A6-1.とりあえずこの何もない死んだ大地から離れて、森に向かいましょう。

 師匠は、どこにもいなかった。残されていたのは、着替えと、荷物と、お手紙。毎日ぐるぐるしていたはずの滝も何故かなくなっていて、いつも使っていた家具も消えていた。師匠が消したのだろう、元々何も無かったところから出てきた家だし、里に滝があるなんて話も聞いたことがなかった。つまり、全部師匠が魔法で作っていたのだ。


 とてもわたしでは真似出来ないことに、また師匠との差を思い知らされる。わたしが一歩進んでいる間に、二歩も三歩も先に行かれているような感覚。いや、本当はもっとずっとずっと遠いところにいるのを、わたしに見えるところまで近づいて見せていただけだったのか。それもそうだ。わたしが数年教えてもらったくらいで追いつけるようなら、賢者なんて呼ばれていないのだろう。


 気を取り直して師匠からの手紙を開くと、長々と手紙が書かれていた。要約すると街に出かけて色んな経験をしておいでという内容なのだけれども、変に話が飛んだり話題がコロコロ変わったりしているせいで無駄に長くなっている。師匠の手紙だ。師匠が話している時とそっくりだ。いつも無駄に長く話すくせに、雑談の中に大切なことを混ぜて話したりするせいで油断出来ない、師匠の授業と一緒だ。


 十枚にわたって長々と書かれた手紙を読み切って、師匠が用意してくれた旅衣装に着替える。動きやすさと着心地を優先した普段着は、森の中を歩くには不向きらしいからだ。起きてる時も寝ている時も滝でぐるぐるしている時も、この数年間一度も脱がなかったこれを脱ぐのは抵抗があったが、旅のためにと師匠が用意してくれたのだから、きっとこれを着ていくべきなのだろう。


 お手紙の中に書かれていたとおりの手順で旅衣装に着替え、荷物の中に入っていた方位磁針を使って行き先を探す。師匠いわく魔法を使えば方位磁針がなくても方角くらいわかるらしいが、その魔法をわたしに教えてはくれなかった。あれ、わたしもしかしてできが悪くて捨てられた?


 きっとそんなことはないと自分に言い聞かせる。だって師匠は、興味が無いものには全く意識を割かない人だ。もしわたしに期待しなくなっていたのなら、こんなふうに旅支度を整えることなんてせず、他所にあるというエルフの里に放り込むだろう。さすがにここに一人で放置するほどわたしのことを慮らないとは思いたくない。


 怖いことを考えて一人で落ち込みつつ、そんな気分のまま歩いて、里の跡地から出る。初めて入る森の中。戦士たちが糧を狩ってくる大事な場所で、師匠が時折出かけては魔物を取ってきた場所でもある。


 とても危険だからは言ってはいけないとみんなに言われていた場所で、それを守っていたら言いつけを破ったミネスくんに馬鹿にされた場所だ。あの時はダメって言われたことをしてる方が悪いと思っていたけど、こうして本当に入らないといけなくなると、誰か一緒にいてくれる人がいるうちに入っておけばよかったと思う。


 たくさんの木。たくさんの植物。里の跡地からはいなくなってしまった鳥の声が、虫の声が聞こえる。久しぶりに聞くそれらの音は、なぜだかとっても不気味だった。


 音が、大きい。道が、暗い。ずっとどこかからなにかの音が聞こえるし、まだ朝のはずなのに、雲なんて全くなかったのに、びっくりするくらいくらい。


 ちょっと腰が引けながら歩き出して、周りの全部が知らなくて怖いものに見えて、ビクビクしながら進んでたら水溜まりで滑って転んだ。


 咄嗟に手を出して頭をぶつけることは避けられたけど、膝も手も水溜まりの中についてしまった。泥水が跳ねて、師匠がくれた旅衣装が汚れる。普段着ほどでは無いが動きやすくて、何より久しぶりの新しい服だったのに、もう汚れてしまった。足を踏み出す度に靴の中がぐちゅぐちゅ鳴るし、濡れた布が体に張り付いて気持ち悪い。今までなら濡れても落っこちてる間に乾いたのに、師匠がいないと落っこちることも出来ない。


 なんだか心細くて、悲しくなる。師匠に会いたい。会って、やっぱりもっと一緒にいたいって言いたい。


 なのに、師匠がどこにいるのかすら、私にはわからなかった。お手紙の中には、時が来ればまた会えると書いてあったけど、それがいつかは書いていなかった。


 わたしが大きくなったら、その時だろうか。わたしが強くなったら、その時だろうか。わたしはもう今すぐにでも師匠に会いたいのに、いつになったら、いつまで我慢したらその時になってくれるのだろうか。


 泣きそうになりながら、我慢してまた歩く。だって、師匠はわたしを見守っていると言っていた。さすがに本当に見られてはいないだろうから、あれはきっと、いつでも見られていると思ってがんばれと、サボったり、簡単に逃げたりするなと言う意味だ。なら、転んだくらいで泣いてはいけない。そんなの、師匠の弟子としてふさわしくない。


 そう考えると、力が湧いてきた。やる気が湧いてきた。そうだ、わたしは師匠の弟子なのだ。何をした人かはよく知らないけど賢者と呼ばれて里でもてなされていた人の、わたしよりもずっとすごい人の弟子なのだ。そのわたしが、こんなことで暗くなってちゃいけない。くよくよして、逃げようとしちゃいけない。師匠の評判を落とすようなことは、できないのだ。


 そう思って顔を上げて歩き出したら、今度は木の根っこにつまずいて転んだ。膝をすりむいて血が出てくる。新しくできた傷にさっきついた泥水が滲みる。怪我をのままにするとバイ菌がついてよくないと師匠に言われたから急いで魔法で治す。ところでバイ菌って何だろう。


 顔をあげすぎるのもよくないのだとわかったので今度はほどほどに足元を見ながら歩いて、突然横から聞こえた音に変な声が出てしまう。そのままびっくりしてバランスを崩せば、その先にあったのはまた水溜まり……に見えた、生臭い液体だった。ねっとりと粘度の高い液体に落ちて、服の中まで臭い液体が入り込む。全身液まみれ、師匠が用意してくれたリュックは完全防水と書いてあったので、着替えや食べ物には影響がないだろうことが、唯一の救いだろうか。


 師匠の手紙に書いてあったことを信じるなら、この臭い粘液はとある魔物のおしっこに近いものだそうだ。それ自体にはその匂いにさえ目をつぶれば害はなく、かなり食物連鎖の高い位置にあたる魔物のものなおかげで、持ち主にさえ見つからなければ大体の魔物を避けてくれる効果もあるのだとか。


 とても役の立つものだということはわかったけれども、わたしにはこの臭いをずっと纏ったまま移動する覚悟は持てなかった。なんか臭くて汚いし、この状態で怪我したらそれこそバイ菌がひどいことになりそうだ。


 それにそんなことよりも、こんなところにおしっこがあるということは、この辺りはおしっこのにおいだけで魔物が逃げ出すような魔物の行動範囲ということだ。わたしなんかは、見つかってしまったらひとたまりもないだろう。


 そんな事実とあまりの臭いに半泣きになりながら、魔法で水を出して頭から被る。ちゃんと流したはずなのにまだ臭いは残っていたが、それでもなんもしないでいるよりはずっとマシだった。


 師匠の弟子として情けないところはとかあんまり考えられなくなってきて、やっぱり師匠が恋しくなったころで、不意に異質な気配を感じ取って、体が無意識のうちに警戒態勢をとった。


 おかしなものは、音と臭い。先ほどまで聞こえていなかった、何やら水っぽい音が聞こえてきて、それとほぼ同じタイミングで漂ってきた、ほのかな甘い匂い。何かとても美味しそうな匂い。


 自然と足が向かいそうになるけれども、その匂いのことは師匠のお手紙に書いてあったので知っていた。お腹が空いていたら危なかったかもしれないけど、今のわたしはまだそれを思い出して警戒するくらいの理性が残っていた。


 その魔物は、ローパーと呼ばれる魔物。絶対に近寄ってはいけないとだけ書かれていて、近寄ったらどうなるのかは具体的にはなにも書かれていなかったけれど、とにかくおぞましい結末を迎えることになるから、近寄ってはいけないことだけは確からしい。基本的には使ってはいけないと言われている火魔法もこれを相手にするときだけは使っていいと書かれていた。


 つまりは、わたしには教えられない理由があるけれど主、それだけ恐ろしい魔物だということだ。それだけわかっていれば、わたしのすることは決まっている。師匠が教えてくれた魔法の中で一番遠くから狙える魔法を使ってあの魔物を焼き殺すのだ。


 距離を取って、相手からはバレない位置から狙いをつけて、魔法を放つ。甲高く耳障りな悲鳴をあげながら、どんどん小さくなっていく魔物。かわいそうなようにも思えるが、師匠がそうするべきだと言っていたのだからそうするのが正しい。真っ黒になった魔物に、あの日のマルヤちゃんの姿が重なって見えて気分が悪くなったが、なるべく近寄らないようにといわれたので距離を取ったまま急いでそこから離れる。


 そのせいで回り道になってしまって、最初予定していた進路からは少し逸れてしまったが、このくらいならば少しがんばれば十分に修正できるはずなので、方位磁針にまた頼って道を修正した。そのまままた歩き始めて、最初の頃よりは多少ましになったものの相変わらず転んでいるうちに、日が暮れて夜になる。


 日中ですら暗かったのに、さらに暗くなった夜の森の中を歩き続けるのは無茶なことくらい、わたしにもわかっていた。それでも進まないといけないと思ったのは、このくらい中で休んで、寝てしまったらきっといつの間にか襲われていても気付くことができないという確信があったことと、なんだかとても嫌な予感がしたから。


 そんな根拠の薄い理由でも、そうしなくてはいけないのだと思ってしまった。そして、わたしが進んだ距離を考えれば、きっと今夜と明日の昼間に頑張って歩けばこの森を抜けることもできるはずだった。


 それなら、無事でいられるかわからない森の中で一日か二日休むよりも、休憩を諦めて進んだ方がいい。そう思ったから先に進むことにして、それはたぶん正解だった。


 暗くなって、進むか休むかを選んだ場所、自分の姿を隠しながら休憩が取れそうだったあ場所から少しだけ離れたところで、わたしは一匹の魔物に襲われることになったのだから。きっとあそこで休んでいたら、油断していたところか眠っていたところで見つかって、呆気なく食べられてしまうことになっていただろう。

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