第5話
ボクと樽真田さんは、川辺に腰をすえていた。ボクが言ったわけでも樽真田さんが言ったわけでもなくて、なんとなく、そういうことになった。
川は、流れ続けている。先ほどまで海の魚が泳いでいたことも、浮かび上がった文字も知らないというふうに、こんこんと流れている。
「さっきのは一体」
「書き換えたの」
「書き換えた……」
「現象を支配する法則っていうのかな。それを、これでね」
樽真田さんが、錫杖を持ち上げる。傾いた日の光を一心に受けて、だいだい色に輝くそれは、魔法の杖のよう。
魔法。
違う。あれは、魔法なんかじゃない。
あれは――。
ボクが口にしようとしたところで、樽真田さんの指がボクの口へと触れた。見れば、首を振っていた。
「口にしない方がいいよ」
「どうして」
「この世界はそれを認めていない」
「認めてないって」
「そうだねえ。神様がそうしたから、かな」
「神様」
「そ。この世界を作り出した神様が、そうした。そうじゃないと、この理想郷を守れないから。理想郷を後にする人が出てしまうから」
「それの何が悪いんです。嫌なら出て行けばいいし、放っておけばいいのに」
「理想郷は理想でないといけない。そこから出て行く人がいるとしたら、理想的ではないことになる。だって、理想的なら出て行かないはずでしょう?」
「…………それでも出て行こうとしたら」
「さあ。浄土へ行くのか穢土へ行くのか。もしくは消えてしまうのか。その人に話しかけることができないからなんとも」
「この世界はそういうことなんですか」
この世界は神さまによってつくられた世界。
目的はわからないけれども、作為的に構築された世界。
樽真田さんは、頷いた。そこには、寂しげな微笑みを浮かんでいた。
それを見ていると、ボクの胸は、ぎゅっと縮められたみたいに苦しくなった。
「どうして、そんな顔するんです」
「……誰かを苦しめるわけにつくったわけではないの。むしろその逆、ありとあらゆる人を、苦しみから守るための理想郷として、ここはつくられた」
「出て行くのも拒むようなところが理想郷だなんて」
「出て行くことそのものが考えられていなかったの。ここへ移住してきた人はみな、自分の意志でやってきたから」
開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。ボクは、樽真田さんが発した言葉に、すぐさま反論してやろうと待ち構えていた。でも、考えていたことすべて、吹き飛んでしまって、何も言えなかった。
ここにいる人たちは、ここで自然に生まれたわけではない。
ボクは望んでこの世界にやってきた?
意味が分からなかった。だって、その時の記憶が、覚悟が今のボクには一ミリだって残ってはいないのだから。
ありえないとばかりに、樽真田さんを見る。悲し気な目が、ボクを見返してきた。
「記憶を消去されているわけじゃないよ。ただ、この世界がちょっと、熱くなってきているの。あるでしょう。運動すれば誰だって熱くなる」
「地球温暖化……」
「そうともいうかな」
「じゃあ、さっきのは」
「温暖化の結果として生み出されたもの。もっとも、この世界そのものが古いというのもある。記憶に関しては、後者の要因が大きいかな」
いつもならば、理解できないようなこと。ボクが敬遠する類のもの。だけど、今この瞬間に限っては、はなから知っていたみたいに、わかった。
樽真田さん風に言えば、こういうことになる。
世界は輪廻転生を繰り返している。そのスパンは知らないけれど、世界で生活している人々は記憶を失って、何もかもを失い、ある地点から生活を再開する。類人猿が二足歩行で立ち始めてからなのか、樽真田さんがボクの家を訪ねてくる直前なのかはわかりようがないし、どうでもいい。
繰り返しの連続の中で、世界はおかしくなりつつある。こういう例えが正しいかはわからないけども、再生しすぎて擦り切れてしまったビデオテープみたいだ。ところどころ見えなくなったと思ったら、ある日、再生できなくなる。
「いいね、それ。ビデオテープ。今度から、そう言ってみよう。そうしたら、君も理解できるかな?」
「その口ぶり……ボクと会ったことがあるんですね」
にっこりと笑う。そこに、仏とか神様は存在しない。
一人の人間がそこにはいた。
「うん。繰り返しているから」
「どうして、そこまで」
「困っている人を助けたいから、かな」
赤く熟れた太陽に照らされたその顔は、嬉しそうで、でも悲しそうにも見える。
この先に待ち受けているものが何か理解しているかのようで。
樽真田さんの手が、目の前へ差し出される。
手を掴めば、ボクを縛り付けている法則の外へ――世界の外へ出ることができる。それはいいことかもしれないし悪いことかもしれない。すべてが計算された世界にいるボクにはわからないことだから、むしろ悪いことなのかも。
ボクは、もう一度だけ樽真田さんを見た。太陽はすでに山の向こうへと姿を隠してしまっていて、影に覆われた彼女の顔は、黒くなっていてよくわからない。
手をとる。
顔は見えなくても、声が出ていなくても、樽真田さんが驚いたのが何となくわかった。
周囲は真っ暗になり、世界が眠りにつく。
次に目を覚ました時には、世界は再び始まる。そこにボクがいるかはわからない。もしかしたら、この世界から出ているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
樽真田さんとは離れ離れになってしまうかもしれない。
でも、この手に感じた温もりを忘れないだろう。ボクのために何度もやってきてくれたデジタルな比丘尼の存在を。
デジタル・ビクニ 藤原くう @erevestakiba
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