07 明日の僕に伝えたいことⅢ







 花音は、頭を冷やしたいと言って、家を出ていった。

 俺はどうしたらいいかわからないまま、冷たい床の上に転がっていた。

 夕方、家のチャイムが鳴った。


「なんか、俺の陽くんピンチセンサーが働いたんだけど。大丈夫?」


 チャイムを鳴らしたのは、ヤマトだった。

 意味わかんねぇなと思いながらも、俺はヤマトに抱きついて泣いた。

 よしよし泣くな泣くなと、ヤマトは俺の背中をポンポンと叩いた。




 ヤマトは事故のあとからずっと、俺の店で働いてくれている。俺が忘れてしまったレシピも、ヤマトに教えてもらったと、ノートに書いてある。


「ヤマトは……花音が妊娠してたの、知ってた……?」

「当然。花音が陽くんに話せなかった気持ちも、わかるよ」

「……なんで?」


 玄関先に座ったまま俺とヤマトは、向かい合って話をした。

 俺が聞き返すと、ヤマトはふん、と鼻を鳴らす。


「単純に、言いづらいよね。

 陽くんは家族死んだことも結婚したことも曖昧にしかわかってねーのに、子供のことなんか言ったらもっと混乱するだろうし……つらいだろうし。

 あとは、陽くんのこと抜きにしても、花音自身話すのがつらかったんでしょ」


 俺がノート片手に花音の話を聞いて、たくさんたくさん考えて、それでやっと理解したことを……ヤマトは簡単に言ってのけた。

 自分はここまで役立たずなのかと感じ、言葉が出なかった。


「……陽くん、花音のこと、もう手離していいの?」


 ヤマトの言葉に、眉を寄せた。


「陽くんが頑張らなきゃ、花音は陽くんのそばにいられないよ」

「俺が……がんばら、なきゃ……?」

「そう。陽くん、記憶無くしてからずっと自分のことで精一杯なんじゃない?

 花音の為に何かした覚えある? ノートに書いてある?」


 ノートをいくら見返しても、花音が俺を支えてくれたことは書いてあっても、俺が花音になにかしたということはひと言も書いてない。


「陽くんが大変なのわかってるから、花音は自分の悩みまで話せないんだよ。逆の立場だったら陽くん、花音に自分の悩み相談する?」

「……し、ない……できないと、思う」

「でしょ?

 でも、言うタイミングなかっただけだと思うよ。聞かれれば花音は、ちゃんと話したと……まぁその、聞くってのがそもそも、陽くんには難しいんだけど……」


 昨日までの俺が花音にどういう態度をとっていたかはわからないけど、たぶん俺はわざわざ、花音に「悩みを話して」とは言わないだろう。

 これまでならまだしも、こんな状態になったいまは、きっと考えもしない。


「工夫次第だとは思うけどね。

 変な感じだけど、毎日10分、悩み相談の時間をもうけるとか。今日は何が辛かったとか、半年前何に悩んでたとか、話したり。

 だからさ……」


 言いながらヤマトは、両手を俺の肩にポン、とのせた。

 そして、めずらしく真剣な表情で言う。


「どうせ忘れるからって、諦めんなよ」


 ヤマトの言葉に、はっとした。


 ヤマトが、頑張らなきゃ、と言った意味がやっとわかった。

 花音が俺に対してやってくれてるように、俺も、花音の気持ちを理解しようと努力しなきゃいけないんだ。

 心がけるだけじゃいけない、行動しようと決めないと、上手くできない。俺は“障害”を持ってるんだから、今まで通りじゃダメなんだ。


「でも……花音に、迷惑……だよ。そんなことしなきゃ一緒にいられないなんて……」


 そう思っても、弱気になってしまう。

 俺と一緒にいるということは、俺を“介護”しなきゃならないということだ。

 花音はまだ若い。俺と別れて、別の人生を歩んだほうが、きっと、よっぽど幸せだ。


「……ちょっと来なさい」


 ヤマトは立ち上がると玄関を出て、となりの店舗まで俺を連れてきた。


「レジの下にあるノート、見てみ」


 レジの下の棚をのぞくと、青い表紙のノートが1冊、ぽんと置かれていた。

 表紙には、『お客さんリスト』と書かれてある。


「陽くん。島木さんの“いつもの”わかる?」

「え……」

「野菜ニンニクアブラ増し増し。記憶なくす前は陽くん、ちゃんと覚えてたんだよ」


 島木さんは、俺が店を継ぐ前から……たぶん今も来てくれてる、常連さん。

 俺の記憶にある島木さんには“いつもの”なんてなくて、気分しだいでいろんなものを注文していた。


「それ、陽くんが記憶なくした後に、花音が作ったの」


 ノートを見ると、常連さんの名前がずらりと並べられ、そこにいつも常連さんが注文するメニューが書かれていた。

 味の好み、嫌いなもの、何曜日に来る、土曜日に連れてくるのは愛人……など、お店に来た時に必要になりそうな情報が書かれている。


「花音が病気になったりしたら、それこそ店が回せなくなるから……その時はノート参考にしてって、言われてたんだ」


 几帳面に50音順に並べられた、お客さんの名前。

 これを作るだけでもきっと、大変だったはずだ。


「陽くんに会ったとき変な顔されないよーに、お客さんとか友達に陽くんの記憶のこと説明して。誰に会ったかわかるように写真撮って、まとめて……」


 わかっていたけど、わかってなかった。ノートに書かれた内容だけじゃ、深く理解することはできない。

 いつも助かるなぁとか、そんな簡単な感想じゃ済まないくらい、きっといろんなことをやってくれてるはずなのに。


「自分と結婚したことを覚えてない相手に、『結婚してるんだよ』って言うのがどれだけつらいか。家族のこと聞いて毎日泣き出す陽くんをなだめるのが、どれだけつらかったか。

 でも花音は1回も、弱音吐いたことなかったよ」


 わかっていた。わかっていたけど、やっぱり……わかって、いなかった。

 俺は、本当ならもっともっと、大袈裟すぎるくらいに、花音に感謝しなきゃいけないのに。花音を大事にしなきゃいけないのに、俺は、なんにもわかっていなかった。


「“そんなことしなきゃ一緒にいられないなんて”って、陽くん言いましたけど。花音は“そんなこと”をずっと1人でやってたんだよ。

 陽くんがクソ頑張ってんのはわかってるよ。俺が陽くんの立場だったら人生投げ捨ててると思う。

 でも陽くん、花音のことだけは、もうちょっと頑張ろ。2人なら多分、上手くいくよ」


 ぶっきらぼうな言い方だけど、ヤマトの優しさは痛いほど身にしみた。

 さっき花音に言ったことを、心底後悔した。

 二度とあんなふうに、花音に言っちゃいけない。

 絶対に、なにがあっても、今日のこの感情を忘れちゃいけないと思った。


「……まぁ、花音と別れても安心して。俺がもらうから」


 つけ加えるように言ったヤマトの言葉に、俺は顔をしかめた。


「だ……ダメ! 絶対……お前なら安心だけど、でも、いやだ!!」

「そう? じゃあ頑張んなよ。俺はいつでも準備できてるよ」


 そうだ、俺にとってもヤマトにとっても、花音は初恋の相手であり憧れの人だ。

 初恋ってのは特別なもの。すきあらば、と待ちかまえていても不思議じゃない。


「ふふ、懐かしいなぁ。プロポーズの前も陽くん同じこと言ってた」

「はぁ?」


 ニヤけるヤマトに怪訝な顔を向けると、ヤマトはますますニヤニヤと笑う。


「『お前がプロポーズしないなら俺がもらう』っつってケツ叩いたらすげー怒って、その日のうちに母ちゃんに相談してやがんの。単純っつーかバカっつーか……お前の母ちゃんから聞いた時は爆笑したぜ」


 あまりにヤマトがニヤニヤと笑うので、一発殴っておいた。


「いてーなお前! もっと感謝しろ! 俺もいたわれ!」

「はいはい、ありがとうございます」


 いつもいつも、ヤマトに助けられてきたんだろうと思う。

 ヤマトに、というのがちょっとムカつくから、このことはノートのすみっこにこっそり書くだけにとどめておこう。








 そのあとすぐに、花音に連絡した。花音はまた実家に帰っていた。

 電話でとにかく謝りたおして、ヤマトに花音の実家まで車でつれてきてもらった。


「どのツラ下げて来たんだ」


 玄関のチャイムを押す前に、花音のお父さんが家から出てきて言った。


「花音がどんな想いでお前に寄り添っていたか、わかるか!!!」


 久々に会うお父さんは、少し白髪が増えたように感じた。お父さんの声は、震えていた。

 お父さんは、俺の知らない1年半を知っている。俺なんかより、もっと、ずっと、花音の気持ちを理解してる。


「陽太……」

「花音!」


 花音と花音のお母さんも、お父さんの後ろで心配そうな顔を浮かべている。

 花音はあの後もきっと泣いていたんだろう。充血した目が、痛々しい。

 いつの間にか、粉雪が舞っていた。

 乾燥した肌が、ぴりぴりと痛かった。


(がんばるって、決めたんだ……)


 今日までの俺はたぶん、ヤマトが言ったように、自分のことしかがんばれてない。

 もう一度チャンスをもらえるなら。自分と、花音のために、がんばりたい。


「申し訳ありません!!!」


 地面に手をつき、頭をさげた。

 地面はひどく冷たかったけど、そんなことかまいやしなかった。


「……自分のことばっかで、花音の気持ちを……いつも、考えているつもりになってました」


 花音と共に生きてるということを、俺はわかっていなかった。


「考えてるつもりで、ほんとは何にも考えてなくて、わかってなくて……」


 2010年7月4日から12月24日の間に生まれたであろう、花音に対する責任や夫婦になるという意識がすっぽり抜け落ちた、俺。

 夫婦として過ごした10ヶ月の記憶も失くし、自分の家族が死んだことさえ忘れた、俺。


 わかっているようでわかっていないことばかりだった。

 今日のことだって、明日には忘れてしまう。

 記憶として残せなくても、なんとか、どうにか、今のこの気持ちを明日の俺にひとつ残らず伝えなきゃいけない。


 がんばるしかないんだ。

 中3で受験戦争を乗り越えて、高2で花音に告白して、去年花音にプロポーズして……俺は、やればできる子なんだ。


「花音のことが大好きです!! いまでも愛してます!! 世界で一番、大事な人です!!!

 もう、絶対に、花音を傷つけません!!!」


 涙を、必死でこらえた。

 記憶はないのになぜか、花音に対する想いだけは、日に日に増している気がする。

 大事な花音を、俺の手で、どうにか守れるようになりたい。


「花音! お義父さん、お義母さん!

 もう1回だけ……チャンス、ください!!」


 地面に頭が付くほどに、頭を下げた。

 手足が、じんじんと痛かった。さわさわと雪が落ちる音だけが、聞こえていた。

 いく秒かするとその音に、花音の泣き声が混ざった。


「私も、まだ、陽太と……一緒に、いたい……!」


 心が、痛かった。

 顔をあげなくても、花音が玄関先でうずくまって泣いているとわかった。

 俺も、おさえていた涙が次々と零れてきて、さらに顔を上げられなくなってしまった。

 なにも考えられず、だけどいまはとにかく、花音を抱きしめたかった。

 そしてその記憶を、体温を、感触を、絶対に忘れたくないとも思った。


「……頭を、上げなさい」


 お父さんに言われて、コートの袖で涙をぬぐい、ゆっくりと頭をあげた。


「とにかく……今日は、2人で……話しなさい」


 花音を溺愛していた、お父さん。

 その瞳は、涙でうるんでいた。


「ありがとう……ございます」


 立ち上がって、ゆっくりと頭をさげた。

 花音と結婚しているという自覚が、この時やっと、生まれた気がした。









 ◇◇◇


 粉雪の舞う中、私と陽太は家に戻ってきた。

 暖かいココアを淹れて、私はようやく、自分の想いを陽太に伝えた。

 陽太は一生懸命、私の話を聞いてくれた。

 メモだけじゃ足りないからと、ときどき携帯電話で録音しながら。


「お義母さんのこと……私も、本当のお母さんみたいに思ってたから、つらかった。

 妊娠したことも、うちの母よりも陽太よりも先に、伝えたのよ」

「え! そうだったの!?」

「……せめてお腹の子が生きてたら、お義母さんも……喜んでくれたのになって」


 話しながら、自然と涙がこぼれてくる。

 あれほど話したくないと思っていたことも、なぜか今日の陽太には、打ち明けることができた。


「母ちゃんたぶん……空の上で、俺らの子ども、可愛がってくれてるよ」


 陽太の言葉に、私は目を丸くする。


「それ、陽太……前も言ってた」

「え、そうなの?」

「うん。……でも、嬉しい。陽太が変わってないことが……嬉しい」


 陽太のことを気にしてばかりで、何も言えなかった。それでいいんだと思ってた。

 だけど陽太は、それじゃダメだと言う。


「花音が少しでも辛いとか、俺にヤダなって思うことがあったら、言って。

 何回も同じこと聞くかもしんないけど、でも……花音のこと、ちゃんとわかってたいんだ」


 何度も話すのが辛いと、私は感じていた。でも、何度も聞くことも……何度も聞いているかもしれないと思いながら尋ねることも、辛いんだ。

 お互いが頑張ろうと思える限り、きっと私たちは大丈夫。


「絶対に我慢しないでね。なんでも、言ってね」

「うん、わかった。ちゃんと、言う」


 私は陽太のことが、大好きだ。

 明るくて、一生懸命で、こんなにも私を愛してくれる。大変な想いをしているのに、私を大事にしようとしてくれる。


「花音、ケジメ付けたいから……もっかい、言わせて」


 陽太の、真剣な目。

 私にプロポーズしてくれた時みたいに、いつになく真面目な顔で。


「花音、俺と……結婚して下さい」


 あの時と変わらない、純粋で、ひたむきな言葉。


「記憶に残るまで、何度も、毎日でも……言わせてほしい」


 陽太の記憶に残すのはきっと、難しい。

 でもそれでいい。今のこの言葉を、私は永遠に覚えていられる。


「嬉しい……! ありがとう……」


 たくさんの不幸があったけど、それでもこうして陽太といられることが、私にとって一番の幸せだと、この時強く感じた。

 陽太に抱きしめられたまま、私と陽太は眠りについた。








 ◇◇◇


<明日の僕に伝えたいこと・追記>


僕は花音を世界で一番愛している。

僕のこの人生をかけて、花音を守る。絶対に。



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