XII. 騒動の行く末

「たのも——!」


 鬱蒼とした針葉樹林に囲まれた暗い森に、またしても響き渡った美女の声に、ぽっぽろ続く鳩の喧騒。

 驚いたカラスたちがばさばさと飛び立ち、苛立ち紛れの鳴き声を上げる中、棲家を荒らされた不和の女神は頭痛を抱えているかのように額を押さえていた。


「本当に、よく悪知恵が回る女だよ」

 エリスは呆れた口調で呟いた。


 無事に林檎を手に入れたウェヌスが、勝ち誇った態度で再び殴り込んできたのだ。騒がしい美女の襲来に、うんざりした様子で椅子にもたれかかる不和の女神は、とっくに林檎そのものに対する興味を失っていた。


「あんたが撒いた種でしょうが! 回収してやったんだから、感謝してほしいくらいよ」


「言っただろう、私は成り行きを見ているだけだ。後のことなんざ、知るかい」


 ふいっと外方を向くエリスの姿には、やはり天のいと高きところに陣取る自分勝手な最大神都の神々コンセンサス・デイの姿が重なるものだ。


「うん、あんたらやっぱり姉弟きょうだいだわ」


 ウェヌスの言葉に、エリスはひくりと片眉を引きつらせた。

 血は争えず親も選べないが、最大神都で大手を振るう面子と同列に扱われることには嫌気がさしているエリスである。

 それも似たもの同士と言ってしまえば、それまでなのであるが。


 ともあれ、これにて無事に林檎騒動は解決したと、この時は誰もが——それこそ、騒動を仕掛けた張本人までもが信じて疑っていなかった。

 しかし、一見些細な出来事と思われたこれが、後の古代史に語り継がれる地中海世界を揺るがした凄惨な歴史の、ほんの序章に過ぎなかったことを、たとえ神々でさえ知る由もなかったのである。


 エリスの黄金の林檎を手にとった者の行く末については、主に次のようなことが挙げられる。


 最初に林檎を手にした太陽の王子アポロは、成長してのち息子や恋人を次々と失う悲哀と悲恋に見舞われ、人々の崇拝とは相反して、その生涯を報われない情愛に翻弄されることとなる。

 林檎の持ち主となった愛と美の女神ウェヌスは、のちに人間との間に生まれる最愛の息子が常に何者かに命を狙われることに心と体を痛めながら、長年の恋人との仲までも引き裂かれ、世界一醜い男の元へと降嫁することとなる。


 林檎の審判者となった貧しい羊飼いパリスは、程なく意地悪な牧童たちと立場が入れ替わり、孤児と思われていた自身の出自を知ることになる。

 そして、これより十五年の時を経てウェヌスとの約束を果たす時、故国を滅ぼす十年に渡る戦火を巻き起こすのである——。


「これが、その林檎?」


「あ、触っちゃダメよ、ディアナ。碌なことないから」

 見舞いにやってきたウェヌスは、騒動の戦利品を携えていた。


 林檎は相変わらず褪せることのない黄金色に輝いていたが、ディアナは初めから触れる様子もなく、ただ暗翠色の瞳でしげしげと見つめている。


「ねえ、ウェヌス。もし、この林檎が噛み付いてきたらどうする?」


 突然、意味不明な問いかけを大真面目にするディアナの視線に、ウェヌスは何と答えたものか逡巡したが、しかし持ち前の明るさで笑い飛ばすことにした。


「林檎が噛み付くの? 面白い発想ねえ。林檎が噛み付いてくるなら、そうね、焼き林檎にでもしましょうか。ハチミツでも添えれば、それなりに美味しく食べられるんじゃないかしら?」


「ふふ、ウェヌスらしい」

 ディアナが珍しく無邪気な笑みを浮かべた。


「当たり前よ! たとえ、林檎のせいで両腕がもげたとしても、あたしはきっと胸を張って微笑んでいるわ。もしそんなことになったら、記念に彫像(※4)でも作らせようかしら?」


「腕、取っちゃうの?」

「その方が、何だか想像力が掻き立てられて楽しそうでしょ?」

「ふーん?」


「こら、そこは頷いておきなさいよ」

 クシャクシャと髪の毛を混ぜられて、ディアナは肩を竦めてクスクスと笑う。


 身分も権力も身寄りも、何も持たないウェヌスだが、豪胆な性格と朗らかな慈愛、そして絶世の美しい容姿だけは持って生まれた。それこそが、愛と美を謳われる彼女の最大にして唯一絶対の武器だ。


 ふと視線を上げて、ウェヌスの手にある林檎を見つめたディアナの両眼が、刹那、目の覚めるような翠色に輝いた。


「ディアナ……?」

 地中海の紺碧から珊瑚の浅瀬に向かう鮮やかな翠色、そこに若木の新緑を写し取ったような煌々とした瞳の中に垣間見えた底知れない神秘に、ウェヌスは息を飲んだ。


「アカイアの怨み、木馬が城を陥とす」

 それが、ディアナの先見であった。


「あ、ちょっと、ディアナ?」

 くったりと寝台の上にへたり込んだディアナを揺り起こせば、再び開いた眼は見慣れた暗翠色で、ふらふらと視線を彷徨わせると、遠く高峰カウカソスの岩山が聳える方角を呆然と眺めるのだった。


「ディアナ、大丈夫?」

 頭を撫でながら、そっと声をかけたウェヌスに小さな反応を示し、ディアナはこくりと僅かに頷いた。


 同時刻、遥か遠くカウカソスの刑場で先見を得たプロメテウスは、じっと緑色の瞳を伏せて深く嘆息し、そして、もはや自らの意思で行動を起こすことを諦めた。

 これより十五年の後、予言は正しく成就する。


 ——トロイア戦争。

 たった一人の美女を巡り、神も人も巻き込んだ十年に及ぶ激戦の末、一国が滅んだ古の出来事を、後世の書物はそう記す。



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※4 ミロのヴィーナス:

 エーゲ海南西部に位置するミロス島で1820年に発見された両腕のない古代ギリシャの女神像(制作そのものは紀元前2世紀頃のものとみられている)

 多くの芸術家が失われた腕の復元に挑み、おそらく左手に林檎を携えていたであろうと考えられている。(現在はフランス、ルーブル美術館に保管展示されてるよ)

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