第3話 次なる難関

 無事に婚約破棄をして命の危険から脱することに成功したラダベルは、ティオーレ公爵邸の公爵の執務室に呼び出されていた。窓を叩きつける音の原因は、大量の雨粒。豊作だと喜ぶまでもなく、植物がしなびて傷んでしまうのではないかと心配を寄せる。

 執務室を守護する軍人たちは、室内にいる部屋の主に確認を取り、木製の茶色の扉を開けた。


「失礼いたします」


 最低限の礼儀れいぎを払って、入室する。背後で扉が閉まる音が響く。閉ざされた空間に、執務椅子に座る人物とふたりきり。最悪の展開に、ラダベルは今にも心臓が口から飛び出そうな緊張を覚えた。


「来たか」


 低い声色で呟いたのは、エーヴェルト・イェルリ・デ・ティオーレ。ティオーレ公爵家の当主にして、ラダベルの実父である。レッドスピネル色の髪は短いせいか、常にしわの寄った額があらわとなっている。切れ長に吊り上がった瞳は、トパーズ色。宝石の如く光る美しい色味の瞳は、無機質むきしつなレンズの向こう側に隠れてしまっていた。美丈夫であるが至るところに刻まれた怒りの皺から、自然と恐怖の感情が勝ってしまう。

 エーヴェルトは、娘であるラダベルが来たというのに、一瞬足りともペンを置かない。書類に目を通し、ひたすらにサインを記していく彼は、ようやく口を開いた。


「陛下より手紙が届いた。第二皇子殿下と婚約破棄をしたそうだな」

「……はい」


 ラダベルは控えめに頷く。異様な緊張からか膝が笑う。体がすくみ、まともに息をするのも辛い。まるで体のサイズにぴたりと合った箱に収容されたかのような、窮屈感きゅうくつかんだ。ラダベルは、規則正しい呼吸を心がける。

 既に、ラダベルとアデルが婚約破棄をしたという噂は、様々な尾鰭おひれをつけて帝国中に広まっていることだろう。ティオーレ公爵は、短い溜息を吐いた。


「あれほど第二皇子殿下との結婚を望んでいたではないか。私が納得する理由を言え」


 ギロリ、と鋭い視線がラダベルに向けられる。全身の皮膚ひふ粟立あわだ威圧感いあつかんに、ラダベルは小動物さながらに震える。ティオーレ公爵は、彼女にさらなる圧をかけた。ラダベルは、乾いて機能しない唇を一度うるおし、大きく息を吸う。


「潮時、だと思ったのです……。これ以上、実りのない恋をしていても、私の幸せのためにはなりません。それに、第二皇子殿下もほかにいい女性を見つけたようですし、私ももうそろそろ現実を見ようかと」


 哀愁あいしゅうじみた表情で胸の内を打ち明ける。


(死にたくなかったから、だなんて言えない! それこそ頭が狂ってる娘だと思われてしまう!)


 ラダベルは心中で全力で叫ぶ。

 物語中のラダベルの結末を知っているのは、ラダベル本人である自分だけ。つまりは、自分の命を守れるのも自分だけということ。なんとしてでも、死のルートであるアデルとの婚約を破棄する必要があった。咄嗟とっさにそれらしい理由をつらつらと並べてみたが、ラダベルの父親である目の前の男は、悪女を生んだ親なだけあって、かなりの毒親だ。娘の説明を戯言ざれごとだと受け止めて、簡単には納得してくれないかもしれない。最大の難関を突破したのはいいものの、次なる問題が溢れ出てくる。ラダベルは長嘆息ちょうたんそくし、神の気紛きまぐれである運命という仕組みにあきれ果てた。ところが、運命は突然ラダベルに味方をする。そう、ほんの一瞬だけ――。


「そうか。良いタイミングだったな」

「……え?」


 ラダベルは弾かれたように顔を上げる。ティオーレ公爵はようやくペンを置く。積み上げられた紙束の山の中から、一枚の書類を引き抜き、こう言った。



「優良物件だ。嫁げ」



 ラダベルの頭上に、部屋を埋め尽くすほどの量の疑問符ぎもんふが浮遊する。ティオーレ公爵の言葉の意味が理解できなかったのだ。


(ユウリョウブッケン、トツグ……)


 胸中でティオーレ公爵の言葉を復唱ふくしょうする。右に左に首を傾げ、ふと目線を明後日の方向に巡らせた時、ひとつのひらめきが降りてくる。ティオーレ公爵は、ラダベルにはもったいないほどのいい男がいるから、その男の妻となれと言ったのだ。端的たんてきに言うならば、結婚。婚約ではなく、結婚。愛し合った男女が神の名の下で、永遠の愛をちかう、あの結婚だ。


(落ち着け、ラダベル。お願いだから落ち着いて!)


 自身に言い聞かせ、五回ほど深呼吸を繰り返す。


「お、お待ちください、お父様。それはあまりにも、」

「ただでさえお前は筋金入すじがねいりの悪女だと噂されている。結婚相手が見つからないまま、ティオーレ公爵家に居座り続ける気か? なんの役にも立たんお前をやしなうほど私は甘くはない。今すぐ嫁げ。これは命令だ、ラダベル」


 有無うむを言わさぬ圧力に、ラダベルは絶望に打ちひしがれた。世の終末を見た気分だ。もうなんなら、世界ごと滅亡めつぼうしてしまえと思ってしまった。それほど非道に突きつけられた現実に、失望したのであった。

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