マーティン愛称事件1

私たちはバリシネスでは婚約者のまま過ごすことになるが、バリシネスに来てからは、今更寝室を分けることもなく、多くの時間を共有するのが常である。



「私だけエリザってやっぱり変じゃない?マーティーって呼ぼうかしら」



ベッドの上で本を読んでいたマーティンは、思いもよらぬ回答に困惑した顔をしていた。


私は今回の人生でやりたいことをどう実現するか考えていたのに、ふとメモ書きしていた手を止めてマーティンを視界に入れた。



「マーティーと呼べなかったからマーティンと呼んでいるんじゃなかったか?」


「そうだったかしら?」



マーティンは私のいる空間で自分のしたいことをする。

彼が一人で行動することはあまりない気がするが、冷静に考えればそれなりには別々の時間もある…ような気もするが、彼の父親のバリシネス国王も私たちに未来の記憶があるのを知っているため、別々に呼び出されることはあまりない。



「そうだ。愛称で呼びたいと意気込んでいた割に、結局一度も呼べたことはなかっただろ?」


「そ、そうだった気もしてきたわ…」



薄っすらと記憶が蘇ってくる。

特別な名前で呼びたくて、マーティーと愛称で呼ぼうと思ったけど、彼の名前だと最後しか変わらなくて、呼び名を変えるには努力が必要だった。


終いにはマーティーと呼ばれると乳母を思い出すと言われてその話は流すことにしたのだ。



「あれは乳母を思い出すと言ったあなたもいけなかったのよ?」


「そんなことを言ったか?確かに乳母を思い出すが…」


「ほら!乳母と間違われたくないし、やっぱりやめておくわ」



私はきっと、当時と同じように拗ねていると思う。

マーティンはそんな私を懐かしむように笑っていた。





そんな話をしていた半年後、私たちは同年代との交流のため、王宮で開かれる社交パーティに参加することになった。

バリシネスに慣れたことで参加を打診されるのも毎度のことだが、この初回のパーティだけはあまりいい思い出がない。



「またあの子が来るわよね?」


「来るだろう。パーティで会っておくのが1番気楽だろ?」



私が人生の中で経験する苦い思い出リストに堂々と記載される出来事がこれから起こる。

ただ、他のメリットを投げ捨てて回避するほどではないため、仕方なく受け入れることにしている。



「そうだけど…憂鬱なのに変わりはないもの」


「今日のパーティは早く切り上げて帰ってこよう。しっかり俺の隣から離れないように」



毎度毎度早く切り上げようとはするが、まだ子供のうちの社交は周りが空気を読む力が養いきれていないため、苦労が多い。




「見つけたわ!マルー!」



王族なので陛下の入場の後ろについて入場するのだが、陛下の登場を待っている間にこちらに手を振る者が現れる。

これもいつものことだ。



「マル、大きくなったわね!」



私はマーティンの腕に添えていた手をギュッと握る。



「フランチェスカ姫にご挨拶申し上げます」



マーティンが挨拶をしたので、次は私の番なのだがすでに無視されることが分かっている私は、マーティンの腕から手を離すと小さくカーテシーだけとった。

彼女の母である北帝国の正妃の療養のためにバリシネスに長く滞在しており、昨年やっと自国へと帰ったと聞いている。



「マルが畏れるほど成長するなんて驚きだわ!」



マルというのはマーティンの名前が彼女の国ではマルティヌスとなることから彼女がつけた愛称だ。



「婚約もしましたので、マルと呼ぶのは控えていただけると幸いです。行こうかエリザ」



マーティンはいつも相手にしないが、恐らくただのやんちゃ坊主だった彼は、本来ならもっと気楽に彼女と話をしていたに違いない。

彼女がマルと呼ぶのを許していたのもそういった経緯があるからだと容易に推察できる。



「えっ!ちょっと!?マル!?」



その場はうまく乗り切れたと思うが、私たちは将来の出来事のための人脈作りにパーティに参加するという明確な目的があるので、会場にいる限りフランチェスカ姫の襲撃を受けることになる。



「相変わらずモテるようで羨ましい限りだわ」


「こんな子供の時にモテても仕方ないだろう…」



小さな手にエスコートされながら移動していても、後ろから刺さるようなフランチェスカ姫の視線を感じていた。



「どうやら婚約破棄したいようね」


「イテッ!!」



もう少し大きくなってからモテないと遊べないと暗に秘める、憎たらしいマーティンの足を思い切り踏んづけてやった。

私がいなければ好き放題遊べた身分だろうが、不満があると言うのなら無理強いするつもりはない。



「この人生は別々に生きていきたいのなら、私にも考えがあるわよ?」


「何だよ考えって。俺が浮気なんてしないことは分かってるだろう?」


「そう?遊びたいのなら解放してあげるわよ」



マーティンなら疑わせずに浮気をすることだって可能だと思う。

今までだって裏では愛人をうまく囲っていた可能性だってある。

彼は私と会う前はそれなりの女性と楽しんでいたと聞くし、本来私と会う前の彼の人生をこうして私が奪っているような現状は、彼にはメリットがないのかもしれない。



私は彼の腕から手を抜いて、小さい体を利用してわざと人の多い方へと歩く。

彼をうまく巻いた私は、大人になってからも滅多に行くことはなかった王族のみが使える休憩室へと向かう。

もちろんパーティ会場を出る時から護衛が後ろを付いてきていたので、扉の前で待たせて休憩室の扉を閉めた。



「一人の女とずっと一緒にいるなんてさすがに飽きるのかもね。それも繰り返す人生の中でなんて…」



私は頭を冷やそうと小さな手で扉を開いてテラスへ出た。

そこは小さな庭園とでも言うように立派な花が植えられていた。

乾燥した風の吹くリス国にはない花々も多い。



ーー最初はバリシネスの花を見慣れる日が来るなんて思いもしなかったのに…



テラスに置かれた慎ましいチェアは、お茶会用ではなく、休憩用に置かれた硬めの椅子だった。

そこにちょこんとお尻を乗せると、ちょうどマーティンが会場から庭園に出てきたのが見えた。

護衛二人も彼の後ろについているのですぐに気付くことが出来る。



私を探しているのだろうとは予想しつつも、頭を冷やすために出てきたのにすぐに顔を合わせては何の意味もないと思い、椅子の位置を少しずらして低木に隠れるようにして身を縮こませた。



「マルっ!マールー!」



顔なんて見なくてもフランチェスカ姫だと気付く。

これまでの人生で、大きく傷つけられたこともなければ、彼女が私達の障害になることもなかった。

ただ、このパーティ以外では二、三度程しか顔を合わせない関係であるにも関わらずこんなにも苦手意識が出来てしまったのは、彼女が私が決して関わることが出来ない過去のマーティンとの仲を一方的に語られるダメージが大きいからだ。



私の記憶では、もし私と出会わなくてもマーティンは彼女とは結婚もしないし婚約もしない。

なぜなら、フランチェスカ姫は北帝国のさらに北にある軍事国に嫁ぐからだ。

これまでの人生の繰り返しでも、私に強烈な印象を植えつけた彼女の人生が耳に残らないわけがない。

毎度必ず彼女の結婚の話を聞くとホッと胸を撫で下ろすのだ。



マーティン達は何やら話しているようだが、流石に叫んでいなければ会話が耳に届くことはない。

木々がざわめく音が聞こえ、まるで隠れる私に気を遣ったようだった。



やめておけばいいのに、私の低木の陰に隠れるように縮こまっていた体の重心を少しずらし、誘われたように低木から彼らを覗き見た。



「はぁ…最悪…」



マーティンの兄妹を含めて、彼らの遊び相手として王宮に出入りしていたフランチェスカと仲が良いのは仕方がないことだ。

彼の過去が変わらないのも理解している。

活発なフランチェスカとマーティンは特に仲が良かったと聞けば、今のマーティンがフランチェスカを恋愛対象としては見れなくても、大人になってからのフランチェスカの美貌も知っているので彼がその気になればどうにでも出来そうに見える。



特に目の前でマーティンより少し大きなフランチェスカが彼に抱きついていているのを見たら、避けられたのに避けなかったのではないかと勘繰ってしまうのだ。



抱きつかれているのを見たって喚き散らすほどのことではない。

何度の人生を生きたと思っているのだ。

マーティンが覚えてもいない令嬢に宣戦布告されたり、蹴飛ばされたり、そんなことの一度や二度はもう経験済だ。

ただ、フランチェスカの身分と美しさと彼への気やすさは、他を優に超える。



私はモヤモヤとした頭を抱えながらテーブルに突っ伏す。



ーーそうだ、家出をしよう。



このままパーティが終わってしまえば、また四六時中マーティンと一緒にいるはずだ。

彼の都合の悪い時はさらっと出掛けるが、私に話しているお出掛けの理由が正しいかどうかは知る由もない。

そんなことまで疑っている現状はよくないことだけは分かる。



そうと決まればパーティの人混みに紛れて外へ出てしまうのがいいと、一通手紙を書くことにした。

席を立った時にちらりとマーティンが一人で会場に戻る様子を見ながら私は室内に戻った。



手紙を直接渡すためにひっそりとパーティ会場の裏手へと戻りはしたが、そこにいた護衛に手紙を手渡すと、私はすぐに自室へと引き返した。



ーーマーティンに見つかったらお終いだもの。



何度も何度も人生をやり直して、一体何年彼と一緒にいたのか今となっては数えることもしていないが、私は初めて彼と喧嘩をしているようだ。



「お嬢さま、お一人で戻られたのですか?」



私は護衛と馬車に乗ってパーティ会場からマーティンと住む別宮へと帰ると、馬車から降りてきた私を出迎えた執事が不思議そうに尋ねた。



「そうよ。陛下へは伝えてあるわ」



私は大事にならないように陛下にだけ手紙を書いていた。

一応、無理にリス国から連れ出したことになっている、マーティンの幼い婚約者だということは理解しているので、一人で家出をしようなんて思っていない。



そのまま執事の後ろを歩いて部屋に戻ると、侍女に急いで旅支度をさせた。

身体は幼いが心は大人の中の大人。

それなのにこんなちっぽけなことで家出なんておかしいと思うかもしれないが、繰り返す人生というのはそれ程辛いこともあるということだ。



「行くわよ!」



私は護衛もしっかりと引き連れて馬車に乗って王宮を後にした。

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