XI. パリスの審判

 翌日の正午。

 果たして貧しい羊飼いの少年の前には、この世の光を全て集めたかのような美しい女神たちがうち集うこととなった。

 剥き出しの林檎を両掌に包んで、あんぐりと口を開けたまま立ち尽くす少年は、瞬きの仕方すら忘れてしまったかのようだ。


「こんな綺麗な女神さま、初めて見た」

 素直に感嘆する少年の眼差しは澄んでおり、それは正しく純真無垢であった。


「此度の審判じゃ、各々名乗るがよい」

 いつの間にか、パリスの背後には先日の老人が佇んでいた。


「おじさん!」

 しかし、今日は全身から迸るような覇気を帯びていて、まるで世界を統べるという神々の王のようだ——という少年の感情の機微までが表情を通して全て明らかだ。


 何も知らない牧童の目の前に突然現れた女神たちは、天帝の促すままに従い各々に名乗りを上げた。


 最初の女神は、天帝の妃であると言挙ことあげ、自分を選んだ暁には人の世の権力を約束すると告げた。居丈高ではあったが、その姿は威厳と気品に溢れていた。

 二人目の女神は天帝の娘であると言挙げ、自分を選んだ暁には人の世に二人と並ぶ者のない勇気と英知、生涯に渡る武運を授けると告げた。だからこそ、賢い選択をしなさいと宣った姿は凛々しく、聡明であった。


 三人目の女神は、目が合うとにっこりとパリスに微笑みかけた。まるで、陽の光を受けて輝く水面のような笑みを向けられたパリスは、思わず頬を染めて視線を逸らす。


「オレ、選べないよ」

 少年は心の底から素直であった。三者三様の美しさを讃える女神たちに戸惑い、両手に包んだ黄金の林檎をギュッと抱きながら畏れ怯える仕草からは、それが嘘ではないことが窺える。

 女神たちが約束した褒美の数々も貧しくしがない牧童には、まるで雲を掴むような話に聞こえ、パリスは両手に抱えた林檎に視線を落として途方に暮れた。


 実際に神々を前にして、この選択が決して生やさしいものではないことを実感したパリスの枝のように細い手足が俄かに震え出す。

 周囲が重苦しい沈黙に包まれた時だった。

 上空を一羽の鷹が鋭く鳴いて横切り、それに驚いた羊たちが俄かに嘶いて偶蹄を打った。


 その場の全員の意識が削がれた一瞬の隙をつき、一条の光の速さで飛んだ黄金の矢が過たずパリスの胸をひと突きした。

 最高神の誉高い天帝の目にすら捉えることのできない飛距離と光陰のごとし矢、それを寸分の狂いもなく放ったアモルの一射は、まさに神技といえた。


「その林檎が大事?」

 ウェヌスがゆったりとした口調で少年に話しかけた。

 おずおずと顔を上げた少年は、恐る恐る頷いて、両手の林檎をぎゅっと胸前に抱きしめた。


「命よりも?」

 そう尋ねられて、パリスは青ざめたままびくりと細い肩を竦ませた。


 先に言挙げた女神たちもじっと鋭い視線を黙って差し向けており、自分の背後に立っている老人は何一つ干渉しようとしない。その中で、唯一、穏やかに微笑んでいたウェヌスに、パリスは意を決してもう一度頷いた。


「オレ、父ちゃんも母ちゃんもいないんだ。友達もいない。羊たちだって、親方のだ。この林檎は、オレが生まれて初めて貰ったものなんだ」


 訥々と必死に訴える少年からは、悲哀が滲み出ている。ただの貧しい牧童にしてはいささか不釣り合いな風格を備える紅顔の少年が、どんな境遇で過ごしてきたのか、神々の目にはそれだけで十分に理解できた。


「そう。あたしも独りぼっちよ。親の顔なんか知らないし、財産と呼べそうなものは、この身一つくらいよ」


「そうなの?」

 少年は驚いて瞠目する。

 目の前で光り輝く美貌の女神は、肩を竦ませて明るく微笑んでみせた。美女の背後には、呆れた様子で鋭く睨め付ける女神たちの無言の圧が迫っていたが、陽気な女神は気にしていない。

 それでも、少年はじっと目の前の女神を見つめて耳を傾けた。


「あたしには権力や武力はないけれど、もしその林檎をくれるなら、あんたには、お嫁さんを与えてあげるって約束する」


「お嫁さん?」

 少年の無垢な瞳が一層大きく見開いた。


「そうよ、あんたの為だけの、とびっきり可愛いお嫁さん」

「オレの為だけの……」

 一言一句、ウェヌスの言葉にじっと耳を傾けていたパリスは、どこか夢見心地で譫言のように呟いた。アモルの矢の効果が効き始めたらしい。


「ただし、今から準備するから、十五年くらい待ってちょうだい」


 堂々と宣ったウェヌスの言葉を背後の女神たちはもはや嘲りに近い表情で聞いている。

 既に勝ちを確信しているような物腰で佇んでいる女神たちの思惑とは異なり、無垢な羊飼いの少年は、短く吹き出して可笑しそうに声を上げた。


「面白いことを言うお姉さんだな!」

「ちょっと、を付け忘れてるわよ!」


 陽気な美女の軽口に、益々可笑しそうに腹を抱えて笑い出した少年は、心底楽しそうに見えた。一頻り笑い終えた少年は、改めて息を整えながら三柱の女神に順番に曇りのない視線を移した。


「さあ、少年。審判の時だ」

 頃合いを見計らったように天帝が少年の肩に手を置いた。

 促されたパリスは一度まぶたを伏せて大きく深呼吸をすると、迷う事なくウェヌスの前に進み出て林檎を差し出した。


「ありがとう!」

 黄金の林檎を受け取ったウェヌスは、誇らしげに微笑んでみせた。その姿は確かに純粋にして純然たる愛と美を称えていた。


「何て愚かな少年なの! 十五年も待って女一人を得る事を選ぶだなんて。わたくしの与える権力ならば、今すぐにでも手に入ろうものを!」

 ユノが両眼を見開き、怒りに震える声音で叫ぶ。


「権力など、時の流れで幾らでも変わるというもの。わたしの贈り物ならば、一生涯その身を離れる事はないというのに」


 怒り狂うユノに冷ややかな一瞥をくれながら、ミネルヴァは不満を滲ませた口調で肩を怒らせる。賢い選択をしろと伝えたにも関わらず、やはり人間とは愚かなものだと切り捨てた。


 何をどう足掻こうと、既に林檎はウェヌスの手中にあり、パリスもまた二柱の女神の反応を見て、内心では正しい選択をしたと納得していた。


 かくして、審判は下された。

 ウェヌスの勝ちだ。


 怒りに身を震わせて落雷の如く姿を消したユノに続き、用は済んだとばかりにミネルヴァもユピテルも後に続いた。

 残されたウェヌスと少年は遥か天空を見上げ、どこへともなく見送った。


「ありがとう。えーっと、名前は?」

「パリス」

 そう答えた少年に、ウェヌスは自分の耳に付けていた飾りを片方だけ外して手渡した。黄金色に輝く貝殻と雫の連なる一見して意匠を凝らした耳飾りを、少年は不思議そうに見つめている。


「綺麗だなぁ」

「大事にしてね。もう片方は、あんたのお嫁さんに授けるわ、それが約束の証よ」

「本当に?」

 パッと頬を紅潮させる少年の瞳には、嬉々とした高揚が見て取れた。


「だから、失くすんじゃないわよ?」

「失くさない! 絶対失くさないよ、オレ!」


 少年はこの時初めて満面の笑みを浮かべて喜んだ。

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