第12話 日本人、海の藻屑になる
クラーケン……シェルメールがそう呼んだ巨大生物の全容は、船の上からでは見えない。
海面から出ているのは、タコ足が数本だけだ。しかし、一本一本が大木のように太い。
「なんでこんなところにクラーケンが……。魔力濃度が高い海にしかいないはずなのに」
身体の震えを抑えるように、シェルメールがシャツの裾をぐっと握りしめる。
クラーケンは足を伸ばして、船に絡みつく。船体がぎしぎしと軋み、今にも破壊されそうだ。
「こやつ、妾より魔力が高い……ッ」
「ごめん、餓舞ちゃん頑張って……!」
クラーケンに抵抗しているのは、美食剣の餓舞と、柄を握りしめるシェルメールだ。
今、この船には餓舞の魔力が張り巡らされている。操舵する要領で、船体そのものの形状を操り、硬化させる……。理論としてはそんなところだ。
それを可能としているのは、元々餓舞の魔力が『剣身の造形』という力を持っているからこそ。船に刺さっていることで、いわば船を身体の一部として認識しているのだ。
だが、この魔導具に刻まれた魔法回路は、あくまで操舵のためのもの。
素材自体も強固なものではないので、クラーケンに押し負けるのも時間の問題だと言えた。
「俺の卵巣様を奪おうとは……万死に値するぞ」
「いや誰も狙ってないし、三年待たないと毒消えないんでしょ?」
そんな中においても、鮮之助はずれたことを言っている。
島を出た時から始まり、船を動かすのも、クラーケンに抵抗するのにも、鮮之助はまったく役に立っていなかった。
多少サバイバルの心得があるとはいえ、このサイズの化け物と戦うことなどできるはずもない。
「ふむ……」
鮮之助は甲板で腕を組んで、目を伏せる。
絶対絶命にも拘わらず、無駄に冷静だ。
「まずは王道の刺身だな」
「もしかして、クラーケンの食べ方を考えてる?」
「たこ焼きも捨てがたい……」
鮮之助がタコ料理に思いを馳せている間にも、状況はどんどん悪化していく。
気づけば、船にまとわりつく足の本数は四本に増えていた。
餓舞とフェルメールの抵抗も空しく、船の骨組みが一部、音を立てて折れた。
「もう無理じゃ……!」
「この船すっごい高かったのにぃいいいい!」
フェルメールが叫びながら、やけくそ気味に炎の魔法を繰り出す。
しかし、拳大の炎球はタコ足の表面を焦がすばかりで、効いた様子はなかった。
船はどんどんと破壊され、中央でぽっきりと折れている。これでは、仮にクラーケンがいなくなったとしても航行は不可能だろう。
「シェリー、これを」
「なにこれ?」
「ライフジャケットだ。これがあれば最低限沈まない。海に逃げるぞ」
「正気?」
「他にどうしろと?」
船はもう、諦めるしかない。
シェルメールは少し逡巡したあと、観念したように頷いた。
鮮之助はバックパックから取り出したライフジャケットを、シェルメールに手渡し着るよう促す。
自身も羽織りながら、バックパックの中身を漁っていく。
鮮之助が取り出したのは、多種多様な調味料の入ったプラスチック製の容器だ。
「もったいないが……仕方あるまい。どの道、荷物は捨てるしかないしな」
鮮之助は取り出した調味料を、次々と海に流し始めた。
「タコは高濃度の塩分に弱い。……くっ、食材の源である海を汚染してしまうとは、なんと罪深い……ッ」
クラーケンのサイズからしたら、バックパックに入っていた調味料など微々たる量だ。
気休めかもしれない。だが、クラーケンの足が調味料を嫌がるように少しだけ避けた気がした。
「シェリー、海に飛び込むぞ。餓舞は俺と来い」
「ねえ、その樽は置いていっていいんじゃない?」
「生き残れるかは運次第だ。また会えたらいいな」
「聞いてる? その猛毒の入った樽、絶対いらないよね?」
かくいうシェルメールも船から金目のものを手当たり次第かき集めている。
鮮之助は餓舞を腰に括りつけ、フグの卵巣の入った樽を両手で抱えた。
日本から持ってきたバックパックはここで捨てることになる。……調理器具などより毒……彼の言うところの卵巣様を優先するらしい。
「ああ、卵巣様……俺を守ってくれ」
「妾のことも離すでないぞ? 絶対じゃぞ!?」
餓舞を引き抜いたことで、船はいよいよ抵抗力を失った。
魔力のない魔導具など、ただの木材の塊である。
「行くぞ」
鮮之助とシェルメールは船が大破する音を聞きながら……海へと飛び込んだ。
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