IX. ユピテルの放浪
そうして、
林檎は相変わらず宮殿の最奥で人知れず眩いばかりの黄金色に輝き、然るべき時を待っている。
ユピテルの深い溜息は今日も続いていた。
「貴方、一体いつまで決裁を引き延ばすおつもりかしら!」
このところ連日のように急き立てに来るユノ妃が、今日も畏れ多くも天帝に新たな頭痛を植え付ける。自尊心を傷つけられたままである天帝妃のヒステリアは、日増しに強くなっていく一方であった。
「ミネルヴァだけでも嫌なのに、あの卑しい女まで同等と思われているのは我慢なりませんわ! ああ、あの
ユピテルの側に控えていた者も、ユノに付き従ってきた侍女も青褪めたまま一言も発することなく立ち尽くしている。
気に入らない女を悉く破滅させてきた実績のあるユノの発言だ、冗談に聞こえないのはユピテルとて同じだ。しかし、迂闊にあの林檎に手をつけるのは自殺行為でしかない——本能的に察していたことが先日のディアナの先見で確信に変わったのだから尚更だ。
通常であれば、正妻の機嫌不機嫌には干渉しない姿勢を貫くユピテルだが、連日連夜続くこの状況に、この時ばかりは感情の抑えが効かず怒鳴り返していた。
「少しは静かにできないのか! 口汚く罵る前に己を律したらどうなんだ!」
一喝はもれなく天帝自身にも跳ね返った。
「ま、まあ……っ」
そして思っても見なかった反撃を喰らい、ユノは咄嗟に身構えて数歩後退った。
向けられたのは紛れもない玉座にある者の覇気だったのだから驚きもする。人間ならば当てられたら一溜まりもない天帝の心底の怒りに触れたことを理解したユノは、その瞬間に荒れ狂っていた感情を腹に収めて譲るしかなかった。
「あ、貴方、その……」
さしものユノ妃も
「構うな。しばし席を外す」
重苦しい沈黙が降る中、重い腰を上げた天帝は足音までも重々しく出て行った。
退席する天帝を前に、いくら正妻とはいえユノも
そのまま書斎にでも引き籠るかと思われたが、本当に自宮を抜け出したユピテルは、自身の象徴鳥である大鷲を召喚し、そのまま神都の空を飛んだ。
「……」
自らの子に滅ぼされる予言を受けた
兄弟たちは悉く先王の手に掛かり、姉妹たちは悉く幽閉される状況を憂いた母親の精一杯の抵抗が、ユピテルを無事に産み育てることだったからだ。
生まれた直後から呪いのように言い含められてきたとおり、ユピテルは血も涙もない父親を倒して血生臭い玉座に着いた。だが、いざ自分がその座に治ってみて思うところがあるのもまた事実だ。
俄かに感傷に浸っていると、突然大鷲がグワと鳴いた。
「おい、どうした」
順調に目指していたはずのクレタの島は何処へやら、広々とした大地が続く中、大鷲はゆっくりと旋回し、やがて何処ともなしに山頂付近へ着地するとユピテルを振り落とさんとするように羽繕を始めた。
「全く、お前も気まぐれなやつだ」
ユピテルは少し離れたところへ歩を進めた。
見晴らしの良い拓けた頂きに立ち神なる力をもってして視野を広げ俯瞰した世界には、二つの海峡がそれぞれ三つの海を繋いでいた。
近場からエーゲ海とプロポンティス海(※1)に隔てられた陸地は半島型に突き出し、その北西部南側——小アジア一帯であることをおおよそ把握した。
人の子の都市国家が点在する中、一際眼を引いたのがヘレスポントス海峡(※2)沿いに内地に少し入り、二つの川に潤された平野を見て小高い丘陵を活かした立地——人の子の住まう王城を中心とする堅牢な要塞都市であった。
「ほう……。トロイアの城郭か、壮観じゃな」
海神ネプトゥヌスと息子アポロが模型を手がけるかの如く嬉々として創建に力を貸した要塞だ。もっとも、はじめは鎮まらないネプトゥヌスへの懲罰としてユピテル自身が命じた労役だったはずなのだが……。
そこから視界を絞っていくと内陸中央高地に至った。そこにも人の子の都市国家が展開されている。トロイア王家へ嫁いだ王妃の出身でもある中西部の王国プリュギア——その都市を北に見ているとなれば、地理的に南部のイダ山に降り立ったかと当たりと付けたユピテルは、そこで力を収めた。
しばし眉間を指圧し、それから周囲を見回して丁度良い按配の
気まぐれにも故郷の山と同じ名を冠する人の子の領分に降り立つとは……しかし、なかなかに悪くない。
とはいえ腰を落ち着けて程なく、のしかかる精神的な重圧にぐったりと力が抜け、深々と項垂れるのであった。
それはもう最高神の誉れ高い天帝の姿とは到底思えない丸まった背中には威厳の欠片などなく、この時ばかりは、まるでその日暮らしに彷徨う野辺の人のようにすら見えた。
「あれ、おじさんそこで何してるの?」
不意に軽やかな少年の声がして顔を上げたユピテルは、心底驚いた。そして、それは声を掛けてきた少年にも伝わってらしく、彼はふわっと害のない笑みを向けて明るく続けた。
「怪しい者じゃないよ、オレ、羊飼いなんだ。いつもこの辺まで牧羊に来るんだよ」
「そうか、大義じゃな」
害のある者か否かくらい一瞥で見抜く眼を持つユピテルだ、そのままゆっくりと肩の力を抜いた。
一方で少年は、ユピテルの正体に気付く素振りもない。恐らくは神々の姿など実際に見たこともない人の子なのだろう。
羊飼いだという少年は、身なりこそ確かに貧しいが、なかなかどうして不思議と人の子の長を彷彿とさせる容姿と雰囲気を纏っている。
「この地の者か?」
「うん、イダの麓に捨てられてたんだ、オレ」
所謂、
警戒心のない朗らかな少年は、とても無垢で好ましい。
「少年、名前は?」
「羊飼いのパリス」
そう答えた少年は、まだ声変わりすらしていない。無邪気で素朴な笑みを浮かべながら羊飼いの杖を楽しそうに振って見せ、毎日羊に囲まれて暮らしているという。
「そうか、大変だな」
「毎日、こんなもんさ。こいつら、よく食うし、のんびり屋だから」
それに、
やはり、そこはかとない由しを感じるのだが、同時に利害や我欲とは無縁な素朴な少年の純粋な感性を、ふと試してみたくなった。
「パリスと言ったな。この世で最も美しい者を、見てみたくはないか?」
「え、何だい、突然?」
キョトンと小首を傾げる少年は、不思議そうに瞬きを繰り返す。
「言葉のとおりじゃ。この世で最も美しい者を、選んでみたくはないか?」
「オレが?」
「そうじゃ」
ユピテルは徐ろに頷いた。
「そ、そりゃ、見られるなら見てみたいけど……」
気圧されたようにパリスは口籠る。
突然、パリスの日常に現れた素性の知れない老人は、しがない牧童にとって更に理解に苦しむ事を言い始めた。
「ならば、明日、黄金色に輝く林檎と、三人の美女を送り届けるから、お前は一番美しいと思う者に、その林檎を手渡し、見事選んで見せよ。勿論、褒美も取らせよう」
「な、何だって?」
目を白黒させる少年の目の前で、ユピテルは本来の天帝らしい振る舞いに立ち戻ると、呼び寄せた大鷲に跨り、颯爽と大空に飛び上がった。
わっと驚くパリスの目の前で、実に晴々とした様子でユピテルは悠々と空を駆け戻っていったのである。
「オレ、夢でも見てたのかな」
堂々と白昼夢を見た心地で呟いたパリスは、暫く呆然と大空を見上げていたが、やがて日常へと戻っていった。
しかし、その翌日。寝て覚めた一人の貧しい羊飼いの少年の元へ、黄金色に輝く林檎は確かに届けられたのである。
「へぇ、本当に届いた」
箱の中で眩く輝く林檎は、完璧な美しさを保ったまま、少年の目の前で厳かに煌いていた。
「綺麗だなぁ」
寝藁の隣に置いて、無邪気に林檎を眺めていると、ふと外壁にべちべちと何かをぶつけられる音と共に、大声で囃し立てる子どもたちの声が聞こえてきた。
悪童と専ら言われている親方の息子たちだ。
彼らは事あるごとに、小柄で生っちょろい余所者のパリスを小突き回しては悪態をつく。そして、汚い孤児と囃し立て、弱虫だ、非力だ、臆病者だと散々言いたい放題に言い散らかして行く。
パリスはじっと、気の済むまで暴言を吐いた悪童たちがどこかへ行くのをただ黙って耐えて待つのだ。
「ねえ、林檎。確かにオレには、父ちゃんも母ちゃんも居ないけど、それってそんなに悪い事なのかな」
オレだって、いつか家族がほしい。
誰か一人でいいから、側にいて欲しい——涙を堪えながら
わっわと驚いたパリスが思わず目を瞑れば、林檎はとうとう自分を閉じ込めていた頑丈な箱を内側から破壊して飛び出してきた。神々の鍛冶屋、ヴルカヌスの作った鉄壁よりも硬い箱を、いとも簡単に。
「へぇ、凄い林檎だな」
パリスは素直に驚いて、そして剥き出しになった林檎を大事そうにそっと両手で掬い上げた。
-----
※1 現在のマルマラ海(トルコのヨーロッパ側とアジア側を隔てる内海)
※2 現在のダーダネルス海峡(エーゲ海とマルマラ海を繋ぐ海峡)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます