デジタル・ビクニ

藤原くう

第1話

 樽真田ルマという女性にアポを取り付けたのは、一週間くらい前だっただろうか。


 わかりました、そちらへ向かいますね。


 そんな返事がやってきたんだけど、ボクは住所を教えていない。そもそも、樽真田さんはインドのあたりを歩いているって話だったから、取材なんて受け付けてくれないだろうと思ってた。うちのような零細出版社からすれば、飛行機代を捻出することもできなかったんだ。だから、電話越しで話を聞こうとしていた。


 だけど、来てくれる。それは嬉しいけども、住所がわからないんじゃ迷子になってしまう。


 慌ててメールを送っても、返事はなかった。


 それで、どうしようかと悩んでいるときのことである。


 ところでボクは、自宅で記事を書いている。テレワーク――ではなくて、出版社の冷房がお釈迦になって室温が四十度を超しているからだ。そうじゃなかったら、ボクはあの狭くてヤニで変色したデスクで、タイピング音を響かせていたことだろう。


 ここ数十年で最も暑い夏がはじめて役に立った瞬間だった。


 まあ、そんなわけでボクは仕事に取り掛かっていたのだ。樽真田さんの情報が中心だったのは、次の記事に彼女のことをまとめよう、というお達しが編集長から出たから。そうじゃなかったら調べなかったに違いない。ボクはくだらないゴシップを集めさせられていたから。


 手元には、樽真田さんの情報がまとめられた紙がある。表には、彼女の写真。肩まででそろえられた黒

い髪は幼げだけど、顔は妙齢の女性という感じでどことなくアンバランス。でも、それが似合っていると思ってしまう自然さがそこにあった。


 と。


 ピンポーンと呼び鈴が鳴った。返事をしてから、玄関へと向かう。


「どちらさまですか」


 そんなことを言いながら扉を開けると、そこに立っていたのは女性。


 手元にあった紙とその女性の顔は一致していた。



「えっと、粗茶ですが」


「ありがとうございます」


 テーブルにグラスを二つ置いて、向かいに座る。


 その女性は、何度見たって樽真田さんだった。でも、そんなのおかしい。連絡したのは、午前中のこと。

やってきたのは午後。彼女が関東圏に住んでいるならわからないでもないけど、いたのはインドだ。東京からインドまでは15000キロ。飛行機で9時間の旅らしい。今調べた。


 うん。さっぱりわからん。


 ボクは樽真田さんを見る。グラスを手に取り、冷えた緑茶を飲む彼女は汗ひとつかいていない。この部屋はクーラーをガンガンにしてるけども、外は地球温暖化のせいか、今日も四十度を超えている。外出すれば汗は噴き出し、出不精なボクはそれだけで倒れそうになってしまう。


「歩いて来られたんですか……?」


「そうですが」


「あの。インドにいられるって話だったと聞いてますよ」


「はい。つい先ほどまでダージリンで、農家のお手伝いを」


「ワープでもしたんですか?」


「ご冗談を」


「ですよねー」


「歩いてきたのです」


「…………」


 冗談かそうじゃないのかわからない。樽真田さんは、口角をわずかにあげて、うっすら笑みを浮かべている。西洋彫刻や仏像にありがちなアルカイックスマイルってやつだ。


 仏像。


 樽真田さんを見ているとどうしても、仏教的なイメージに引っ張られてしまう。彼女が行っている行為もあるけども、その服装のせい、というのもある。藤色の袈裟と頭の頭巾、それから錫杖。樽真田さんの姿は歴史の教科書で見た尼さんと瓜二つ。


 樽真田さんは比丘尼なのだ。


「どうかいたしました?」


 ボクは頭をかく。「さっきのが本当なのかなって」


「どちらでもいいではありませんか。私が今ここにいることが大切だと思いますが」


「それはそうですけど」


「取材ということは、知りたいことがあるということでしょう?」


 確かにそうだ。ボクは、樽真田さんに取材をして、記事を書かなきゃならない。三流ゴシップ紙だったとしても、読者は何かしらのリアリティを求めていて、インドから東京まで歩いてきたとかワープしてきたとか、そんな非現実的なものを求めているわけではないのだ。


「は、はい。えっと質問ですけど」


 ボクはボイスレコーダーのスイッチを入れる。ボクは記憶力が悪いから、こういったデバイスは欠かせないし、編集長から記録しろと言われている。質問だって、編集長が考えている。


「比丘尼ということで、何をやっているのか教えていただきたいんですけど」


「大したことではありません。困っている方がいれば、彼らを助ける。それだけです」


「故人にお経を上げたりなどは」


「頼まれたら行いますが、私は旅していますから、たいていは困っている人々を助けることになりますね」


 次の質問を見て、ボクは嫌気がさした。こんな下世話な質問を考える上司と、それを口にしなきゃいけない自分自身に。


 ボクは、目の前の女性に目を向ける。カーテンとカーテンの隙間から漏れてくる光で、後光が差したかのような恰好の樽真田さんはかなり神々しい。正直、こんな質問したくないんだけど、食っていくためにはしょうがない。


「……そこには性的なものもあるというお話を聞いていますけども、そこのところはいかがでしょうか」


 緑茶をかけられるかビンタされるか、はたまた玄関の錫杖で刺されるか。何かしらの怒りの感情が向けられるに違いないと、ボクはなんとなく覚悟していた。


 だけど。


 樽真田さんは瞳を丸くさせて――それだけだった。むしろ笑っていて、びっくりしたくらいだった。


「どこの誰が言ったのかは知りませんが、そんなことはありませんよ」


「そ、そうですか」


 ボクは頭を下げて、手帳にメモする。


 内心では冷汗をかいていた。というか、手には汗がにじんでいて、ペンが握りにくい。手帳に走る文字は、絡み合った糸のようで、文字になっていなかった。落ち着いてください、という声がやってきたけど落ち着いていられるか。


 怒らないしそもそも機嫌を損ねることもない。それが、怖かった。


 この世の人じゃないみたいで、怖い。


「怖がらないでください。私は、神様とかそんなのではありません。一介の人間なのですから」


「人間は、インドから歩いてやって来ないと思いますけど」


「本当かどうか確認いたしましたか?」


「う、嘘だってことですか」


「さあて、どうでしょうね」


 ふふふ、とルマさんが言う。


 彼女のペースに乗せられっぱなしだ。なんとなくだけど、この人には勝てない気がする。

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