるようになって。
魔獣になるのが、一番多かった」
『恨みゆえか』
「どう、なんだろうね」
獣の問いに、少女は、ぎこちない笑顔を浮かべる。
「皆、恨んでたのかな。魔力が使える人、使えない人同士で、憎み合ってたのかな。世界はどうしようもなく平和で、幸せなものであろうとするから。
ここが、工房だけが、人を傷つけても良い、最後の場所だったのかな」
ねえ、と。
少女は、獣を見上げる。
「私って、バケモノかな」
『間違いなくバケモノだろう』
少女は息を呑み、歪む顔を引き結ぶ。
小さな少女を見下ろす獣の言葉に、容赦は微塵もない。
『お前の打撃は、連中とは桁違いに痛い』
「あなたは、アレくらいしないと、止まってくれないでしょう」
『お前なら、殺しの魔術も作れるんじゃないか』
「しないよ」
『できるんだな』
「しないんだよ」
少女は言いながら、傍らに転がっていたソレを拾い上げる。
持ち主を失った、刃こぼれの酷い、鈍色のナイフ。
「さっきの、鬼人種の人がやったのは、多分、こう」
少女が目を閉じれば、刃全体に光が灯る。耳障りな風切り音を纏う刃先を地面に近づければ、それだけで雪が切り裂かれ、アスファルトの舗装面まで傷つけた。
「刃物としての物理的な機能をね、魔術で、仮想上に構築するの」
でも、と少女は次に、薪に使う棒状の木材を手に取る。先程のナイフと同じように光を纏わせば空気が震え、地面へと近づければ、同じように雪と地面が切り裂かれた。
分かる? と首を傾げれば、獣が頷く。
『無駄が多い』
「そうだね。あの人は多分、ちゃんと刃物を使ったことが、ないんだよ」
少女はもう一度、ナイフを手に取り、立ち上がる。
「私なら、こうする」
術式起動。唱えれば、しかし光が灯るのは、欠けた刃のごく先端部分のみ。
目を凝らさなければ分からないほどの、薄く淡い、静かな輝き。
少女は数歩を瓦礫へ向かって進む。恐らくは金庫か何かだったのだろう分厚い鋼鉄板へ、さほどの力も込めずに刃を当て。
絹のように、切り裂いた。
別たれ折れ沈む厚さ数センチの鋼鉄には目もくれず、再度拾い上げた木の棒へと同じように魔術を起動する。しかし、鉄板に当てられた光は、数ミリ程度を削っただけに終わった。振り返る少女に、獣はふむと息を吐く。
『薄刃でなければ通るまいな』
「ペンで、お野菜は切らないもんね」
いたずらっぽく笑う少女へ、獣は鼻を鳴らす。
『それだけではないだろう』
誤魔化すな、と。
『お前はどうやって、俺より早く奴らの気配を察している』
「それ、は」
少女は逡巡し、視線を彷徨わせ、俯いた。後に、立てた右手の平を、横へ振る。左手に抱えた本が閉じられたままに光を灯し、一枚のディスプレイを展開する。
映し出されたのは、この廃墟周辺を、精確に俯瞰した地形図だった。
中央には、二つの青い点が打たれている。
「これが、あなたと私」
薄く開いた顎から息を漏らす獣に、少女は画面を向ける。指先で摘まむように触れ、地図を縮小していく。広く地形が表示されるほどに、打たれる点の数が増えていく。
「人は、『分からない』から黄色。魔獣は赤。魔力が剥き出しで、普通よりずっと『熱い』から、すぐ分かる。生き物だったけど、もう『動かない』のは冷たくて……黒」
中央に二つの青。廃墟からやや離れて、数個の黄色。さらに遠く蠢く、いくつもの赤。無数に散らばる、黒。
『近くの黄色は、監視されているか』
少女は首を横に振るだけで、答えない。代わりに地図の下端、南方に位置する、緩い弧を描く線を指差した。まるで、内と外とを隔てるように引かれたソレを。
「ここが、境界線。ここから誰も出られないようにしてる、見えない壁。
普段はね、コレ、私の目の中に出してるの。だから近くに誰か来たら、すぐに分かる」
ほう、と獣が吐いた息は、素直な感嘆の色を含んでいた。
『お前は魔術とやらを正しく理解し、組み合わせ、これを作り上げた』
綴られる言葉は、間違いなく賞賛そのものであり。
『優秀だと思う。他の連中とは、比べ物にならないほどに』
だと言うのに、少女の顔に、喜びはない。
獣は、続ける。事実を、突きつける。
『だがいずれ、他の連中も勘づくだろう。効率の良い殺し方に』
「そう、かな」
『
「そう、だよね」
ははは、と。
少女は笑う。
「皆、笑ってるものね。人も、魔獣も。他人を、傷つけて」
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