X. ウェヌスの悪知恵
ようやく審判が下るというので集まった三女神は、三者三様の怪訝な表情を浮かべていた。
そんな中、しばしの放浪より文字通り舞い戻った天帝ユピテルは厳しい表情で玉座に着いているが、肝心の林檎はどこにも見当たらない。
「それで、どう決裁なさるおつもり?」
同席した女神らと同列に扱われることが気に障っている様子のユノが次第に怒気を滲ませて眉を吊り上げても夫の方は表情を崩すこともなく座している。
「此度の審判は、利害のない外部の者の手に委ねた」
「どういう事です?」
おもむろに口を開いたかと思えば、まるで匙を投げたかのような発言に、ミネルヴァも訝しむ素ぶりを隠しもせずに両腕を組んだ。
「これより、三柱は人の子の地へと下り、そこで審判を受けることとする。場所は小アジア中西部プリュギア南部に位置するイダの山頂とする。林檎もあらかじめ、そこに用意しておくものとする」
「まあ、随分と手の込んだ事を」
いたずらに審判を先延ばしにしたかと思えば、人の子の地に場を設けたという夫に、ユノは呆れたと漏らしながら肩から垂らした
なぜ、わざわざ人間の領分へ足を踏み入れる必要があるのか、ミネルヴァも承服しかねる様子で、じっとユピテルに視線を注いでいる。
「これは決定事項じゃ。審判は明日の正午、遅れた者はその時点で失格とみなす。良いな」
各々身支度があるだろうと言い置いて、ユピテルは早々に玉座の間を退いた。しかし女神たちを振り切った天帝の
「ちょっと待って、どういうことよ! あの林檎を、人の子の手に委ねたっていうの !? 」
それまで玉座の間では黙っていたウェヌスが、何一つ臆することなく天帝の誉高き最高神の行き手を阻み詰問する。その魅惑の両眼には明らかな憤りが見て取れた。
「冗談じゃないわ! あの林檎は、エリスが寄越した曰く付きの林檎よ。一連の騒動に関係のない人間を巻き込んで、どうするのよ!」
「……」
憤慨するウェヌスの視線の先で、ユピテルはピクリとも眉ひとつ動かすことなく黙している。
その態度で、ウェヌスは全てを察した。
「初めから知ってたのね、あの林檎の正体を」
ウェヌスは愕然とした様子で、軽蔑の眼差しを向けた。
知っていて三女神にも黙って、神々の騒動など知る由も無い無関係な人の子に払い下げたのか、あの呪われた林檎を。
天帝ともあろう最高神、自らが!
「何てことを……信じられない、最低だわ」
そう吐き捨てて、ウェヌスは天帝宮を飛び出した。
どうせ、一連のやり取りを元凶である性悪女に見られているのだ、構うこともない。本人に直接確かめたウェヌスが、何としても二女神を出し抜いて曰くの林檎を手に入れる——それが最も穏便にことを納める手段だ。
「やっぱり、手っ取り早く買収よね?」
悪知恵が働くと自負するウェヌスは、ぶつくさと歩きながら長い髪を無造作に搔き上げる。
「ウェヌス様、本日も麗しくあらせられ……」
「あら、こんにちは。いいお天気ね」
女神に気軽に声をかけられた老若男女が多幸感とともにひれ伏してそこらに倒れ込む。
一応は神なる力の持ち主の端くれである絶世の美女神ウェヌスは、割とこういった気さくな姿で歩き回っているところを目撃されることも多く、その度に目撃者を次々と一時的に再起不能にする面白い女神だ。
「あー、いたいた。ウェヌスが通ったところだってすぐわかるから便利だよね」
頭上から聞こえてくる無邪気な声にふり仰げば、子分のアモルが背中の羽を忙しなく羽ばたかせて舞い降りてくる。
ついでに振り返ると、辿ってきた道々の端に幸せそうに転がっている老若男女がポロポロ落ちていた。
「いつも思うけど、みんな楽しそうねえ」
「いや、あれ、ウェヌスのせいだから!」
アモルの背負っている矢筒の矢羽の数が減っている。またどこぞで弓矢を遊んできたのだろうとウェヌスが察したとおり、アモルは上機嫌だった。
「乱打も程々にしときなさいよ」
アモルの矢は百発百中の恋愛成就と破局の矢だ。うっかり被弾でもしようものなら、たとえ神でも無傷では済まない。
「勿論さ、今日はアポロと一緒に的当てしてただけだよ!」
くいっと親指で後方を指し示す生意気な仕草の先に、手にした弓を大きく振りながら駆け寄ってくる少年の姿があった。
「ウェウス! こんにちは!」
この悪童たちめ、とウェヌスは柳眉を顰めはしたが、敢えて小言は控えた。
「ディアナは元気? 近いうちに顔見に行くから、よろしく言っといて」
「うん、ありがとう」
ウェヌスもまた、誰もが畏れる天帝の離れ屋に、臆する事なく上り込む物珍しい一人である。実母よりも双姉を定期的に見舞う妖艶な美女に、アポロもまたよく懐いていた。
そのまま美女神の自宅まで気軽に付いてきた子分とその友人を招き入れ、ウェヌスはどっかりと寝椅子に横たわった。怠惰なその様子は、しかし
「そういや、林檎対決どうなったのさ?」
アモルは興味津々と言った様子で、身を乗り出して尋ねてくる。そこらの乙女たちよりも余程、恋愛体質なのだ。
「林檎って、あの黄金色の変な林檎のこと? ぼくも気になる」
「何たって、あの
悪童たちの視線を受けて、ウェヌスは深々と溜息を吐いた。
「面白がってんじゃないわよ、まったく」
ペシペシと額を小突かれても少年たちは嬉しそうだ。
何があったのか食い下がる二人になるべく穏便に掻い摘んで事の次第を話したところ、それでも二人の予測を遥かに上回る衝撃的な内容だったようでアモルは驚嘆して反っくり返った。
アポロもあんぐりと口を開いたまま微動だにせず、しばらくして我に返ると、分かりやすく
「いい加減が服着て歩いてるみたい……がっかりだよ」
「気の毒な人間だなぁ、誰に渡したって恨まれそう」
アモルが肩を竦めると、背中の矢筒がカタリと鳴った。
「でも、美人を選ぶんでしょ? 純粋に美人って言うなら、ぼくはウェヌスが一番だと思うけどな」
アポロがそう口にすれば、ウェヌスは鼻先で一笑に付した。
「あの二人が、素直に美貌だけで勝負するはずないでしょ。これは負けられないオンナの戦いなのよ」
何せ、自負と自尊心だけは天よりも高い天帝妃とその義理の娘だ。
「美貌差し引いたら、益々ウェヌスに勝ち目ないじゃないか。それしか無いのに……あいてっ」
今度は拳でこつりとやられた口の減らないアモルが、そのままひっくり返って脳天を抑える。アポロが思わず手を貸して「大丈夫?」と尋ねれば、答える代わりにアモルは背中の羽をパタパタさせた。大丈夫そうだ。
「で、どうすんのさ? ウェヌスがなますにされる姿は、正直、見たくないなぁ」
脳天を抑えたまま半分涙目になっているアモルが溢せば、ウェヌスは「そこなのよねぇ」と顎に手を当てて思案顔を見せる。
「アモル、あんた腕に自信ある?」
「何だよ、その失礼な聞き方は?」
頭頂部をさすりながら不服そうに唇を尖らせたアモルが見上げると、ウェヌスは蠱惑的に唇の端を引き上げた。
この美女の残念な性格を承知していても、思わず魅入られてしまいそうになる笑みだった。
「じゃあ、明日の審判の時、一発よろしく頼むわ」
「は……? え、まさか」
美女の微笑みの裏に隠された思惑を瞬時に理解したアモルが口ごもる間も、ウェヌスはにっこりと太陽も霞むような輝く笑みを浮かべている。
「あたしは愛と美の女神であって、正義の女神ではないのよねえ」
ほうっとあざとい溜息を吐く姿でさえ艶やかなウェヌスである。
「いや、ウェヌス。曲がりなりにも
至極真っ当な指摘をする子分の言葉にも何のその。ウェヌスは相変わらず目も眩むような憂い顔を返す。
「何よ、あたしがなますにされてもいいって言うの?」
「……」
林檎を勝ち取った暁には、容赦のない天帝妃ならやりかねない。そして、叡智と正義の女神が下す鉄槌もまた然りだ。
容易に想像できるだけにアモルはサーッと青褪めた。
「本気かい、ウェヌス?」
まだ子どもでありながら同じ十二神に名を連ねるアポロも半信半疑だ。
しかしながら、ウェヌスは本気だ。
同じ曰くの林檎に触れたアポロの手前、林檎そのものについての仔細は敢えて割愛したのはウェヌスの優しさだ。
最も中央集権から離れた気楽な独り身であるウェヌスが呪われた黄金の林檎を手に入れる——それが一番安全で確かな解決方法なのだ、現状では。
その覚悟だけはアモルにも伝わったのだろう、逡巡したものの最終的に少年は一度頷いた。
「分かった、やるよ」
「外したら
「言い方!」
何だかんだと馬の合う親分子分の掛け合いを見ながら、アポロは神妙に口を開いた。
「だけど、あの父上たちの前だよ。さすがに誤魔化すの難しいんじゃない?」
最大神都で最も権力と権威を誇る面々が揃う場であり、歴戦を経た天帝と、現在進行形で軍事に携わる娘の目を欺くのは容易ではないはずだ。
「ぼくの鷹を貸すよ。一瞬でも視線を逸らせたら、アモルの腕なら間違いないでしょ?」
その代わり、今日の勝負の結果は持ち越しね、といたずらっ子のように笑ったアポロに、「ずるい!」とアモルはぷっくり頬を膨らませた。
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※3 インドのサリー、古代ギリシャのヒマティオン、古代ローマのトーガの原型となった大型長方形の体に巻き付けるタイプの外衣。
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