一度目の私
母の死を待っていたかのように、5歳の女の子とその母親を葬儀の翌日に公爵家へ招き入れた父親に、何か期待したことがおかしかったのかもしれない。
母には大切に育てられたと思うが、父親のことはその人が父親だという認識がある程度の関係だった。
家にいる時も彼が視界に入ることは稀であったし、家にいるかいないかと気にかけたこともなかった。
私にとって家族とは、母親と自分の2人を指す言葉だ。
アリエルという名の女の子も、その母親であるイマリエルも妹と義母ではあったが、家族ではなかった。
彼女達が移り住み、一年が経ったと気付いたのは、母の命日が過ぎたからだ。
喪が開けるとすぐに彼らは正式に公爵家の一員となった。
私は婚約者であるヘンリーに、妹を正式に紹介することになった。
「私の妹のアリエルよ」
簡単な言葉で紹介をし終わると、アリーはもう話したくて仕方ないとばかりに口を開いた。
「初めまして、アリエル・テイラーです。お姉様をエリーって呼んでるって聞きました。私のこともアリーって呼んでね」
いつもアリエルはアリーと呼ばれることを望んだ。
私のことをエリーと呼ぶのはこの世でヘンリーだけだと思っていたし、彼が誰かを愛称で呼ぶことはないと思っていた。
最初はそれとなく流していた彼も、いつの間にかアリエルのこともアリーと呼ぶようになっていた。
1番最初は少なからずショックを受けたが、家族に愛称で呼ばれることは珍しくもない。
自分もアリーと呼んでいるのだから可笑しくはないと結論づけた。
実際はどうだか分からないが、アリーは私を本当の姉のように思っていたと思うし、義母も私を目の敵のように見るようなことはなく、適切な距離を置いていた。
夕食も全員が揃って食べたが、話の輪に入れることはなかった。
アリーが話しかけてはくるが、すぐに知らない別の話に移る。
当たり障りのない返事をし、耳に入ってくる会話は耳から耳に通り抜けていくだけだ。
朝から夕方まで、毎日後継者教育として勉学とマナー教育が続いた。
唯一、婚約者とのお茶会だけが私の時間だった。
夕食後は本を読み、日記を書き、好きなことをして過ごすことが出来たが、それは部屋でひっそりと行うものだった。
ヘンリーに会う時間が毎日待ち遠しいと感じながら、私の日々は繰り返される。
ダンスの練習をしていると、庭園で義母がお茶会を開いているのが見えた。
そこにはアリーの姿もある。
領地について学んでいるときにもう一度窓の外を見れば、そこに父親の姿もあった。
それでも私のドレスは上等なものであったし、何不自由なく暮らしていた。
後継者は自分なのだという確信も揺らぐことはなかった。
当たり前だが、アリーは後継者教育を受け始めることはなかったし、マナーもそれなりにしか教えてもらっていないようだったからだ。
「公爵家の人間ならば隙を見せてはいけません」
そう言われた後の夕食の席でも、アリーはカップをソーサーに置くときに何度も音を立てていたし、義母も背筋が伸びていなかった。
同じ公爵家であっても私は許されず、彼女達はずっと許されていることに疑問を抱くことはあった。
後継者なのだから。そう言われればそれ以上口を出すことは無粋だと悟った。
ヘンリーは誕生日には可愛いアクセサリーを贈ってくれたし、私も毎年のプレゼントを選ぶために何日も費やした。
アリーも誕生日に、ヘンリーからアクセサリーを受け取っていた。
誕生日は毎年たくさんのプレゼントが贈られてくるので、それは当然のことなのだと思っていたが、ヘンリーの兄弟にプレゼントを贈ることは一度もなかった。
鬼ごっこをしなくなったのは、ヘンリーとお茶を飲んでいた後に庭を歩いていた時に、いつものようにやってきたアリーと近くのベンチに座ったことだった。
長椅子と肘掛けのついたガーデンチェア、当たり前のようにヘンリーは私を1人掛けのチェアに誘導して、対面のベンチに座った。
気を遣ってチェアを譲ってくれたのかと思ったのだが、ヘンリーの隣にアリーが座ると、状況が一気に変わった。
キャッキャと笑い合う2人の距離は少しずつ近くなっていったが、そんなことは気付いてもいないようだった。
ヘンリーは、私ではなくアリーを見て話していた。
そこに私がいたことを忘れているかのように、アリーとの会話が止まらない。
それからのお茶会は、ダイニングでとる夕食と同じだった。
だんだんと自分の知らない話を2人は持ち出すようになり、自分は透明人間にでもなったかのように思えた。
ヘンリーと結婚するのは自分だということは変わらない。
家族になるのだから、妹と仲良くなることに嫉妬してはいけない。
そう言い聞かせながら、侍女が呼びにくるまで大人しく席に座っているのが、唯一私ができる抗議だった。
しかし、その抗議も無駄なのだと悟ると、絶望のお茶会へと成り下がった。
この場から早く立ち去りたいと考えるようになり、ひどく惨めなこの時間から解放されたいと願った。
学園入学する頃には、父に相談することもあった。
このままの状態を打開したいと、ヘンリーとのお茶会の時はアリーには遠慮してもらいたいがどうしたらいいか。
父から返ってきたのは、結婚が揺らぐことはないのだから心を広くしなさいというお叱りだけだった。
アリーが学園に入学する頃には、公爵家の醜聞になりかねないと再び父に進言するも、「結婚がなくなることはないし、心配することはない」そう言われて終わってしまう。
学園では何の噂も耳に届いていないふりをして、婚約者としての義務は果たし続ける彼に、認められる人間にならなければならないと、一層勉学に励んだ。
パーティに参加する前にはドレスを贈ってくれることを忘れられたことはなかったし、決してアリーをエスコートすることはなかった。
「ヘンリー、私のこと…どう思っているの?」
そう聞けば必ず「大切に思っているよ?当たり前だろう?」そう答えが返ってきた。
その一方で、ヘンリーがアリーと過ごしている時間はさらに増えていった。
私のことを好きになってもらうにはどうしたらいいのだろうか。
いつもそう考えて過ごしていた。
顔を合わせれば話もするし、妹と仲が良すぎること以外は彼の対応に何も問題はなかった。
それが私の目を曇らせていたのかもしれない。
彼はいつも私を優先する素振りはあるのだ。
「大切に思っている」その言葉に期待をしてしまう自分を止めることはできなかった。
結婚すれば、変わるかもしれない。
アリーも結婚すればこの家を出て行く。私を見てくれる日が来るという希望が、私の口を閉ざす。
私は見て見ぬふりをしながら、時間が経つのを只管待った。
学園を卒業するとほぼ同時にヘンリーと結婚した。
結婚式も、友人達に心配されながらも無事に終わった。
友人達にも隙は見せられない。
どこかで油断したら、公爵家に泥を塗ることになるのだ。
初夜を断られ、それ以降も夫が寝室に姿を表すことがなくても、それを口にすることはなかった。
ヘンリーが公爵家の一員になると、夕食の席が絶望の宴から死の宴へと変わった。
笑みを貼り付けたまま、味のない食事を喉に無理矢理通す日々は辛く、事業をいくつか立ち上げて気を紛らわした。
アリーが結婚するまでの時間潰しのように始めたのだが、存外に熱中して行った。
いつしか公爵家の収入の8割は事業からの利益となった。
王都の屋敷を新しく建て替えたし、別荘としていくつも屋敷を持った。
その別荘に、自分が行くことは一度もなかった。
そこに行くのは、アリーが結婚した後だろうという考えは呑気なものだった。
屋敷の中から倹約という言葉は消え去り、多くの持参金も用意できるというのに、アリーの縁談は決まらなかった。
その日をひたすらに待っているのに、それがおかしいと気付いたのは、アリーが妊娠したと聞いた時だった。
1ヶ月間の事業の視察から戻った時には、アリーの悪阻は酷いものだった。
侍女や侍従がアリーの為に右往左往して対応し、ヘンリーは私が帰宅したことにも気付かなかった。
2人の関係に気付いていなかったといえば、そうではない。
気付かないふりをずっと続けていたのだ。
私に子供が出来るわけもなく、未婚の母となるアリーをどうするのかと思っていたが、その話題が夕食時に出るわけもなかった。
相手がヘンリーだということは聞かなくても、見なくても理解できた。
甲斐甲斐しくアリーの部屋で看病しているのは私の夫である。
夫婦の寝室に足を踏み入れることのない男の行き先を、屋敷の者はどう思っていたのだろうか。
それを知らないふりをし続ける後継者を、どう思っているのだろうか。
この家を継ぐことは酷く困難なことに思えた。
自分の味方はいなかった。
この状態に苦言を呈する者もいない。
それは自分も含めてのことだ。
もう、何も言っても変わらないことは明白で、私はまだ何の権力もないただの公爵令嬢だった。
逃げ出したってどう生きていけばいいのか分からない。
事業をする資金を持ち出して逃走しても、それは必ず貴族の目に留まる。
未来の公爵家の当主である私を知らない貴族がいるだろうか。
田舎の男爵でも公爵家の後継者である私のことを知っているだろう。
もうそこに逃げ場はなかった。
アリーは結婚することはない。
この死にながら生きていく日々に終わりが来ることがないと悟った。
日に日にアリーのお腹は大きくなり、私は食事が喉を通ることもなくなった。
スープと少しの果実で辛うじて息をして過ごしているだけだ。
それでも自分の事業を投げ出すことは出来なかった。
それだけが自分が今生きていられる場所となったし、友人達の信頼の結果、身を結んだものであったから、簡単に投げ出せるものではなかった。
この家を見なくて済むのなら喜んで仕事をした。
そうして現実から目を背け続けたが、それすらもこの家は許してはくれなかった。
アリーはヘンリーによく似た男の子を産んだ。
金色に輝くクルクルと張り付く髪の毛の男の子の産声が上がると、家族は泣いて喜んでいた。
私は息をすることも辛く、後退りするように部屋に戻ろうとした。
そこで、父が私の方へ振り返る。
「表向きはお前の子供だ。大切にしなさい」
その言葉が耳に入ってから、逆の耳から出てくることはなかった。
疲れた顔をしていたアリーが、さも当然のようにニッコリと笑う。
そこに、ほんのひと匙の悪意さえ感じなかった。
ヘンリーにしてもそうだ。
そこに罪悪感の一つさえも感じたことはない。
全て当たり前で、全て抗うことはできず、私ですらも悪役ではない。
苦痛を感じているなんて、頭の片隅に浮かんだこともないのだろう。
私だけが別の世界に閉じ込められているかのようだった。
廊下に出れば酷く寒いはずの冬、生暖かい部屋にいた私は、その寒さに気づくこともなかった。
涙を作る機能はずいぶん前から壊れている。
アリーの産んだ子供の目に、自分の姿が映るのが怖かった。
壊れた可笑しい人間が、母親になれるわけがなかった。
何かに喜んだことがあったかどうかも思い出せない。
私はずっと死んでいたのだ。
今更死ぬことに恐怖を感じることはなかった。
私にとって死とは、唯一頼れた神だった。
アリーは私を迎えにきた天使だったのだ。
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