二度目の彼

元々リス国の言葉は話せたし、卒業まで大人しくこの学園にいるのも退屈だなと思っていた。

卒業まであと半年を切った頃、学園の共用スペースのベンチで寝転んでいて、そのまま眠りに落ちてしまった。


夢の中で誰かが近づいてくるのを感じていたが、どこまでが夢でどこからが現実なのか境目がなかった。



こちらに気付きもせず、服を脱ぎ出した女のドレスと格闘する姿を、起き上がることもせず見ていた。



月明かりが微かに差し込むだけの一室で、白い肌が浮かんでいった。

誰もいない学園で一体何を始めようというのだろうか。何かしら言葉を発していた時にもっと良く耳を澄ませておけばよかった。 



彼女が着ていたのは普段着とはいえ、ドレスを1人で脱ぐのは至難の業だ。

いくつもの紐を解き、ピンを外し、幾つもの布を外していく。

侍女がどこにピンを留めていたか、紐がどこにあるのか、把握していなければ脱ぐことはできない。



彼女は苦戦はしながらも順調に脱いでいった。

何度も自分だけで脱いだことがあるのだろうか。

姿勢から見ればきちんと教育のされた上級貴族であることはすぐに分かったが、顔が見えないので誰かが分からない。

ロッカーを使っていると言うことは同級生であろうと当たりをつけて、暫しそのまま眺めていた。

完全に声をかけるタイミングを失ったので、あちらが気付くまで楽しませてもらおう。



気付かず出て行けばそれでいいと思っていたのに、彼女は嵩張るドレスをロッカーに詰めると、月に導かれるように窓際に向かった。



あぁ、グワマン公爵令嬢か。



月明かりに透ける髪がとても美しいと感じた。

簡素なワンピースを着ていても仕草から気品を感じる。

高い教育と、本人の資質を感じるのには十分だ。



「この学園も二度と来たくないわ」



そう呟いた声は、ひどく寂しげに思えた。

引き寄せられるかのように彼女の元に足が向いた。

いつも隙もないほど気を張り詰めて、悪い噂話は相手にしない、典型的な優秀なだけで何も出来ない娘だと思っていたが、案外分からないものだ。



興味本位だった。

どうとでもなるだろうと、彼女の希望であろう家出を手伝うことにした。

それが面白そうだったからだ。




格下の侯爵家の婚約者と妹は何度も見たことがあった。

知らない人が見たら、妹のことを婚約者だと思い込んだだろう。

それ程に近い距離にいる二人を見るのも不快に感じていたので、家出で間違いないだろうと確信していた。



「彼女の婚約者であるヘンリーは婿入りだから、黙っているなら公爵家はそのうち妹の方に家を継がせることになるんじゃないか?」



「いや、公爵家に損がないように調整中なのでは?」



公爵家が明言していない以上、表面上はヘンリーも未来の公爵家の一員として扱われていたが、もし婚約を結び直し、妹を後継者に指名して継がせるつもりにして、妹とヘンリーでは公爵家は少なからず衰退の一途を辿るだろうと考えられている。

今後の付き合いを考えだす者も既に何人もいた。



婚約破棄をしてヘンリーを切り捨てても、妹の方はもう縁談は選べる立場にないが、姉の方はぜひ嫁に欲しいと婚約破棄希望者が控えている。

婚約破棄したとしても、家督を継ぐのが妹になることが濃厚ならば、願ってもないチャンスだ。

優秀な嫁はどの家も欲している。




彼女には同情の目が多かったにしろ、蔑ろにされていることが噂されていても顔色一つ変えずに背筋を伸ばしていたのは強がりだったのだと漸く分かった。




その姿を見て、もしかしたらグワマン公爵家は侯爵家に何か負い目があり、許すしかない状態なのかもしれないと考えたこともあった。

公爵家として強く出られない理由の一つは相手が妹だという点かもしれないという、世間一般の考えも過ぎりはしたが、そうするとその状態を現在まで良しとしている彼女自身にも甘さを感じた。




だから、優秀ではあるが、頭でっかちで行動出来ない女性として興味を引かれることは無かったのだ。

婚約者に恵まれなかった不幸な女性の一人という位置付けだった彼女が、全てを捨てて家を出ようとたった一人で夜の学園に忍び込んできた事実に驚いたし、興味が湧いた。



ーーこんなに面白い女だったのか。

親の言いなりで終わる女ではなかったのだ。

彼女の名前は何だったか…エリー…

そうだ。グワマン公爵家のエリザベス・テイラー。



「エリザベス、こんな遅くにどこに行くつもりだ?」





普段動揺なんて見せることのない彼女は、こちらから声をかけた瞬間からずっと狼狽えていたし、感情を隠すことなんて出来ていなかった。



小さなバッグを取り上げて担ぎあげれば、彼女は逃げることは出来ない。



学園をこっそりと出る時には、仕方なく地に足をつけることを許したが、決して手は離さなかった。



優秀で、過去を捨ててしまえるような度胸もあり、用意周到な彼女を手放す気にはならなかったのだ。



予めもしもの時の話をつけてある雑貨屋の荷馬車に紛れて追っ手を掻い潜り、捜索範囲を広げて捜索が疎かになるであろう朝一番に王都を出る予定だったらしい彼女を、なんとか言いくるめるのも一苦労だった。

彼女は思った以上に頑固だ。



「殿下!私はもう歩けません!これじゃあ逃げられない!」




追手を避けながら説得するのにグルグルと街を走っては歩き、走っては歩きと繰り返し、彼女の足は限界を迎えていた。

靴までは用意しなかったようだ。



普段使いの低いヒールでも、歩くのには適さない。

彼女には悪いが、それを利用しなければ彼女を頷かせることは出来なかっただろう。



「俺の勝ちだな。行くぞ」



何度目か数えられないほど、短時間で彼女を何度も担ぎ上げていた。

決してレディにすることではないと理解はしているが、それが適切であろうと思った。

片腕ですっぽりと収まる彼女が一人で逃げようとしていたとは恐ろしいとさえ思う。



酒に酔った連中に紛れるのには都合がいい。

ワガママな妹を連れ戻しに来た兄のように、捕まえた小さな妹を諭しながら裏通りを歩いた。



彼女がドレスから平民の姿に着替えていることに追手も気付いていないようだった。

身、一つで出て行った。

その印象を覆すのは中々に難しいのかもしれない。



彼女との体格差と、ワンピースが彼女を幼く見せたのもある。



暗がりで見れば、自分の着ている服の仕立ての良さも見逃される。

ラフなシャツ一枚だったことが功を奏した。



運は俺に味方していた。



見逃されることが分かれば目的地にまっすぐ向かえる。

バリシネスの息がかかった店に裏口から入ると、滞在しているバリシネスが所有するロッジに連絡を入れた。



そうすればすぐに内密のうちに出国の準備が整う。

数日後に何かしらの理由をつけて手続き上の出国をすれば、不審に思われることはない。

理由があれば自分だけ戻ってきてもいいだろうと、僅かな従者と護衛を連れて夜のうちに王都を出ることにした。



公爵家の騎士達と検問さえクリアすればいい。



侍女達と同じ服を着せればいいと思っていたが、着替え終わった彼女は綺麗に結い上げてあった髪の毛を胸下で切り落としていた。

他の侍女達と長さを揃えたと聞いて、開いた口が塞がらない。



切りっぱなしの髪を整える程度に直してもらい、キャップを着けて髪を入れ込んだところで、髪を切ったことが正解だったと話している声が聞こえた。


長すぎると薄い生地のキャップはモコモコと形を変えてしまうらしい。



ーー侍女は見苦しくならないギリギリまで伸ばしているということか。

彼女がいなければ知ることもないことだった。



貴族の娘の髪を短くしてしまったことへの罪悪感が湧き上がってくる。

そこでやっと、これはもう失敗は許されないのだと気付き、出発直前まで作戦を練り直した。



侍女に紛れて馬車に座っていれば、チラリと中を覗き見た検問官はそれ以上関心を寄せることはなかった。

彼女はまだ王都を出ていないと判断されていたと思うが、まだ騒ぎは大きくなっていない為にチェックは緩かった。



途中で止められた公爵家の家紋を縫い付けた騎士達の方が念入りだったほどだ。騎士に呼び止められて馬車の中を改められたが、それでも侍女には目もくれず、荷馬車の中をチェックしていた。



人員の入れ替えの予定で国へ帰るつもりだったが、貨物船に荷物の一部を届けることになり、夜の内に出発することになったと言えば、騎士達も納得した。



荷馬車の中は王都で買い付けたということにした布地やカーペットだ。

すぐに用意できる物がロッジの中にある物だけだった為に敷いてあるカーペットを引き剥がすことになった。


だが、そのおかげでそれらしい理由をつけることが出来たので、禿げ上がった屋敷の手直しは雰囲気を変えることにして、夜中に頑張ってくれた部下達には金で納得してもらおう。



「冷えてはいないか?」



形ばかりに港に寄り休みをとると、侍女達と比べても華奢な身体が目に付いた。

ドレスを纏っていては気付かなかったが、比べてしまえばやはり細すぎる。



抱き上げた感触を思い出してため息を付いた。



「やはり、連れてきてしまったことを後悔されているのですか?」


「いや、そうじゃない。責任は最後まで取らないといけないなと決意したところだ」



最初から1人で逃げる予定だったのに。とても言いそうな誤解ぶりに、口からは即座に否定の言葉が出た。



湿った潮風が彼女のスカートを靡かせる。



「ふふふっ。マーティン殿下、その言い方ではこのまま結婚でもしそうな言いぶりですわ」



思わず溢れたというような笑みに侍女の服はよく馴染んだ。



ーー彼女はこんなふうに控えめに笑うのだな



「まぁ、それも楽しそうでいいかもしれないな」



そう言葉にした後に、何を言っているんだと慌ててこれからの予定を話し合う。

王国を出るのは早い方がいい。



「本当にどこでもいいのなら、海沿いのリーベア国へ行ってみたいです」



その一言で、北西の国境の街を目指すことに決めた。

この旅は、彼女の人生だけを賭けた旅だ。



無事に国境を超えたところで、リス国の情報を確認したり、バリシネスにお伺いを立てておくことは忘れなかった。



持つべきものは信用のおける身内だったが、彼女はその身内に恵まれなかった。



「お前はどうして家を出ようと思ったんだ?」


「今更それを聞くのですね!?聞かれることはないのだと思っていました」




行動を共にして1週間目のことだった。

彼女はもう、従者に紛れることもない。



「私、もう…死にたくなかったんです」



しばしの沈黙の後、ポツリと呟いた彼女は、ずっと逃げる準備だけはしていたけど、あの日は本当は家を出るつもりはなかったのだと話し出した。




どうとでもいいくるめて、婚約を妹と結び直してもらう予定で、婚約解消を願い出た。

どうしても無理ならば家を出ようとは前々から思って、でもそれは準備万端な状態での予定だった。

結婚までに家を出られればそれでいいはずだった。

ロッカーに隠しておいた物を頼りにして生きていくつもりは全くなくて、話をしている内に、不思議なくらい説得しようとしている自分が馬鹿らしくなってしまって家を出てしまった。



家を出てしまえば帰るだなんて考えられなかった。



「どうせ死ぬのなら、彼らのいないところで死にたいと思ったんです」


「手を貸したのに、死なれては困るのだが」



この先に死が待っているかのように語る彼女に困惑する俺に、彼女はふわりと笑みを浮かべた。



「もしかしたら、もう、死なないのかもしれません」



彼女も困ったように眉毛を下げて笑うので、つられて同じ顔をしていた俺も、へにゃりと笑うことになった。



この1週間で、仮面でも被っているようだった彼女のいろんな表情を見つけることが俺の趣味となっていた。

リーベアへ着いたら、これほど一緒に時間を過ごすことはなくなるだろうと思っていたが、俺は気付けば彼女の隣にいた。



ハープシゴートを彼女が熱心に弾いている時も、本を読むときでさえ彼女と一緒に過ごした。



「あまり一緒にいると、語学が身に付きません!」



そう怒られる時もあったが、そう言われた日も結局日が落ちるまで同じ空間にいた。



周りから見れば婚約者同士の旅行のように見えただろう。

寄り添うことは決してなかったが、同じ空気を吸って過ごす時間が永遠に続くことを願っていた。




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