n回目の事件簿
誰も知らない正規エンド
これはエリザベスの記憶にない物語。
ヘンリーは教会の祭壇の前に立って緊張した面持ちでドアを見つめていた。
ゆっくりとドアが開き、真っ白なドレスを着ているエリーと義父となるグワマン公爵の姿が見えた。
妻となるエリーのドレス姿は光と共に目に焼き付き、眩しかった。
バージンロードの赤いカーペットを一歩一歩ゆっくりと歩いてくる。
父親であるグワマン公爵は、愛人を何人か囲っているのも有名である。
エリーは後継者教育に忙しく、まともに父親とは話した事がない。
それも貴族の世界では珍しいことではなかった。
それでも自分が婿に入ったら、少しずつ変えていけたらと思う。
後妻の娘である彼女の妹のアリエルは、評判があまり良くない。
エリーとは違い甘やかされている分、公爵令嬢と身構えて話しかけると、肩透かしを食らうことになる。
良く言えばフランクな性格だが、高い教養を求められる高位貴族の中で過ごさなくてはいけない公爵令嬢の立場では、とても好意的に取られることはない性格だ。
エリーはアリエルを可愛がっているが、どちらかといえばアリエルに慕われているだけと捉える方が正しかった。
幼い頃から苦労して得た公爵家の後継者としての確固たる地位に甘んずることなく努力し続けるエリーをこれから支えていかなければならない。
生家の侯爵家との関係も深めて両家の繁栄を考えるのが婿としての勤めでもある。
これから困難なこともたくさんあるかとは思うが、それよりも今は目の前のエリザベスとの結婚に浮かれてしまっている。
差し出した手に、レースのグローブを付けたエリーの手が添えられる。
ーー苦労してきたエリーをこれから沢山甘やかして幸せにしなければ
祭壇の前で神に貞操を誓うと、エリーはベールを上げやすくする為に少しだけ膝を折ってくれた。
義父のように僕は愛人を囲ったりすることは絶対しないと強く決意する。
ベールの裾を持つ手が震えるのがわかった。
幼い頃から決まっていた婚約者で、1番身近に居続けたこの国で1番の努力家の愛しいエリー。
「エリー、愛してる」
ベールを上げて目が合うと、自然と口から溢れていた。
重ねた唇から彼女の熱を感じて、ずっと触れていたいと感じた。
グワマン公爵家に入ると、エリーと一緒にいくつかの領地の管理を任されつつ、社交や勉強に明け暮れる忙しい日々だった。
それでも夜になればエリーの静かな笑みに癒される日々だ。
優秀な彼女に似合うように領地について深く学ぶのは婿としての義務だった。
「え?ここに娘か息子がいるのかい?」
エリーの懐妊はすぐに発覚した。
「そうよ。あなたの子供が私のお腹にいるの」
少し風邪気味だと言っていた今朝は、二人ともまさか妊娠とは考えてもいなかった。
なんて幸せなのだろう。
「エリー!あぁ嬉しいよ。僕たちの子供を大切にしていこう」
ヘンリーはエリーをギュッと抱きしめると、幸せを噛み締めていた。
エリーの妊娠中、体に気を遣って外に出る仕事は率先して受け持った。
領地を回るのに何日も外出することも珍しくない。
王都へ代わりに行くこともある。
ほんの少しだけ環境が変わった時、偶々出会った女と過ごすこともあった。
息抜きのように女を抱くことは止める事ができなかった。
可愛い子供が産まれても、外に出ればついでのように女の家に寄る。
平民であったり、未亡人の下級貴族だったりしたが、噂が広がらないように定期的にお金を払い続けている。
いつの間にか、義父と同じことをしている自分がいた。
一つだけ違うことは、家族を愛しているということだ。
エリーも子供もとても大切だし、傷付けるつもりは毛頭ない。
月日が流れていくうちに、ほんの少しだけ捻じ曲がってしまった環境を元に戻す事はどんどん困難になっていった。
二人目の子供もそろそろ生まれると言う頃、アリエルはニテゼリッシ伯爵家へと嫁ぐことになった。
公爵という地位から考えると格下だったが、いくつかあった候補の中では、条件は1番いいと考えられることから、アリエルも快諾していた。
適齢期と呼ばれる年齢を過ぎたアリエルを考えれば、上等といえる嫁ぎ先だ。
身重のエリーと共に出席したアリエルの結婚式で、とうとう自分の悪事が世に晒されることになる。
本当に偶然に、愛人の一人として援助していた未亡人のリンセン前男爵夫人と教会で出会ってしまった。
いつもならそんなことはしないのに、教会でのパーティの途中、彼女に誘われてゲストルームの一室で楽しんでいた。
ゲストルームに入るところを見てしまったらしい乳母に抱えられた長女は、あろう事かエリーを連れてきてしまった。
「ヘンリー?ここにいるの?大丈夫?」
最高に盛り上がっていた時のノックに苛立ったのだが、妻の声がした途端、サーッと血の気が引いた。
部屋の前にいられては、目の前の乱れた女を逃すこともできなかった。
返事がないことを非常事態だと捉えられ、あたふたと女が身支度を整えていたところで、外から鍵が開けられてしまう。
返事をしても、返事をしなくても、もうどうしようもなかった。
大きなお腹を抱えたエリーと、まだ幼い長女の驚きの表情が目に焼き付いた。
なんでこんなことをしてしまったのか。
そう思った時にはもう全てが遅かった。
離縁こそされなかったが、婿養子として公爵家の一員に入ったにもかかわらず、公爵家の金で愛人を囲っていたことは、到底エリーには許してもらうことは出来なかった。
表向き、夫としては務めを果たすことを許されたが、信用を無くした私は、妻に触れることも許されず、温かかった家族を冷えさせていた。
義父との仲を取り持つなんてもう夢のまた夢だ。
義父は「男なら仕方のないことだ」と言い放った。
「もちろん、理解しております。私が不甲斐なかった。そういうことですから」
エリーは冷たくそう言うと、席を外した。
もう彼らを取り持つ資格すら持ち合わせなかった。
子供たちが大きくなり、義父がエリーに爵位を渡すという頃、アリエルが出産時の出血が原因で亡くなった。
エリーはアリエルが結婚してから、伯爵家に何度か業務提携の話をし、家とのつながりを作っていたが、それにも影が差していた。
あの時はエリーがアリエルを心配して何度も手紙を出していた中での訃報だったのだ。
「グワマン公爵家の当主として、家門全ての繁栄をお約束します。その代わり、絶対なる服従を求めます」
グワマン家の血筋の一同が集まったパーティで、壇上にいた私のエリーは、実に堂々としていた。
公爵の爵位を受け継いだ者のみが壇上にいられるお披露目のパーティであるため、夫である私も、娘も息子も、臣下の一人として扱われている。
そして、彼女はそのまま当主としての最初の仕事に取り掛かる。
「ニテゼリッシ伯爵家との断交をここに宣言します。亡くなった妹であるアリエルが命に変えて産んだ息子、リッテが伯爵家の当主に着く日まで、全ての援助をとりやめ、家門全てとの一切の取引を禁止とします。次に、私の夫、ヘンリー・テイラーと離縁することをお知らせいたします。理由は過去の不貞行為。当主として領地の重要な仕事をする私のそばには置いておけないという結論である。次に…」
流れるように宣言された離縁に、ヘンリーは膝から崩れ落ちた。
重要な順に読まれていく原稿で、離縁は一番最初に読まれることもなかった。エリーにとっては、離縁とはその程度の話だということだ。
ーー彼女はこの日を心待ちにしていたのか。
「公爵家は安泰と思っていたけれど、まさか入婿が不貞行為とはね」
クスリと幾つもの笑い声が耳に届く。
「おしどり夫婦と言われていたのに、蓋を開ければ、ただの立場を弁えない愚かな婿が演じていただけだったわけか」そう嘲笑う声は遠慮なく降り注がれた。
公爵令嬢でいる間は、当主の考えに従わなければならない。
たとえ後継者であったとしても、ただの駒の一人だ。
エリーはあの日から、この日に私を捨てることを決めていたに違いない。
「最後に、公爵となった私に夫が必要だと意見を持つ者もいると思いますが、勿論、縁談の申し込みは喜んで受け取ります。よりこの公爵家が繁栄できると判断出来る者が現れれば、喜んで迎え入れることでしょう。以上です。この後は是非パーティをお楽しみください」
公爵家の色である朱色のドレスを着て、朱色の紅を引いたエリーは、もうこちらを見ることもなかった。
「おい、不貞行為とはどういうことだ」
リベルトが慌てた様子で床に這いつくばる私に声をかけてくる。
それでも私は、もう一人では立ち上がれなかった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「話は聞いていたわね?これは宣言した通り、当主としての決定であり、貴方に拒否する権利はありません。慰謝料等の請求はこちらからはしないことを条件に侯爵家とは話し合いは先程終了しています。読んだらここにサインをしなさい」
離縁は驚くほど事務的に行われた。
パーティの後、公爵家の門をくぐることは許されず、娘や息子に会うことも叶わなかった。
そのまま身一つで送られたのは王都にある侯爵家の別邸だった。
連れて来られた応接室に、兄のリベルトと一人の平民の女が座っていた。
どこかで会った気がするが、思い出せない。
「来たか」
驚くほど落ち着いたリベルトに、わたしは息を呑んだ。
てっきり何発か殴られるだろうと思っていた。
「こちらの女性は?」
「覚えていないのか?君の妻となる女性じゃないか」
そう言われても心当たりはない。
すでに新しい嫁を用意しているとは思ってもいなかった。
平民のように見えたが、下級貴族で婿を望んでいたのだろうか?
でも相手も若くはない。今更婿を欲しがっても子供も難しいかもしれない。
「ヘンリー、弟であるお前を廃嫡にしなければならないのはとても残念だ」
「廃嫡……!?」
離縁され、侯爵家に戻されても爵位はないが、廃嫡されてしまったら、本当に平民になってしまう。
「あぁ。慰謝料の支払いを免除する代わりに、お前にはきちんと責任を取ってもらうことになった。彼女はエバー。君が以前囲っていた愛人だ」
「お久しぶりでございます。ヘンリー様」
名前を言われて、ようやく以前関係を持っていた女だと言うことに気付いた。
囲っていたと言っても、愛人のように潤沢な金を渡した契約関係ではなかった。
口止め料と家賃を少し融通していただけの関係だ。
「彼女は君の子供と一緒にこれまで大切に保護されていたそうだ」
「私の…こども?そんなはずは…」
そんな話は聞いたこともない。
女とは全ての縁を切っていたし、彼女のことはエリーが知るはずもなかった。
ないはずだったのに…
「エリザベス公自ら彼女らを囲っていたらしい。今後はお前が責任を取れと、そう言っていたぞ」
そう言って渡された手紙とも言えないようなメモには、エリザベスの美しい字で、女性の名前が箇条書きされていた。
秘書か、侍従か、私が旅先で一人で行動することは勿論なかったため、どこからか情報が漏れていたのだ。
エリーはあの日も、ドアを開ける前から全てを知っていたに違いない。
私はその日から、記憶にも残っていなかった女と、侯爵領の田舎街まで馬車で揺られ続けた。
途中、自分の子供だと言うグレーがかった髪の男の子も加わった。
娘と息子とそんなに変わらない、貴族ならばアカデミーに通っているだろう年頃の男の子だった。
それでも何も感じなかった。
自分に拒否権はないし、自分の子供ではないと立証することもできない。
何日も馬車に揺られた後は、小さな小さな家で、水を汲んできたり、火を起こしたり、今までどうやっていたのかも知らないようなことを沢山覚えなければならなかった。
家から持たされたのは僅かな金だけだったので、働くしかなかった。
字も書ける、語学もそれなりに出来る。
それでも田舎町でそんなものはほとんど役に立たなかった。
僅かなお金を稼ぐために、朝早くに家を出て、遠くまで歩いて行き、商家の会計の手伝いをしたり、小さな村まで行って、代筆してほしい手紙はないかと仕事を自ら探して歩いた。
もう若くはない。馬車を使うのが当たり前だった私には本当に毎日が辛かった。
風の噂で、エリーがどこかの第三王子を婿に取ったと聞いた。
田舎に情報が来るのは時間がかかる。
通りすがりの旅商人が王国新聞を持っていたのを頼み込んで見せてもらったのは、その噂を聞いてからたった二週間しか経っていなかったが、その紙面の隅に、グワマン公爵家に第三子が誕生したと書かれていた。
後継者は第一子である成人した長女か長男どちらかの可能性が高そうだが、離縁した経緯を踏まえれば、どうなることかと面白がるような内容だ。
エリーはもう、手の届かないところにいるんだと追い出されてから始めて自覚すると、トボトボと家に帰る。
グレーの髪の息子は家の近くで薬草をとって街まで売りに行っていた。
男二人で働いても、ギリギリの生活だ。
息子は私を父とは呼ばないし、居候のような状態で過ごす日々だ。
ここを逃げ出しても、住むところもなければ新しく生活をしだすような金もない。
息子が結婚すると言えば、もっと生活は厳しくなるだろう。昼も夜も働くことになる。
まだまだ生活は始まったばかりだった。
入婿のよくある失敗として社交界ではほんの少しだけ話題になっただろう。
そのよくある話を何度も笑ってきたのに、自分はそうはならないと思っていた。
枕をいくら濡らして後悔しても、あの日々に戻れることはなかった。
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