第2話

 緑茶がぬるくなった頃に、大方の質問が終わった。


 聞きたいことは聞けたし、比丘尼――樽真田ルマという存在が何をしているのかは理解できた。


 いうなれば、ボランティアみたいなもの。


 西に飢えている人間がいれば食べ物を分け与え、東に泣いているものがいればどうしたのかと話を聞く。そんなことをしているのが、比丘尼らしい。


「もっとも、私のように旅をしているものは少数でしょうが」


 そもそも比丘尼は、女性の比丘を特にそう言うってだけらしい。比丘というのは、いわゆる僧侶だ。つまり、樽真田さんは僧侶ってこと。その中でも、樽真田さんは、遊行僧に含まれるのだとか。遊行は遊び歩くことではなく、各地を旅しながら説法を説いたり修行を行うこと。「そういう意味では、宗教は違えど聖とか山伏に近いかな」と樽真田さんは言う。


 いろいろな人がいるんだな、とボクは感心してしまう。新卒で出版社に滑り込んだものの、相対するのはろくでもない人間か、ゴシップの種になる哀れな被害者ばかりだったから、すごく新鮮だし、ありがたい存在のように感じられる。


 まさに、仏様って感じ。


 ボクがそう言うと、お世辞はよしてください、という言葉が返ってきた。


「私はまだまだです。悟りは開いてはおりませんし。お釈迦様のように数多の人間を導いたというわけでもありません」


「それくらいのことしてると思うけどなあ」


 手元の資料には、樽真田さんが行ってきた『偉業』の数々が並んでいる。


 崩壊した建物を一夜のうちに建て直した。


 不毛の大地に、作物を育てた。


 何も入っていなかったはずの袋から、容量以上の米を出した。


 人魚の肉を食べたから年を取らない。などなど……枚挙にいとまがない。後半なんか、聖人みたいな話である。少なくとも、何もないところから物は出せない。マジシャンと聖人くらいじゃないか。


「修行を積めば誰にでもできますとも」


「……どんな過酷なことを?」


「それは試してからのお楽しみ、ということで、行きましょうか」


「え、修行なんて、ボクは」


「いえ。そちらではなく――あなたが望むということであればそれでもいいのですが――人助けをしに行くのですが、ついてきませんか。実際に見た方が早いと思いますので」



 空から刺してくる日光は、ボクの体を熱しながら、空気を地面までをも灼熱に染めていく。揺らめく陽炎のような熱気は、それこそ、灼熱地獄のよう。


 四六時中冷房の中で過ごしている現代っ子のボクは、外へ出ただけで、汗が噴き出してくる。温度差のせいなのか頭がくらくらしてくるような気さえした。


 だけども、前を歩く樽真田さんは汗ひとつかいていない。振り返ってボクの様子を窺ってくるその顔は、涼し気。


「暑くないんですか……?」


「暑いけど、これくらいなら」


「これくらいって、アスファルトが融けてるんですよ」


 指さした先の車道は、懐かしの黒い舗装がなされている。太陽を一心に集めるその色のせいか、そこだけドロドロだ。そういうこともあって、舗装は青色へと変わっていっている最中だ。


「地球温暖化がうらめしい」


「……そうだね」


 凪のように静かだった樽真田さんの声に、はじめて感情のようなものが浮かんでいたような気がした。でもそれは一瞬のこと。次の瞬間には、いつもの調子に戻って、ボクへとペットボトルを差し出してくる。


「これは?」


「お水。苦しそうだったから」


 ちょうど喉が渇いていたところ、自販機はないものかと探していたんだ。受け取って、キャップをひねる。あおるように飲む。ただの水なのに、すごくおいしい。液体が渇いた大地にしみこんでいくように、いくらでも飲めてしまえそうだった。


 そうやって三分の一を飲んでしまったところで、気が付いた。樽真田さんは、袈裟を身にまとっている。シンプルなその袈裟にポケットがあるように見えず、バックを背負っているわけでもないのに、どこから取り出したのだろう。それに何より、ペットボトルは芯から冷えていた。


「あの。さっきの水って」


「どうやったでしょう?」


 逆に問いかけられてしまった。考えてみたけども、まったくわからない。わかっていることはただ一つ。魔法のようにどこからともなく取り出したってことだけ。


 これも奇跡の一つってことなのだろうか。だとしたら、考えたって無駄じゃないか。


「わからないです」


「もしもわかったら、私がやっていることが理解できるかもしれないね」


「それは一体」


 樽真田さんは笑みでもって返答とし、歩き始める。答えるつもりはないらしい。

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